2011/4/16

コトバの精度  コトバは武器

ボクは経済・政治情報を得るため日経新聞を取ってる。
スポーツ面にスポーツ記者武智幸徳さんが定期的にエッセイを書いてて愛読してる。
客観的且つ鋭い視点で世情とスポーツを絡めて書く姿勢が好きだ。

いつもはサッカー中心の記事なんだけど昨日は少し赴きが違った。
タイトルは「与えるはそぐわない」。以下要旨を書いてみます。
(ナガワにて強調したい箇所に編集を加えています)

今回の震災で個人が受けた想いをピッタリ表現する言葉が無い。
例えばスポーツストリートが口にする「〜してあげたい」「〜を与えたい」という言葉。
上から目線とは言わないが、やや「施しのニュアンス」が強すぎないか?
むしろ、今回の大震災では被災者の振る舞いに「被災してない人」が「気づき・勇気」を
もらえたのでは?お礼を言いたいのは「こちら側」ではないか?
それを考えると「してあげる」「与える」という言葉がそぐわない気がする。

こういう感情を共有してくれる選手もいる。サッカーの長谷部・中沢。野球の嶋。
彼等の発言を聞くと実に立派。
「今度は僕たちが皆さんを応援する番」(長谷部)
「すべての人たちの思いを込めて、力を1つに」(中沢)
「見せましょう。野球の底力を」(嶋)
そこには「何かを渡す前に受取ったもの」という自覚がハッキリある。

また震災以降、ある選手は「言葉の精度に敏感になった」という。
言葉の重さに思いを巡らせている。震災に傷ついた人を心ない言葉で更に痛めつけない様に。
それは大震災のあと、軽々しく「想定外」と言う言葉を吐いた人々とは対極の姿勢だろう。
「天災で片付けて」責任逃れを図る勘定に比べたら、すがすがしい。


これを読んで感銘を受けた。
震災後の「勇気を与えます」「がんばってください」のオンパレードには正直辟易してる。
言ってる本人達は無邪気な善意で言ってるんだろうが軽いというか安さを感じる。
逆に被災地のあまりの凄惨な光景に言葉を失ったアスリートやアーティストも多いだろう。
言葉に鋭敏な人ほど「何も言えなくなる」んじゃないか?と思う。

そういう中でアスリートが「考えながら言葉を放つ」って素晴らしいと思う。
以前の日記で「みんないっしょに。手をつないで」というキレイごとに違和感を
感じていると書いたが「本気で言ってる。叫んでる」コトバは大歓迎だ。
本気のコトバは聞いた人のココロに届く。意識にすんなり染み込んでくる。
武智さんが上げたアスリートや王さん、カズ、イチローの言葉は美しく素晴らしい。
ミュージシャンで言えば元春、福山クン、桑田さんのコトバにも逡巡や配慮が見られる。
だから届くんだろう。

それにしても・・・「言葉の精度」って凄い表現だな。誰が言ったんだろ?

コトバってむつかしい。善意で言った言葉が思わぬ意図に取られたり、
揚げ足や言葉尻を取られたり、伝えようと思う意思が曲解されたり。
逆に相手の発言の意図を上手く汲み取れなかったり。ウン、ホントむつかしい。
いつも大事な仕事をする際は「どう話すか?何を伝えるか?」
シナリオを用意してるけどそれでも上手く行かない。
結果「話しても仕方ない」「言っても通じない」という無力感に陥ることが多い。
でも、それはオレのコトバに精度と本気が足らないんだろう。

そして「逃げや誤魔化しのコトバ」は絶対響かない。伝わらない。
結局、形だけの薄っぺらな表面的なコトバは精度が低いってことだろう。
そりゃそうだ。言う側に「伝える意志」が無いんだから。

後、感情的な非難や怒りのコトバにも精度は感じないな。それは単に吐き出してるだけ。
ま、オレにもそういうところ在るし気をつけなくちゃ。

「コトバの精度」か・・・・イイコトバだな。オレももっと磨かなくちゃ。鍛えなくちゃ。
ウスノロどもの弱点を暴き立てるために。アホどもにパンチをお見舞いするために。
使い方を間違ってるか?(゜゜)\バキ☆。(゜゜)\バキ☆
ま、イイさ、オレの武器はそれしかないんだから。

(追伸)
今日も嫁と上野に散歩。散歩途中でコンビニで買い物したらお釣りを募金。
また、上野駅構内で「福島県産品販売会」があったので立寄り。
ステキな小物があったので購入しました。微力ながら貢献できたかな?
クリックすると元のサイズで表示します
「募金してやった。施してやった」というボクに嫁は呆れ顔。
「させていただいたという感謝のキモチが必要だよ」と釘を刺されました。
ボクが「他人が困ったときに施しておけばオレが困ってるときに助けてもらえるでしょ?」
と話すと嫁は「キミとは話したくない」という顔をしました(^_^;

「コトバの精度」以前の問題ですね。感謝も思いやりも配慮も経緯も無い(笑
ま、所詮オレは「偽善者」「極悪人」ですから。(゜゜)\バキ☆。(゜゜)\バキ☆
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2006/10/25

見る・考える・書く  コトバは武器

 「コトバは武器」もこっちで復活(笑。
 今回のテーマは「どんな視点で文章を書くか」ってこと。

 僕の仕事は内部監査。毎月、社内の部門の業務を調査して評価する。
 ミス、モレ、ルール違反、理解不足等あれば「課題」として指摘する。
 監査の上で大事なことは「見た限りの事実に基づき報告をつくる」こと。
 「主観」が入ってはイケナイ。「客観的」に見て書かなくちゃイケナイ。
 でも、「主観を捨てて客観的」にモノみるなんてムツカシイ。
 同じテーマでは僕は「どうでもイイ」、ある人は「大事」。
 人によって見方が変わる。いや相手によって変わる場合もある。

 その人の性格、経験、知識、気分その他によって大きく見方が変わる。
 出来れば「感覚」でなく「理論・理屈」で「見て書きたい」けどムツカシイ。
 また「理論・理屈」で見て書いた文章が「理論的な表現」か?との問題もある。
 「見る力」だけでなく「文章表現力」も必要。
 更に厄介なことに感情に訴えたほうが動く人もいる。あ〜ややこしい(-_-;)

 そこで疑問をもたざるを得ない。「主観的」は分るよ。
 オレがオレの好み・見方で考えりゃイインだから。
 じゃぁ「客観的」って具体的に何よ?何を以って「客観的」って決めるのよ?
 「理屈で説明がつく」ってこと?その理屈も所詮「決め事」じゃないの?

 これは「普遍的」「大衆的」も一緒。これもよくワカンナイ。
 「普遍的な表現」とか言うけど、これも誰が判断してるんだろう?
 皆がそう云うから、オレもそう思い込んんでるだけじゃないの?
 
 こんなこと悩んでも仕方ないんだけど。
 仕事なんだからウダウダ云わずに理論武装に頑張ればイインだけど。
 でもね・・・どこかで「客観=ツマンナイ」ってキモチある。
 ホントを云えば主観だらけの文章やオンガクに触れるのが好き。
 いや自分で自由に文章書く場合は「客観」なんて考えたくない。

 自分がどう見るか、どう思うか、どう書きたいか、どう聴きたいか?
 それが一番大事。それはオレという人間しか産み出せないモノだから。
 そして、人の表現もそのヒトの主観に溢れたモノが好き。
 「過度に感情的な主観」はイヤだけどね(ってオレ自身がそうなってるが笑)
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