(ペンネーム=勉強不足のJCP党員、便所の住人)開設:2004/8/20〜
2004/11/23 1:29
「「キリスト教」と私 ・・・そのD」
感想文とかエッセイ
「キリスト教」と私 ・・・そのD
今回を含めても、「キリスト教」と私というテーマでの記事は、あと2回で終るとは思うんですが・・・(多分次回が最終回)
昔から「不惑」と呼ばれていた40歳が、そろそろ背伸びしないでも見えてきたのですが、そういった「腹」を据える上での「伏線」というか、あまりクリスチャンらしからぬ自分が、今になって何故それを避けて通れないと感じるのかという事を知りたくて、この記事を書いています。
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【入社(93年度)〜結婚(95年末)】
大学卒業後に就職をした会社は、大学と同じ静岡県でありながらも、約100Kmも西(故郷の名古屋に戻る方向)へ行った中規模の地方都市に本社を持つ、ある工作機械メーカーです。
大学時代に行った就職活動では、漠然と「何かモノを創る仕事がしたい」という程度の認識しか持っていませんでしたが、何を作るって事に対しては別に確固とした意思が有ったわけではなかったので、またも安易といえば安易な選択だったのかもしれません。
しかし既にバブルも弾けた後で、選択巾も多くは無かったとは云え、今の会社への紹介を教官から受けて、私が「工作機械って何だ?」って事を調べた時に、機械(正確に言えば機械の部品)を作る機械(マザーマシン)だという説明を見て、大した理由も無く「なんかカッコイイじゃん」と思ったという程度の希望?だけなら、一応はあったんですよ。
でもまぁ、他に行った名古屋や東京の印刷&出版関係の業界や、消費財のメーカーには断られていたんで、他に内定取ってたのが、当時バイトしていた大手パチンコ屋の本部(京都にあった)だけって状態で、7年も大学に留まっていて贅沢な事を言えるわけも無いにせよ、単に早く決めたいって気持ちに流されたっていう側面も否定できません。
ほんの少しは勉強もしてきたつもりだってあるとは云え、工作機械メーカーに採用してもらえるならば自分としては上出来だと思ったという何処かしら偉そうな理由は、家族を支えて(大学なんかで遊ばずに)働いてきた人間が聞いたら軽蔑されられそうな、相変わらずの・・・ヘタレぶりです。
それでも、入社1年目から(少なくとも私の「主観」に限っては)頑張って働いたつもり。
(入社当初は、後に廃止されるソフトウェア開発グループに居た)
そりゃ、今の私自身から見ても甘過ぎると思うし、周囲もそう思ってたとは思うけどさ。
仕事「以外」では何をしていたかというと・・・
卒業してからの約2年半(今の妻と結婚するまで)は、たまに党機関の担当者に会って近況を報告して党費を納める以外の党活動を、ほとんど全くしていません。(大学時代から引き続き党員としての資質というか「品性」が問題って事で、支部へは配属されなかったし)
少し後の話になりますが、その入社後1年半を過ぎた頃からは、少しずつ自分自身の状態も安定して余裕が出てきたのか、やりたいという気が向く限りで、主に学習を中心にして大衆活動はやってましたし、その中で今の妻とも知り合えたって事もあるので、この方面での活動が、その後の自分に何ももたらさない「不毛」だったという事ではありません。
しかし、入社当初の約1年半ぐらいは、仕事以外の私生活面において、まぁ無茶苦茶と言っても良かったです。
就職してすぐに、お手軽というか軽薄な方法で知り合って、それでも1年強は交際していた(ずいぶんと年下の)女性が居たのですが、社員寮の隣の部屋の同期の奴(何故か今でも友人と言っても良いが・・・現在は米国に居る)の方が良いといって、アッサリ見限られるとかしたりしました。(当時としては相当にショックで混乱したなぁ)
そんな自分の様子を、それまでの自分の周囲には居なかったタイプである、あまりガラは良くない(失敬)同期入社の同僚の中に出来た友人達が、さんざんからかったりしつつも、私を連れ出しては遊んでくれました。
私は当時マージャンも(下手糞ながら)覚えましたし、すいぶんと図太くなったというか、たくましくして頂いたと、一応は感謝しておきます。(笑)
私の寮の部屋は居心地が良かったらしく、カギの置いてある場所も知れていたので、会社から帰ると誰かが居たりして、溜まり部屋と化していました。(全員ノンケだったけどね)
生活面で、何処が「クリスチャン」だと言いたいという状態だったのですが、こっそり「キリスト教」の教会のある場所だけはチェックしてたりはして、中に入る勇気も無いのに教会の周囲まで行ったりした事は何度かありました。
しかし結局、後になって結婚式をする為に、カソリック浜松教会のフランス人の神父へ話をしに行くまでは、中に入ろうとしませんでした。
それは、自分の同性愛性向を如何に考えるべきなのか?・・・という自分では整理できていなかった問題もあったので・・・
(納得も出来ないのに、いきなり「悔い改めろ」なんてやられたら、全人格が否定された気分になりそうで)
その問題を、ハッキリさせようとするアクションを最初に起したのは、大学時代の後半(5〜7回生)から引き続く精神的な混乱が自分でも手に負えなくなり、混乱のピークに達していた入社後約1年半頃だったと思いますが、自分から電話帳で調べた精神科の町医者の所まで相談へ行こうとした時の事です。
そこの医者は、そりゃ自分の領分では無いと言い切って、浜松にある医大病院を紹介してくれたので、日を改めて行ってみると、まあテストしてみましょうと言われ(何日か通って)、有名なロールシャッハ式テストを始めとした数種のテストをしてくれました。(面白かったよ)
その結果を教えてくれるという日に訪れてみると、如何にして数値化するのかは知りませんが、下記の事を教えてくれました。
・ノンケ(異性愛者)の人は、大部分がテスト結果で、10以下の値になる。
・完全なゲイの人は、大部分がテスト結果で、100以上の値になる。
・私の場合は、テスト結果が、大体50前後。
(これって・・・バイなんですか?俺にどうしろって言うねん)
それで私が、「どうしたら良いと思います?」と聞くと、担当した医者は・・・
「別に個性って事で良いと思いますが、自分の性向が受け入れ難く不安だというなら、医者ではなくてカウンセラーを紹介しますが?」
・・・と、それは人によって身長が高いか低いかという「個性」と同じである様な口調で言ってくれたので、それでも良いんだぁと思って、別に要りませんと答えて、それからの10年(今の所は)カウンセラーに行っていません。
それが先天的なのか、後天的に形成されたかは知らないけど、自分が誰を好きになるかなんて既に人格の一部を構成する自然な性向を、特に好きな人を悲しませるとか悪い事をするワケじゃない限り、それを否定するなんて事の方が、非人間的な事じゃない?
まぁ、単に私は(よく根拠の判らないものでも)数値を示されると気が済んでスッキリした気になるという、理系っぽい?人間であったせいかもしれないんですけど、無理して否定して苦しむ必要は無いって感じた事は、ずいぶんと以後の精神的な安定に寄与した様です。
(それが本当かどうかは別にしても)上手く自分の心を整理できた様な気になった私は、次第に再び前に進める様になってきました。
普段は仕事にも打ち込みつつ、好きな平和運動とか学習会とかを手始めに、大衆運動とかに手を出せる余裕も出てきました。
当時は、大学時代の懐かしい漫研のメンバーと再会できたりして、何回かOB会として旅行にも行ったりしました。
(OB会には、今の妻も確か一緒に連れて行った事もあった)
まあ、何度か失恋はしつつも(と言っても自分の方から告白が出来る様になっただけマシだと弁解しておこう・・・苦笑)、そのウチに今の妻にも出会えました。
今の私の妻は、ここに書いた程度のエピソードは知っていますし、それにも関わらず、まぁ大事にしてもらっている方だと思いますので、これが単なるドラマで、私が単に作者という立場だけで接して居るストーリーならば、ここ(結婚)で話が終っても良いぐらいです。
(ハッピーエンドで、メデタシメデタシとか言って)
しかし、単に物語の「外」で書いている作者ではなく、それからも図々しくも生き続けていく当事者をも演じてるって点が、少しドラマとは違うんだな。
(そのE:最終回)に続く

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