2019/2/18  22:52

団塊の世代  昭和史
昨日、故堺屋太一氏の葬儀があった。政財界・文化人の多くの参列者があったようだ。通夜には総理大臣も参列している。通産官僚時代には昭和45年の「大阪万博」のプロデュースもしている。退官のあとは旺盛な知識で作家として多くの作品を残した。筆者には『日本とは何か』(1994年・講談社文庫)は繰り返し読んだ。自然横溢な四季という気候風土、島国という地理的風土がもたらした稲作農耕を淵源とする国民性を豊富な史料で解説。今も「日本人論」のバイブルとしている。堺屋氏と言えば「団塊の世代」の名付け親。昭和21年ごろ多くの生き残り兵士が帰国したからだが、昭和22年〜24年生の人口が突出していることを指摘した。

この団塊世代は多くの作家・文化人を輩出している。宮本輝・ノーベル文学賞候補の村上春樹、北野武、鳩山兄弟など。先頃亡くなった橋本治は23年生、“大”のつく流行作家ではなかったが、日本の古典に通暁している知識人だった。「止めてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている、男東大どこへ行く」のポスターが有名。同じく昭和23年生の連城三紀彦(2013年没)も隠れたファンの多い美文の直木賞作家だった。連城は7冊の文庫本を所持。「宵待草夜情」を読み返していた。なぜか明治時代・大正時代に詳しく抒情あふれるものでミステリー作家の域を超えていた。太平洋戦争で亡くなった才能のある若者の生まれ変わりとも思えて、その才能は勿体ない。

蔵書63 講談社現代新書03

◇0352『「気」の構造』赤塚行雄 昭和49年
◇0355『官僚の構造』藤原弘達 昭和49年
◇0363『種田山頭火─漂泊の俳人』金子兜汰 昭和49年
◇0367『家族とは何か』青井和夫 昭和49年
◇0372『日本語のこころ』渡辺昇一 昭和49年
◇0378『たべものと日本人』河野友美 昭和49年
◇0382『塩の道』平島裕正 昭和50年
◇0385『精神の危機─病める現代人に向けて』平井富雄 昭和50年
◇0387『日本人の周辺』加藤秀敏 昭和50年
◇0396『「うき世の」思想─日本人の人生観』橋本峰雄 昭和50年
◇0401『ふるさと考』松永伍一 昭和50年
◇0403『日本人の発想』神島二郎 昭和50年
◇0406『日本的思考の原型─民俗学の視角』高取正男 昭和50年
◇0408『動詞人間学』作田啓一+多田道太郎 昭和50年
◇0410『日本人の言語表現』金田一春彦 昭和50年
◇0413『超越者の思想─神と人との出会い』会田雄次 昭和50年
◇0424『律令制の虚実』村井康彦 昭和51年
◇0432『日本近代二百年の構造』謝世輝 昭和50年
◇0436『知的生活の方法』渡辺昇一 昭和51年
◇0438『日本人の心情心理』荒木博之 昭和51年

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2019/2/16  23:09

戦争未亡人  昭和史
新元号が愈々いわゆるカウントダウンの段階。「平成」は30年だ。ざっくばらんに男女の寿命を90年とすれば、一世代は30年となる。面倒なので今年を昭和94年にすれば30年前は、筆者は45歳。母親を養育し年間100万円のローン支払いに明け暮れていた。60年前は15歳で昭和34年。その昭和34年は上京後3年目で中学3年生だった。丁度今上天皇が挙式した年。

このブログに書き込みをしてくれるE氏は36年生というから昭和56年頃が東海大学の学生だったことになる。筆者とは17歳違い。そろそろ定年を意識する年代だろう。筆者の昭和36年は、定時制高校2年生、柏戸・大鵬が横綱昇進、日活の人気俳優・赤木圭一郎が事故死した。映画・演歌が全盛だった。

E氏が指摘した金目駅交差点脇の「宮田屋」は(いき出版の画像)雑貨屋で戦後からずっと営業していたように思う。当時はコンビニもスーパーも無い時代、魚は魚屋、肉は肉屋、雑貨は雑貨屋、文具は文具屋、八百屋と米屋は無かった。何故なら昔の中郡金目村の大半は専業農家だった。

E氏の言う「宮田屋」の女将さんは多分「キヨ」さんと云い、筆者の母親と小学校の同級生。キヨさんは倅に先立たれたあと店を畳んでどこかの施設に入所したらしい。生きていれば大正7年生、101歳になる。共通するのは戦争未亡人であること。母親のクラス会名簿をみると男性の三分の一は戦死。幕末から明治時代に排出したエリート軍人が昭和の戦争を起こし、大正時代に生を享けた者がいちばんの犠牲者だった。司馬遼太郎をして「私は不覚にも大正時代に生まれてしまった」と嘆いた。

筆者の母親は再婚して義父が個人破産。貧乏になる為に再婚したようなもの。キヨさんは亡き亭主の弟と再婚、精神薄弱児が生まれたと聴いている。同級生の男性は無論、女性の仲間も多くが戦争被害者だ。一時代が過ぎたので母親もキヨさんも、この告白を許してくれるだろう。当時「戦争反対」などと言ったら非国民と罵られた時代。徴兵を拒否できない仕組みになっていた。そうした筆者の上の世代を安易に批判するのは、筆者の一回り下の世代。今の価値感の正義・理想など通用しない時代だった。

戦前の日本は、70%が農林漁民、90%が貧民だったことを知るべき。貧しければ正義も理想も人権も無い。貧しさから逃れるための追い込まれた戦争だった。だが始めたら終わりがある筈。何故引き際を考えなかったのか。軍人・政治家・言論メディアは責任が重い。為政者に騙された国民にも聊かの責任がある。だがいま戦争を“絶対悪”と切り捨てて戦前を批判することほど容易いことはない。人間が選ぶことのできない時代の運命を批判するのは長閑で傲慢でしかない。

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2019/2/3  16:22

慰霊と和解の旅路 終  昭和史
インパール作戦<TBSブリタニカを参照>
第2次世界大戦中の日本軍のインド進攻作戦の名称。1944年3月6日、牟田口廉也中将指揮下の第 15軍が、ビルマからチンドウィン川を渡って、二手に分かれインパール、コヒマを目指した。日本軍には、チャンドラ・ボースのインド国民軍が参加した。日本軍は6月 22日まで、インパールを 88日間にわたって包囲したが、20日間の糧秣・武器は底を尽き、補給は皆無、第 31師団長佐藤幸徳中将は撤退を決意、33師団柳田元三中将も作戦中止を上申。日本の戦線が伸び切ったとき、イギリス・インド軍の W・スリム中将指揮下の第 14軍は攻撃に転じた。空軍による豊富な物量を投じて日本の全軍を壊滅させ、インパールの防衛に成功した。イギリス・インド軍の死傷者は18000人に対し、日本軍は、戦死または行方不明22100人、戦病死 8400人、戦傷者約30000万人と推定される損害をこうむった。この作戦の失敗は、のちにビルマ防衛戦の全面的崩壊をもたらした。
                    ◇◇◇
およそ太平洋・大東亜戦争の負の遺産としての司令官はこのインパール作戦の牟田口廉也中将が最右翼。東京裁判では7人の絞首刑を含む28人がA級戦犯。牟田口は東京裁判では多くの日本兵を死なせて連合国へ貢献!?したので何の罪にも問われなかった。

中央の作戦本部に採用されなかった焦りから勲功欲しさに牟田口の現実を無視した作戦が強行された。インド東部とビルマ西部の雨季までの作戦で20日間の食料と弾薬のみで、兵士が独り20〜50キロを背負い、道なき道を行軍した。戦闘最前線の兵站(へいたん 食料・武器の調達)は全く無視された。隷下の31・15・33師団の師団長は理知的で全員が反対だった。だが上官の命令は絶対服従で逆らえない仕組みだった。軍人なのだから戦争そのものを拒否できる筈もない。31師団の佐藤幸徳中将の言う“バカの4乗”がこの作戦を許可・実行した。この馬鹿とは大本営(参謀本部)、南方軍、ビルマ方面軍、第15軍のこと。

◇参謀本部 杉山 元陸軍元帥は昭和20年09月ピストル自殺
◇南方軍 寺内寿一陸軍元帥(寺内正毅首相の子)は昭和21年病没。
◇ビルマ方面軍 河辺正三(まさかず)は終戦間際に大将。昭和40年病没。
◇第15軍 牟田口廉也陸軍中将 昭和41年病没。

“敵”と戦う最前線の兵士は当初から物理的に勝算の無い作戦だった。牟田口は必勝の信念のみの精神論一辺倒の軍人だった。哀れなのは職業軍人でない一般兵士。愚将の命令でジャングルを行進、肉弾戦を強いられ、90%以上が犠牲、しかも大半が病死・餓死だった。その遺骨は収集されないまま、今もビルマのジャングルに埋もれている。前述のように愚将ほど長生きしたのが日本の軍人の戦後だった。しかも軍人恩給はたっぷりだった。

筆者の知る「インパール作戦」は若手の評論家・古谷経衡の言う“座学”の読解に過ぎないが、物理的事実に基づかない願望論と数字が物語る現実論の区別はつく。(終)

添付はインド東部ナガランド州コヒマのイギリス軍墓地。
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2019/2/2  9:16

インパール 慰霊と和解の旅路18  昭和史
インパール 慰霊と和解の旅路 終

チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の民族構成を見ると理解できるようにその大多数はいわゆる普通イメージする色の黒いインド人、英軍から捕虜になって寝返り日本軍に参加したセポイ兵、プンジャブ民族等インド本土出身の兵隊達で、インド人はヒンズー教、ナガランドはキリスト教で人種も違い、インド人は1000年も昔からナガランドやアッサム地方、マニプール王国までも侵攻して来たと言う歴史背景があり、インドとは一線を引いているのです。インド兵達は現地人を当然差別していますから、協力をするのに躊躇していました。

又インド軍と日本軍の兵士達は全く別々に分けられており、実際に兵士同士が日常交流する事は出来なかったようです。寝食共にせず区画を作って駐屯していたのですから、日本兵達も全く戦況を把握するのは困難だったと思われます。民族の違いの実情とは、実際に現地に行って聞き出さないと理解出来ない歴史的背景と複雑な民族の事情が存在しています。

今まで過去7年間、実際に現地と私とが繋がるようになってその基盤が出来、ビルマ作戦協会の支部が出来ました。 名称を「第二次大戦インパール作戦ファンデーション」と変更、飛躍的な発展を遂げました。この経緯があって2014年から日本大使館が「インパール作戦」の重要性を認識し始めたのです。

私は国際電話で何回もこの意義をデリーの日本大使館に訴えていました。当初は「そんな雲をつかむ様なお話は…ねえ?」と素っ気なく非協力的であったのを今でも思い出します。外交官の資格を持って、何故インドにとって「インパール作戦」の歴史的重要性を知らないのか? 何度も激怒して電話越しに訴えていたのです。当然今では全く180度変更していますが。このような事情は殆ど知らない、知られていないでしょうが、結果的に私が描いた図式通りに進んでいるのです。

これはやはり、何万人と戦地で亡くなられて忘れられていた日本軍の英霊の招きであろうと私は感じています。(終)

添付はインド独立の英雄マハトマ・ガンジーとチャンドラ・ボース
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                    ◇◇◇
本年早々送られてきたインドのナガランド州・コヒマの画像紹介、マクドナルド・昭子氏のここ数年の活動報告は今回で終了です。「慰霊と和解の旅路」NHKBS1の放送の半年後、認知症であられた昭子氏の父・浦山泰二中尉(第31師団31連隊)は平成30年・2018年01月、96歳で亡くなられました。思えば九死に一生を得た浦山泰二中尉が帰還したからこそ昭子氏が生まれた。筆者の愚妹と同じ昭和26年(1951)生。
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2019/2/1  9:59

インパール 慰霊と和解の旅路17  昭和史
ビルマ作戦協会

私は実際に多くの激戦区に行くことが出来たのは、ビルマ作戦協会の和解活動をしていると言う日英両国の戦争体験者同士が始めた唯一無二の団体であり、その二世代である私が2代目の会長として、第三国も含めた和解と相互理解を深めることの重要性を直接州知事に訴えたからです。 その理由と国際的意義を理解されたから、VIPとして正式に招待され、警察の武装部隊のガードを付けて頂けたのです。マニプール(36種族)もナガランド(16種族)も戦後、州が対立し紛争が続いていたこと、また種族間でも武力闘争の紛争が今でも続いているのです。

私の訪問ニュースを新聞で見たと、このナガランドの地下組織のレジスタンスグループで武力闘争の親玉が部下を連れて私に会いに来てホテルで会合を持ちました。ガードマンの隊長からも危険だから会って行けないと制止されたのを断り私の責任で意思を通してホテルロビーで会うことが出来ました。

多くの事情を知ることが出来たのは何らかの意味がある気がします。日本人が知らないインド国民軍のこれらの地域の動向は、私の印象では全く日本人が思っているのとは相違していました。

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2019/1/31  17:31

インパール 慰霊と和解の旅路16  昭和史
マクドナルド昭子氏近況02

最近では戦後生まれの三世代が接触して来る場合が増えており、ドキュメンタリー映像を作りたいとの要望が数件生まれています。 又いつかは大きなスケールのビルマ戦とインパール作戦、特にコヒマの激戦に関しての国際映画をプロデュースする企画を立てたいとも希望しています。日本の公平なる立場を表現するには国際映画にしなくては効果がありません。先ず、英語で脚本を作るのが先行するでしょうね。

長くなりましたが希望は豊富にあります。 どれも日本の英霊達や戦争体験した私の父達の苦労を労い、名誉を復活させたいと言う夢があります。先立つものは…とかでいつも自費で活動するには限界があり、本音は非常に疲れ果てているのが現状です。愛国心を持ち日本の国の名誉の為とビルマ作戦協会の会長となって10年が経ちました。日本の国からは何も助成金が出ません。 しかも私は戦没者の遺骨収集の活動にも協力やアドバイスを行なっています。

体力、精神力、経済力もう限界に近く、今年もコヒマ、インパール方面とデリーにも再訪するようにと要請があります。どうなることやらです。
                    ◇◇◇
添付は「サピオ」2017・09月号
1982生の評論家・古谷経衡(ふるやつねひら)は、若手の評論家。韓国に行ったこともない人が韓国経済崩壊を言い、チベットに行ったこともない人がチベットの悲劇を言い、『失敗の本質』を座右の書とする人がインパールを地図でしか知らない政治家の“座学”と非難する。コヒマへ“道なき道”を四駆の車で訪問した現実をルポルタージュした。放置されたままの日本人兵士が眠るコヒマの現地の在り様を仔細に記述した。筆者などは明らかに座学そのものだ。

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2019/1/30  15:35

インパール 慰霊と和解の旅路15  昭和史
マクドナルド昭子氏近況

近況ですが、NHKの協力活動で相当疲弊してしまい、昨年一年(1918)は殆ど休養が多かった気がします。にも関わらず、色々な日・英・ミャンマー、ASEANの公的機関からイベントやレセプションの招待を受ける機会が多く、ビルマ作戦協会のPRも行なっています。秋に海上自衛隊の練習艦「鹿島」と軍艦が世界周遊航海をしていて、曳航のポーツマス軍港にも寄港しました。 その記念行事に正式招待を受け、多くの多国籍海軍のキャプテンなどとも出会え、歓談する機会も得られました。日英の安全保障関係では非常に親密な関係が築かれており、日英同盟の復活のような雰囲気があり、非常に友好関係が深くなっています。日英戦争和解の達成団体として非常にこの関係を改善した意義は大きいものと改めて実感する思いがあります。

現在、日本の山形県とインパール・コヒマ地域を農林産業の分野で繋げたいと言う考えがあります。インパール、マニプール州では昨年夏、農科学産業専門のカレッジが創設され、理事会全員一致で私は外国の顧問に選出されてしまいました。コヒマ、ナガランド州に関しても、そしてアッサム地域も含めて、中国の「一帯一路」世界戦略の向こうを張り、この三洲に対して日本とASEANが協力して、インフラ整備を行い、経済発展を狙う計画を主張しているところです。 これに英国が加われば理想的な状態になるでしょう。

この考えを現地で発表していましたが、シンガポールからアッサム出身の学者がコンタクトして来ました。彼も私と全く同見解を持っていて、下記の本を年末に出版しました。このバックカバーの推薦文の一つに私のコメントも記載されています。

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2019/1/30  9:40

インパール 慰霊と和解の旅路14  昭和史
NHK「慰霊と和解の旅路」制作と撮影

インド訪問をした前後一年間はNHKの番組制作でビジネスを休止していました。あの制作に関わる前は、承諾するのにかなり悩みました。左傾化しているNHK放送局の運営者幹部の影響がある事を懸念していましたので、色々と条件をつけました。

第一に、戦争反対論、戦争罪悪論、日本の戦争を単純な表現で証言者達から「戦争反対」、「戦争はしてはいけません」。等を言わせるようなシナリオ又はインタビューをしないこと。事実をありのままに表現させること。インパール作戦は軍の決裁権のある戦略参謀本部の幹部将軍達の責任であり、軍の仕組みが現在の大企業のあり方に共通している点を視聴者達大衆が、気がつくようにして欲しいこと。日本社会の組織論を軍組織と照らし合せて観賞できるようにもして欲しいこと。

番組を通して何を学ぶかは受け手次第で判断が出来るように、事実を偏向歪曲しないこと、等です。実際に「戦慄 インパール作戦」の方は、インテリの層から、今の日本社会組織や会社組織、ブッラク企業に酷似しているとの反響が得られました。いつの世も人間の心理は変わらないものなのだろうと深く考えてしまいます。

NHKBS放送のタイトル
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2019/1/29  16:14

インパール 慰霊と和解の旅路13  昭和史
浦山泰二中尉02

●ビルマのジャングル地帯でインパールに向かう途中、開かれた高原を通ら無くてはならず、英軍の低空飛行で機銃射撃があり、何十人と倒れました。 父は弾が身体の両側をかすめ、耳元にも飛んでくる弾にも当たらなかった不思議を語っています。隣の戦友達は弾に当たってバタバタと倒れるのにです。
●白骨街道でコレラにかかった時は、木陰で休もうと軍刀を土に建て、木に寄りかかり意識が朦朧としていた時に、上級士官であった軍服を見て、隣の連隊が野戦病院まで担いで、ペニシリンを打って助かった。
●マラリアは殆どが狂い死に、崖から飛び降りて自害するケースが殆どだったそうです。父は現地の激辛カレーを食べて大熱を出し、心臓が強かった為、マラリア菌が殺菌されて生き抜けたそうです。
●ビルマへの撤退路でチンドウイン川を渡る時、多くの兵士達は病気と飢餓で体力は消耗、殆どが濁流に流されて溺れ死にするか、河岸で行倒れそのまま亡くなったケースが山程だったそうです。 運動神経が発達していた父は川で溺れていた多くの兵隊を助けたそうです。 運良く日本に帰還された方々は父に毎年お酒が送られて年賀状には命の恩人と書かれてあったのを思い出します。
                  ◇◇◇
筆者註(ウィキペディア「インパール作戦」引用)
≪「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ−ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は、軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は、甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は、小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg ─60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。このように移動手段がもっぱら徒歩だった。≫

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2019/1/29  12:52

インパール 慰霊と和解の旅路12  昭和史
浦山泰二中尉

この写真は2015年、世界中で戦後70周年記念行事があり、東京の英国大使館から招待を受け、イギリスから、私とRoy Welland(ロイ・ウェランド)氏(実際にコヒマのテニスコート激戦地で生還した。)を同行して、老人養護施設で暮らしている父を連れ出して、もう一人大阪にお住まいだった木下幹男氏(元泰緬鉄道の鉄道技術員)を私が誘ってこの3名とが画期的な握手を交わしました。このニュースは英米共に海外のニュースとして沢山の新聞に記事になりました。

1944年5月31日、コヒマ西方で58連隊が守備していた5120高地が英印第7師団の猛攻を受け、陣地にて奮戦状態となった。この時玉砕を決意した守備隊長白石道康大佐の告別電により、佐藤はコヒマ放棄と主力の撤退を独自に決断し、病兵1500名の後送を指示、部下の宮崎繁三郎少将に遅滞戦闘を命じた。(ウィキペディアより)

私の父、浦山泰二31(烈)師団、31連隊、第2大隊山砲獣医少尉(後中尉に昇格)はこの5120高地付近のメレマと言う丘から組み立て式山砲で向かい側敵軍陣地に向けて大砲を撃っていました。父はいわゆる戦闘と言っても銃撃戦で相手との距離が近い場所では無かったのですが、しかしながら空からの銃撃、四方からの大砲撃、空爆で戦友の殆どを失っていますので、闘わなかった訳ではありません。上述してあります通り、白石道康大佐に玉砕決意で父はコヒマ中心地に向かう時でした、撤退命令を受けたのは。父はこのように紙一重で九死に一生を得て何度も命が助かっています。

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