中学から作文の課題が多数上げられ、それについて書くようにといわれる。例えば、そこには「曲がった鼻」などといった奇異な課題があったりする。自分でタイトルをつけることもできるわけであるが、その奇異な課題に注目してみると面白い。一つは出題者がどのような意図でそのような課題をだしているのかという点であり、もう一つは、仮定的なお話になるが、生徒と一律に同一の課題について出題者側の教師に解答(ここでは作文)させてみれば、どんな作文が完成するかだ。後者については、生徒と一緒に教師にもテストを受けさせるという一般的な試みの一環であり常々やってみれば面白いと考えている。これはどの教科の場合にも当てはまる試みで、是非やってほしい。
中学の教師はいろんなコースはあろうが、大学の教員養成課程を終了してきて、採用試験といういわば「先生としてのお墨付き」を得た連中だが、指導教科において年に数回は中学生レベルのテストを行い、その一定基準に達しない者については、退職ないし一時的な教師業の停止を必要とすべきと考えている。このような仕組みにすれば、優秀な若い人材が義務教育の現場にもあつまるであろう。社会が実力社会に転じようとする今、
実質的に教師の資格のない連中には公的現場からは、おさらばしてもらおうというわけである。
もちろん、このような考えは受け入れられる可能性は低い。それは泥臭い日本人の気質に起因する。つまり長年教師として教えてる人は知識面以外も考慮すべきとかいったわけのわからぬあいまいな理由だ。いうまでもなく、自分たちを守ろうとする低次元のただのおっさんやおばさんと成り果てた教師連中の防御策は、こんなときには意外と結束が固い。そんな連中に言いたいことは『まず生徒のことを考えろ!』ということだ。予備校の講師などには、日々深夜まで問題研究に余念がない者も多い。それも1年中だ。プロ意識があればそうなるだろうし、そればかりではなく、知の研磨を怠れば翌年は、現場からさよならということになるかもしれない。
イチローや中田英寿の発する生き方の厳しさは、専門であるジャンルに関しては教師にも要求されよう。変な仮定だが、ある先生の授業を参観すれば、英のプレーやロナルドのボールさばきに類似する感動が聴視者にもおきなければならない。市井の子供相手だから・・・といった理屈は通用しないのだ。教師は知識力・指導法・指導力で子供を感動させろ。
『クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れない』というパスカルの言葉は、芥川龍之介の「朱儒の言葉」において引用されていることで知られている。この警句の伝えるものは、さしずめ時代の変化が人力および知れぬところにあるということかもしれない。ただ、教師のいわば”曲がった鼻”である奇異な出題をみてみぬふりをすることは、子供らの成長の過程にとって決してプラスとはなるまい。”曲がった鼻”は愛すべきものとはなりえないわけである。

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