今安全はどこにあるのか?
自分なりに安全と美味さを追いかけているのだが
これでいいと思うことはない。
米作りから始まっている私の農業。
昔は親父とお袋が一生懸命作っていた。
便利の良くない土地で手で植えて手で鎌を持って刈り取っていた。
そしてそれを掛け干しして脱穀。
機械は自走ではないから肩に掛けて持ち上げ田に持ち込んでの事だ。
それはそれはたいへんな思いがあったのだと思う。
今やれと言われてもできないだろう事をやるしかなかった時代の話。
だが
その米の美味さは覚えている。
その時には思いもしなかったその米の美味さ。
今になってもの凄く感じるものがある。
ずいぶん時間が経ってから農薬とか機械が入っているのに気が付いた。
いつのまにやら便利になって、今では一人でそれの全てを出来るまでになっている。
その便利な機械に金をつぎ込み
労力を減らしてくれる農薬を使い
増収をもたらす肥料に頼ったのは仕方ないこと。
それだけ大変な仕事であったからだ。
そこにはその必要性があったわけで
食料事情が増収を望んでいたからだ。
安全を考えるような余裕がなかったから。
そして時代は飽食の時代
世界中のなんでも食べれる時代になってしまった。
欲望の固まりの人間は美味いものを追いかけ
その危険な事を気にもしなかった。
ところが
なんかおかしい・・・
そのおかしいのが食にあるのでないか?
気が付き始めた人は
安全を求めはじめたのだ。
その安全を追いかけている自分に
これでいいのか?
問い掛ける自分がいる。
話に聞いてどれが安全ででれが危険なのか?
判断は微妙な状況
どこまでが安全でどこから危険なの?
国が決める基準はあいまいで信用できない。
国で決めて大丈夫だというなら
何故ミドリ十字の事件がおきてしまったのか?
法律は間違いないのか?
いや
自分の体のメンテは自分でやるしかない。
自分で管理しなければ誰がやるの?
やりたいことをやっていくにはまだ健康でいたい。
消滅するまでは精一杯やりたいことをやる。
ならば自分の体は自分で管理しなきゃ。
そして
自然栽培。
これこそ追いかけるものであったわけで
これをやることこそ健康管理になる。
自然を手本にするなら
これでいいとはならない。
もっともっと追いかけるものが出てくるのだろう・・・
安全はその先にあるんだろうか?
それを追いかけるのが
それこそが自分の生きる道なんだろう・・・

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