(ペンネーム=勉強不足のJCP党員、便所の住人)開設:2004/8/20〜
2004/11/17 22:55
「「キリスト教」と私 ・・・そのA」
感想文とかエッセイ
「キリスト教」と私 ・・・そのA
前回の「その@」からの続きです。(承前)
最初に、前回で述べた幼児期にまつわる小話で、笑ってしまう様な事がありました。
(当時から私は、屁理屈の好きなオタクだったという)
キリスト教の教会という所では、日曜日の午前中の礼拝(カソリックに限っては「ミサ」とも言う)とは別に、子供向けに「日曜学校」というモノを、よく午後にやったりしています。
(日曜学校という催し自体は、カソリックにもプロテスタントにもありますね)
そこでは、聖書に出てくるエピソードを絵本やら紙芝居で読み聞かせたり、少し大きくなると教義(三位一体とか)を教えたりする事もあります。
私も(不定期ながら)幼稚園の頃?から参加していた事自体は覚えているのですが・・・ある日(恐らく6歳の頃だと思います)神父さんが、庭で拾って来た様な石を見せ「これは何だ?」と聞くのです。
神父さんも、子供相手に(スコラ哲学じみた)そんな問答を仕掛けるっていうのも、変わっているっていえば変わっている人ですね・・・(苦笑)
幼い私は、幼いなりに「石」なんていう当たり前の答えでは無い回答を、神父さんが要求している事は判ったらしく、石の最も基本的な属性って何だ?って考えた挙句、どうやら・・・
「存在する物です」
・・・なんて答えたらしいのですが(覚えていないのですが後に母から聞いた)、もし私が親だったら可愛げの無い(屁理屈こきの)異常な子供だといって、ゲンコツの一つでも呉れてやる所です。
でも神父さんは(恐らく彼自身も神学やら哲学が好きだった為なのか?・・・今となっては不明ですが)、こんな回答をする頭のネジが抜けてるとしか思えないイタいガキを、大変に気に入って誉めてくれたらしいのです。
「三つ子の魂は百まで」と申しますが、当時から私が屁理屈電波をユンユン飛ばして居た事が伺えるエピソードで、そりゃ笑い話にはなりますが、今となっては結局はそんだけの事でしかなく、その神父さんが期待してくれていた様な大器とは未だに程遠いな〜と、既に昇天された神父さんには、何とも申し訳なく思ってしまいます。
私も今となっては可愛げの無いオヤジですが、幼い頃に(そんな屁理屈を言う可愛げがあるとは思えない)私の事を、彼は可愛いと慈しんでくれた事は、今でも感謝しています。
その神父さんを最後に見た、名古屋城の近くの大きな病院では、死の意味すら知らず親に連れられ見舞いに行った私が、見舞い後の帰り際という事で「外」に居た時に、上のほうの階にある廊下まで出てきてくれて、窓から手を振ってくれた姿を覚えています。
末期の病状が悶絶する程の激痛をもたらす病気であり、既に起き上がるのも困難だった筈なのに、(少なくとも私の前では)苦しい顔ひとつ見せずに居てくれました。
切れ切れに覚えている、当時の親達の会話では、他の人の前では必ずしも「そう」では無かったらしいのですが・・・
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【中学入学前〜高校卒業】
私は、小学校6年の時に、私立中学への受験勉強というヤツを(その後の生涯でも最も集中した密度で)やって、実母の出身校と同じ(名古屋の南山学園という)カソリックによる中高一貫教育のミッション系の学校へ入りました。
(女子部の校舎は1〜2km離れていたし、ほとんど交流も無いもんで、実質的に男子校です)
石油ショック以降は、取り込み詐欺まがいの不渡手形ばかり掴まされ、全く経営が思わしくなかった木工塗料問屋という業種で零細経営を営んでいた父母達は、一体何故そんな無茶をしたんでしょうね?
5人の兄弟姉妹の中で私学に行ったのも大学に進んだのも、長男だった私だけだったし、その私も途中からは(卒業後に私自身が返済する)奨学金の御世話になってきたし、周囲のクラスメートとは、もらっている小遣いの額なんか確実に2桁は違っていたので、最低限の交友関係を持つ為に、私は新聞配達のバイトまでしていた・・・
長男だって事で、主に母に(偏愛という程ではないにせよ父にも)期待されていたんだろうな〜
でも・・・周囲には、三菱グループ会長の御曹司だとか、道路に面した門から玄関に至るまで山を登っていかにゃならん様な家のヤツだとか、ちょっと私では話題も一致点も無いし・・・付き合えないぞ・・・
別に、自分の「社会性」の無さを「その」せいにするワケじゃないが・・・一学年当りの学生数が200人程度の規模で、同じ顔を6年間も見てきた筈なのに・・・卒業間際になっても「顔」と「名前」が一致した奴なんか20人程しか居なかった・・・
(今でも覚えているとなると・・・5人ぐらいか?)
余談が長くなったけど、話を本題(キリスト教と私ってテーマに)戻します。
一応はミッション校だったという事で、週に1時間は「宗教」って授業があって、宗教史やら各宗教の教義比較とかいった一般的な問題に加えて、キリスト教の教義解説とか宗教映画の鑑賞なんてのもありました。
(真剣なんだろうから笑っちゃいけないんだろうけど、スコラ哲学に「神の存在証明」なんて屁?理屈があった事は、けっこうツボに入って、思わず笑ってしまった・・・苦笑)
あと月に1回だけ、生徒の中の信者子弟を集めて、土曜日の授業後にミサなんて事もやってました。
これはカソリック信者だけが対象でなく、プロテスタントの信者の子弟も呼ばれていたので、この時に私は始めてプロテスタントの信者とも接点を持ったりしました。
でも・・・振り返ってみると、どんどん私の心は「信仰」ってものから離れていったんだな・・・
(色んな理由があったんだろうけど)
第一の理由として思い付くのは・・・陰気な私は、その頃は知識の吸収や屁理屈を考える事が面白くて堪らなかった時期だったって事です。
(ちなみに体育会系の部活ってのは、中学時代のバスケにせよ高校時代の水泳にせよ、そこには1〜2ヶ月しか居なかったという程に興味が持てませんでした)
授業を聞いているだけで、高校までの間は(大学では全く別でしたが)それほどは落ち零れる事も無かったので、学校での与えられた課題や宿題をこなす「勉強」ってのは、中学入学以降は大学受験さえもホトンドやらずにいたのですが(というより・・・やろうと思っても机の前でガマガエルみたいに脂汗を流し続けるだけで出来なかった)、大した事は無い読書量の割には、本だけは好きだったので、6年間の内の5年間は図書委員を真っ先に引き受けて、図書館の裏側の書庫とかに引き篭もってました。
小学校時代から中学の始め頃までは、SF(サイエンスフィクション)ばかり読んでいましたが、その後はパッタリ止めて、別の系統の本を読んでいました。
(SFは最近になって、再びボツボツ別の読んだりしていますが・・・)
その頃の私が関心を持って、中学時代に自分独自のモノだと自惚れてウダウダ考えていた屁理屈ってのが、高校になってから読んだ実存主義という観念論哲学の一分野であるハイデッカーとかの「存在論」と同じ興味関心から発してるなんて事を知った時には、落胆というか興醒めしちゃった部分もあるんだけど、実存主義自体は、小説としてアルベール・カミュだとかを読んで面白かったって記憶があります。
あとは、およそ節操が無いんだけど・・・安部公房やらヘミングウェイなんかが好きで、キリスト教系だと遠藤周作やら・・・(今では嫌いになったけど)曽野綾子なんかも読んでいました。
ちなみに、宮本百合子とかのプロレタリア文学とかは、その当時には全く読んでませんでした。
(それを読んだのは、ずっと後で大学になってからでした)
でも、図書委員会は生徒の自主団体では無いって理由で、文化祭に参加させてもらえなかったって時には、顧問とも対立したりして、図書委員長みたいな役を買って出て、会議では下手糞なアジテーションまがいの事をやったりしたんだけどね・・・
もう一つ(もっと)肝心な事は、この時代というのは、いわゆる思春期というヤツだった事です。
私の場合、肉体的な意味での性的成熟というか・・・ホルモンが意識を暴力的に侵食しはじめたのは小学校4年頃からなので、男性としては比較的に早かったんでしょうが、その発現の形態は非常な抑圧を伴っていた為か・・・反動として(あまり)常識的なものではありませんでした。
恐らく、別に私に限らずに、男性の性(ホルモン)というモノが、未だ成熟していない思春期の「半子供」の精神へ、暴力的な攻撃と言ってもよい作用をするという事情は、誰にとっても同じく生じる事だとは思うんですが、そういうのって・・・ヘテロセクシャル(ノンケ)だろうとゲイセクシャル(同性愛者)だろうと、普通は何らかの外部の対象に向き合う契機(恋をして打ち明けるとか)にもなるんじゃないかって思うんですが・・・
具体的に、どう「常識的」では無かったか?って事は・・・(単なる思い過ごしかもしれませんし)いまだに自分でも判らないので、さすがにココでは書けません。
(多分・・・墓に入るまでダメ)
それは、ずっと後に体験する事によって、始めて自覚する事ができ、既に妻ですら知っている「バイセクシャル」=自分の性向という(自覚さえできれば比較的に少しは単純とも言える)問題とも、少し違うんですわ・・・ハイ
まぁ、いずれにせよ抑圧されて歪んだ自分自身の行動の蓄積に、既に落胆しきっていた私は、縋る様な思いで誰も居ない学校のチャペルに這って行っても、何も「神さま」とやらが私に語りかけて呉れる事は無かったってワケです。
(遠藤周作の「沈黙」って小説程にカッコイイ状態ってワケでは無かったんだけどね・・・苦笑)
そんなこんなで、単に苦労知らずのガキだっただけの自分が、大した論理も持たないままに屁理屈だけを捏ね回した結果として、自業自得とはいえ脆弱で肥大化した自意識を築く事になり、その目を覆う様な現実に対峙していかねばならない肝心の主体とは何か?って事になると、薄っぺらで感傷的なだけの括弧付き「絶望」だけが唯一の自己存在証明だといった、今から考えるとムカツクだけの18歳になって、大学へ進学するワケです。
それでも、あくまで頭の中だけは(主観的には)押しつぶされそうだと感じる、絶望的な気持ちを両手一杯に抱えていた事だけは、確かなんだろうけどさ・・・
(そのBに続く)
そのBでは、大学時代の恋愛やら、プロテスタントへの入信、政治活動と冷却期間、信仰からも離れてしまった現状に至る迄・・・を書く予定。
(あまり特定の読者など想定せず、自己満足で書いてるだけなんで・・・数日後かな〜)

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