「俳句の季語にもなっているという「溝さらい」とアイデンティティー」
政治とか経済
今日(土曜日)は、私の上の子供(娘)の、小学校の最上学年の親子に課せられた、奉仕(という名の半分は義務)活動で、学校の運動場の周囲にある側溝のコンクリートの蓋を持ち上げて外し、中の泥を掻き出すという、「どぶさらい」とも言うべき肉体労働を、午前中に娘とともに行なってきました。
明日(日曜日)は、今度は地域の住民自治会で、毎年この時期に恒例となっている、近所のコンクリートで固められた括弧付き「小川」=小松川と言いますが…の、コンクリート上の川底に溜まった土砂を掻き出すという、隣舗(りんぽ)での会議で、各家庭で一人は参加する様に、御達しのあった「どぶさらい」に、午前中は費やされるでしょう。
これは、ウチが田舎だから有る事なのか?、はたまた大都会にも、こういう地域の共同作業が残存して有るのか?(それとも税金で業者に委託するのか)、イマイチ私には解って無いのですが、普段は肉体を使用せずデスクワーク中心の私にとって(体がナマっているので)、大汗をかいて大きな疲労を齎す事の割には、決して【後味】が悪くない気がするのは、他者とコミュニケーションを取る事が(生来)苦手で(アスペルガ―)、社会に対して疎外感を感じる場面の方が多い私自身にとっては、数少ない「地域」との一体感というか、そこに自分も属しているんだという、集団的なアイデンティティーを自覚できる機会でも有るからです。
この記事を打ち始めて、パソコンの日本語変換機能によって初めて知りましたが、「どぶさらい」と入力すると、変換候補として「溝(みぞ)さらい」という表記もできる様で、それは俳句が趣味の私の父によれば、「溝(みぞ)さらい」というのは初夏の季語でもあるとの事です。(さすがに「どぶさらい」と表音するのでは無いらしいですが…笑
ここまでは、この記事の「テーマ」の何処が「政治」なんだ!…と、突っ込みが入りそうですが、私はこういう地域共同体の持つ伝統やら風習も含めて、それらを包括する様にして「クニ」という存在が、近代的な「国民国家」よりも、先に(先行して)存在して支えているのだろうと思ったから、テーマを「政治」にしたのです。
どうも近代「国民国家」というものは、まず先に「国家」が「国民」を囲い込み、次に「国民」に対して「国家」が、様々な「権利」や「義務」を定めるというイメージが有る様に、私には感じられて、自然発生的・地域共同体が広がっていくその先に「国」をイメージしている私には、近代「国民国家」というものに、民主主義社会の一員として【参加】の義務や責任は感じていても、愛着=愛国(家)心までは、どうしても感じられないという、特殊な思想を持つ人にから評価される処の「非国民」的な態度になっている様です。
それでも、その「溝」を埋める為に私が利用しているのが、ロック的な(人工的な)「社会契約論」的な考え方なのですが、その「契約」の中に、後から出来た道具に過ぎない「国家」を、基本的実存である「住人」自身の命よりも大切にしなければならない事が含まれるという風には考えられず、道具は目的を果たせなくなったら(または目的に反する様になり契約反故に近い状態になれば)そんなモノは壊しても良く、壊れたらまた「目的」を果たせる道具として創り直せば良いと考えてしまい、それがアナ−キストと何処が違うのかと他人に仮に言われたとしても、自分自身でも明確に違いを良く説明できないという立場に、結果として為ってしまっています。…(苦笑)
まぁ、ところで、日本では首相が交替して、菅直人氏が総理大臣になりましたが、彼の理念(理想)を端的に表現した「最小不幸の社会を目指す」という言葉には、正直に言って思わず「共感」を覚えてしまいましたね。字面上は、功利主義者のベンサムの「最大多数の最大幸福」を想起させますが、その意味する処は、全くの対極を為す、本人の責任に帰す事ができない「最も不遇な人」の状態の改善にとっても寄与する限りにおいてのみ「格差」は許容されるという、ロールズを始めとした近代政治哲学の「正義論」に、極めて近い印象を(私に)与えました。
(彼の独学の成果なのか、彼が市民運動家だった時代に師であった市川房枝
の影響なのかまでは判りませんが)
そして、菅直人氏に「その為には、強い国家、強い経済、強い福祉が必用です」と言われてしまうと、どうも「国家」の道具としての不完全に強い不信を持っている私ですら、そりゃ正論だよと、納得してしまいそうになりました。
(実際は「理念」だけでなく、具体的に何を為す事ができたかで評価を計られるのが「政治」だと思うのですが)
日本共産党も、選挙に向けた党略の為でなく、本当に国民の為を考えるのであれば、現政権への打撃的な「批判」ばかりでなく、建設的に「こうすれば、もっと現実的かつ効果的に、菅直人氏自身の理念である『最小不幸の社会』を実現でき、理論的にも実証研究的にも、財政も破綻せず、より良く(ベター)になりますよ」…とか、閣外からでも「助言」できる程に、ミクロ&マクロ的な経済研究(勉強)を、もっと大胆に強化すべきですね。
まぁ、確かに「最も不遇な人々」の置かれた具体的な事実・事例の集積は、草の根の組織も有って、ある程度(他党に比べて)進んでいるのですが、それを単に現政権批判・支持拡大の道具にしかしないとすれば、それは簡単に国民の多数から見透かされ、結局しりすぼみの状態は、打開できないと思います。
先週も、久しぶりに、地域でビラの全戸配布の一翼を担いながらも、そんな事を考えました。
まず、トップに期待する前に、自分からも始めねば、言葉に責任を持てない前総理と、私も同じになってしまいますが…(苦笑)

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