2004/11/17 23:07
【余談・・・カソリックとプロテスタントの習慣や信仰生活の違い】
後日アップする、「キリスト教」と私・・・そのBに入る前に、ちょっとした余談です。
そういえば、私の通っていたカソリック教会で、老神父が昇天された後に、一時期(教会が焼失する前)・・・名古屋教区から派遣された後継の若い神父さまが居られました。
カソリックの場合、礼拝の際の献金額というのは、目安として収入の大体3%程度ってのがあったのだけど・・・もちろん任意なので(貧乏な信者が多ければ多分ほとんどが目安以下になる)、私の知る限り(小さな教会付きの)神父さんというのは、大体において非常〜に貧乏な人が多かったです。
(大教会や、修道会、教区勤めの神父さんは良く知らないけど・・・)
その若い神父さんというのも、普段は塩しか付いていないスパゲッティーしか食べていないというのを聞いて、私の弟は(私と違って心優しいんだけど交際相手募集中・・・別に結婚なんかが幸せと限らないけど誰か居ないのかな?)、当時は小学生だったにも関わらず、お年玉とか小遣いを貯めて、その神父さんにステーキレストランで御馳走をプレゼントしたそうです。
でも・・・その後、その若い神父さんは、信仰で耐え難い重荷を降ろす事ができなかったのか、一時期は自失状態になってしまった事もあって、神父を辞め(信徒に戻って)結婚したそうです。
ふと・・・今も幸せに暮らしてみえれば良いのだけど・・・って思いました。
ちなみに、カソリックの場合に限っては、現在でもローマ法王庁の規則?によって、男性の神父・司祭も、女性のシスターも、建前としては生涯を通じて結婚も性的交際関係も出来ないって事になってます。
(昔のヨーロッパ中世における一部聖職者や、現在でも法王庁のニラミが利いてない中南米とかの一部の地域を除いて・・・だとは思いますが)
プロテスタントの牧師さんの場合には、そんな戒律はありません。
恐らく何処の教団であっても同じだと思いますが、一生不犯といった(あくまで外部の人間から見ると少々)不自然とも言える様な証(あかし)を立てる事は、別に原点である聖書には書いて無いって事で、もともと課せられていません。
その代わり?といっては何ですが、プロテスタントでは、たとえ聖書ではイエス自身がワインという酒を飲んでいるシーンが出てきたとしても、聖書の中の別の箇所では「酒に酔ってはいけない」と記述されているからという理由により、酒は全く飲まないっていうのを戒律とまでは言わなくても、信仰の証(あかし)にしているって教団は多い様です。
他方で、カソリックでは(無論ですが酩酊し狼藉する事までは歓迎されませんが)別に酒を一切断つって事までを、戒律にせよ証にせよ求められる事は少ない様です。
(信者との付き合い程度ですが、神父さまが信徒会館とかでワインやビールを飲むなんて事は、私も良く目にしました)
煙草については、そもそも聖書が書かれた当時には無かったので、直接に禁止する字句が聖書の中に無いのは当然なのですが、やはりプロテスタントでは、一般的に誘惑に身を委ねる事を良しとしないという聖書の精神的な拡張により、完全に手を切って(禁煙)する事を、やはり戒律とまでは言わなくても、信仰の証(あかし)にしているって教団は多い様です。
ついでに献金については、プロテスタントの中でも(全てでは無いんだけど)ファンダメンタル(原典主義、キリスト教用語だと福音的)だと主張する教派だと、聖書の記載を元にして収入の「十分の一」を献金する事が【有るべき姿】だとして、これもやはり戒律とまでは言わなくても、教団毎の気風の違いといった程度の意味ですが、それを信仰の証(あかし)として重視している場合もあります。
ただ誤解の無い様に言うならば、そういう信仰の証(あかし)が仮に強調される教会であっても、変な風にカルト化している所でも無い限りは、別に献金額をチェックされる訳でも無いし、あくまで献金額は、信者の任意ってのが原則ではある筈です。
まぁ、こういった習慣や生活態度っていうのは、更に一般的には何も特定の「教団」だとか「教派」といった組織とリンクしているとは限りません。
人それぞれって事でしょう。(宗教用語を使うなら・・・その人間と神の関係次第とも言う)
インドのカルカッタの最貧地区で自分では何も持たずとも他者に与える聖職者も居れば、他方には豪華なスポーツカーに乗ってるって「聖職者」も居る。
逆に、豪華なホテルやらを買い占めたり、海外での人殺し=自国の戦争遂行を熱狂的に支持する政治行動をとるってものまで・・・
それは、何も聖職者に限らず(また恐らくは宗教者であるか否かとも関係なく)、それが誰の人生であれ、自分の蒔いた種は自分で刈り取る事になるんでしょうし、常に問われているのは自分自身だって事情は、何ら変わりは無いのでしょう。

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2004/11/17 22:55
「キリスト教」と私 ・・・そのA
前回の「その@」からの続きです。(承前)
最初に、前回で述べた幼児期にまつわる小話で、笑ってしまう様な事がありました。
(当時から私は、屁理屈の好きなオタクだったという)
キリスト教の教会という所では、日曜日の午前中の礼拝(カソリックに限っては「ミサ」とも言う)とは別に、子供向けに「日曜学校」というモノを、よく午後にやったりしています。
(日曜学校という催し自体は、カソリックにもプロテスタントにもありますね)
そこでは、聖書に出てくるエピソードを絵本やら紙芝居で読み聞かせたり、少し大きくなると教義(三位一体とか)を教えたりする事もあります。
私も(不定期ながら)幼稚園の頃?から参加していた事自体は覚えているのですが・・・ある日(恐らく6歳の頃だと思います)神父さんが、庭で拾って来た様な石を見せ「これは何だ?」と聞くのです。
神父さんも、子供相手に(スコラ哲学じみた)そんな問答を仕掛けるっていうのも、変わっているっていえば変わっている人ですね・・・(苦笑)
幼い私は、幼いなりに「石」なんていう当たり前の答えでは無い回答を、神父さんが要求している事は判ったらしく、石の最も基本的な属性って何だ?って考えた挙句、どうやら・・・
「存在する物です」
・・・なんて答えたらしいのですが(覚えていないのですが後に母から聞いた)、もし私が親だったら可愛げの無い(屁理屈こきの)異常な子供だといって、ゲンコツの一つでも呉れてやる所です。
でも神父さんは(恐らく彼自身も神学やら哲学が好きだった為なのか?・・・今となっては不明ですが)、こんな回答をする頭のネジが抜けてるとしか思えないイタいガキを、大変に気に入って誉めてくれたらしいのです。
「三つ子の魂は百まで」と申しますが、当時から私が屁理屈電波をユンユン飛ばして居た事が伺えるエピソードで、そりゃ笑い話にはなりますが、今となっては結局はそんだけの事でしかなく、その神父さんが期待してくれていた様な大器とは未だに程遠いな〜と、既に昇天された神父さんには、何とも申し訳なく思ってしまいます。
私も今となっては可愛げの無いオヤジですが、幼い頃に(そんな屁理屈を言う可愛げがあるとは思えない)私の事を、彼は可愛いと慈しんでくれた事は、今でも感謝しています。
その神父さんを最後に見た、名古屋城の近くの大きな病院では、死の意味すら知らず親に連れられ見舞いに行った私が、見舞い後の帰り際という事で「外」に居た時に、上のほうの階にある廊下まで出てきてくれて、窓から手を振ってくれた姿を覚えています。
末期の病状が悶絶する程の激痛をもたらす病気であり、既に起き上がるのも困難だった筈なのに、(少なくとも私の前では)苦しい顔ひとつ見せずに居てくれました。
切れ切れに覚えている、当時の親達の会話では、他の人の前では必ずしも「そう」では無かったらしいのですが・・・
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【中学入学前〜高校卒業】
私は、小学校6年の時に、私立中学への受験勉強というヤツを(その後の生涯でも最も集中した密度で)やって、実母の出身校と同じ(名古屋の南山学園という)カソリックによる中高一貫教育のミッション系の学校へ入りました。
(女子部の校舎は1〜2km離れていたし、ほとんど交流も無いもんで、実質的に男子校です)
石油ショック以降は、取り込み詐欺まがいの不渡手形ばかり掴まされ、全く経営が思わしくなかった木工塗料問屋という業種で零細経営を営んでいた父母達は、一体何故そんな無茶をしたんでしょうね?
5人の兄弟姉妹の中で私学に行ったのも大学に進んだのも、長男だった私だけだったし、その私も途中からは(卒業後に私自身が返済する)奨学金の御世話になってきたし、周囲のクラスメートとは、もらっている小遣いの額なんか確実に2桁は違っていたので、最低限の交友関係を持つ為に、私は新聞配達のバイトまでしていた・・・
長男だって事で、主に母に(偏愛という程ではないにせよ父にも)期待されていたんだろうな〜
でも・・・周囲には、三菱グループ会長の御曹司だとか、道路に面した門から玄関に至るまで山を登っていかにゃならん様な家のヤツだとか、ちょっと私では話題も一致点も無いし・・・付き合えないぞ・・・
別に、自分の「社会性」の無さを「その」せいにするワケじゃないが・・・一学年当りの学生数が200人程度の規模で、同じ顔を6年間も見てきた筈なのに・・・卒業間際になっても「顔」と「名前」が一致した奴なんか20人程しか居なかった・・・
(今でも覚えているとなると・・・5人ぐらいか?)
余談が長くなったけど、話を本題(キリスト教と私ってテーマに)戻します。
一応はミッション校だったという事で、週に1時間は「宗教」って授業があって、宗教史やら各宗教の教義比較とかいった一般的な問題に加えて、キリスト教の教義解説とか宗教映画の鑑賞なんてのもありました。
(真剣なんだろうから笑っちゃいけないんだろうけど、スコラ哲学に「神の存在証明」なんて屁?理屈があった事は、けっこうツボに入って、思わず笑ってしまった・・・苦笑)
あと月に1回だけ、生徒の中の信者子弟を集めて、土曜日の授業後にミサなんて事もやってました。
これはカソリック信者だけが対象でなく、プロテスタントの信者の子弟も呼ばれていたので、この時に私は始めてプロテスタントの信者とも接点を持ったりしました。
でも・・・振り返ってみると、どんどん私の心は「信仰」ってものから離れていったんだな・・・
(色んな理由があったんだろうけど)
第一の理由として思い付くのは・・・陰気な私は、その頃は知識の吸収や屁理屈を考える事が面白くて堪らなかった時期だったって事です。
(ちなみに体育会系の部活ってのは、中学時代のバスケにせよ高校時代の水泳にせよ、そこには1〜2ヶ月しか居なかったという程に興味が持てませんでした)
授業を聞いているだけで、高校までの間は(大学では全く別でしたが)それほどは落ち零れる事も無かったので、学校での与えられた課題や宿題をこなす「勉強」ってのは、中学入学以降は大学受験さえもホトンドやらずにいたのですが(というより・・・やろうと思っても机の前でガマガエルみたいに脂汗を流し続けるだけで出来なかった)、大した事は無い読書量の割には、本だけは好きだったので、6年間の内の5年間は図書委員を真っ先に引き受けて、図書館の裏側の書庫とかに引き篭もってました。
小学校時代から中学の始め頃までは、SF(サイエンスフィクション)ばかり読んでいましたが、その後はパッタリ止めて、別の系統の本を読んでいました。
(SFは最近になって、再びボツボツ別の読んだりしていますが・・・)
その頃の私が関心を持って、中学時代に自分独自のモノだと自惚れてウダウダ考えていた屁理屈ってのが、高校になってから読んだ実存主義という観念論哲学の一分野であるハイデッカーとかの「存在論」と同じ興味関心から発してるなんて事を知った時には、落胆というか興醒めしちゃった部分もあるんだけど、実存主義自体は、小説としてアルベール・カミュだとかを読んで面白かったって記憶があります。
あとは、およそ節操が無いんだけど・・・安部公房やらヘミングウェイなんかが好きで、キリスト教系だと遠藤周作やら・・・(今では嫌いになったけど)曽野綾子なんかも読んでいました。
ちなみに、宮本百合子とかのプロレタリア文学とかは、その当時には全く読んでませんでした。
(それを読んだのは、ずっと後で大学になってからでした)
でも、図書委員会は生徒の自主団体では無いって理由で、文化祭に参加させてもらえなかったって時には、顧問とも対立したりして、図書委員長みたいな役を買って出て、会議では下手糞なアジテーションまがいの事をやったりしたんだけどね・・・
もう一つ(もっと)肝心な事は、この時代というのは、いわゆる思春期というヤツだった事です。
私の場合、肉体的な意味での性的成熟というか・・・ホルモンが意識を暴力的に侵食しはじめたのは小学校4年頃からなので、男性としては比較的に早かったんでしょうが、その発現の形態は非常な抑圧を伴っていた為か・・・反動として(あまり)常識的なものではありませんでした。
恐らく、別に私に限らずに、男性の性(ホルモン)というモノが、未だ成熟していない思春期の「半子供」の精神へ、暴力的な攻撃と言ってもよい作用をするという事情は、誰にとっても同じく生じる事だとは思うんですが、そういうのって・・・ヘテロセクシャル(ノンケ)だろうとゲイセクシャル(同性愛者)だろうと、普通は何らかの外部の対象に向き合う契機(恋をして打ち明けるとか)にもなるんじゃないかって思うんですが・・・
具体的に、どう「常識的」では無かったか?って事は・・・(単なる思い過ごしかもしれませんし)いまだに自分でも判らないので、さすがにココでは書けません。
(多分・・・墓に入るまでダメ)
それは、ずっと後に体験する事によって、始めて自覚する事ができ、既に妻ですら知っている「バイセクシャル」=自分の性向という(自覚さえできれば比較的に少しは単純とも言える)問題とも、少し違うんですわ・・・ハイ
まぁ、いずれにせよ抑圧されて歪んだ自分自身の行動の蓄積に、既に落胆しきっていた私は、縋る様な思いで誰も居ない学校のチャペルに這って行っても、何も「神さま」とやらが私に語りかけて呉れる事は無かったってワケです。
(遠藤周作の「沈黙」って小説程にカッコイイ状態ってワケでは無かったんだけどね・・・苦笑)
そんなこんなで、単に苦労知らずのガキだっただけの自分が、大した論理も持たないままに屁理屈だけを捏ね回した結果として、自業自得とはいえ脆弱で肥大化した自意識を築く事になり、その目を覆う様な現実に対峙していかねばならない肝心の主体とは何か?って事になると、薄っぺらで感傷的なだけの括弧付き「絶望」だけが唯一の自己存在証明だといった、今から考えるとムカツクだけの18歳になって、大学へ進学するワケです。
それでも、あくまで頭の中だけは(主観的には)押しつぶされそうだと感じる、絶望的な気持ちを両手一杯に抱えていた事だけは、確かなんだろうけどさ・・・
(そのBに続く)
そのBでは、大学時代の恋愛やら、プロテスタントへの入信、政治活動と冷却期間、信仰からも離れてしまった現状に至る迄・・・を書く予定。
(あまり特定の読者など想定せず、自己満足で書いてるだけなんで・・・数日後かな〜)

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2004/11/17 15:47
「キリスト教」と私 ・・・その@
掲示板でも予告した様に、掲題の内容で記事を書きます。(数回に分けて)
こりゃ自分の経験だけの記事だから、大した事は書けないんですが・・・もしも事故かなんかで明日死んじゃうなんて事があった時に、この小さな頭蓋の中で自分が想っていた事が何処にも残らないっていうと、後悔しそうだから・・・
(って、あくまで仮定の話で、別に今の所は、そんな予定があるわけじゃ無いヨ)
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【前置き】
このHP(ブログ)の記事の最初(↓)の方に「自己紹介」って記事があって、そこでも書いたのですが、私は・・・括弧付きですが今でも「クリスチャン」という事になると・・・思っています。
何故「括弧付き」になるかというと・・・現在の自分の思想や言動、および生活態度といった面において、他の「真面目」な信徒と呼ばれる方々からは、到底そうとは認めてはもらえないだろうという自覚と、他人がどうであれ自分自身でも確信が持てる程の「信仰」なんてものが、現在の自分自身の中にあるとは、思えないという理由によります。
しかし、社会的もしくは形式的な問題だけで言うならば、洗礼(イニシエーション:加入儀礼)というものは、ローマ・カソリックの教会でも、プロテスタントの教会でも、それぞれ1回ずつ受けたりした事もあるのです。
(だから・・・図々しいとは思いつつ・・・少し居直って括弧付きでも「クリスチャン」だと私は名乗ったりする事があります。)
ここで、キリスト教について詳しく無い方の為に補足します。
ローマ・カソリックとは世間では旧教とも呼ばれており、組織的にはローマ教皇を頂点とした世界的に統一された団体です。
一方、世間で新教とも呼ぶプロテスタントの教会は、学校の世界史でも教えるヨーロッパの中世という時代の終わり頃に、宗教改革と呼ばれる運動から生じた流れであり、教義で重視しているポイント毎に、単立の教会から比較的大規模な教団に至るまで様々な教会が並立しているという形態になっています。
20世紀後半以降(第二バチカン公会議以降?)〜現在に至るまでの間では、旧教と新教の関係は、一般的には(さほど)悪く無いないというか、私の知る限りでは比較的友好的といって良い状態だと思います。
(ちなみに、私が以前・・・大学時代に通っていたのは、イエス福音教団という「福音派」と呼ばれるグループに属していましたが、その「福音派」って何じゃ?って事は後に触れます)
そういうわけで、私には日本人には珍しく「ミドルネーム」というか、カソリックの(幼児)洗礼の際に命名された、洗礼名というモノがあります。(笑)
私の洗礼名は、ラテン語的な発音だと「パウロ」という名前なのですが、それは恐らく英語読みだと「ポール」になると思いますし、私の日本での戸籍上の氏名とは異なって、別に珍しい名前という訳ではありません。
(ローマ教会の歴史上で「聖人」とかに叙せられた人の名前を付けるのが普通みたいです)
まぁ、こういうキリスト教に関連した私自身の属性も、仕事とかで外国(欧米圏)に行った時に、洗礼名は通称にも使えるとか、キリスト教を通じて得た経験やら(キリスト教的な)常識や話題が会話において役に立ったというだけで、だから何だ?って言われても、(対外的には)そんだけの事でしか無いってのが、残念ながら偽らざる所なんだと思います。
でも・・・今日ココで書くのは、別に「信仰告白」でも「布教」でも無くて、つまらない?単なる(あんま社会性というか対外的な問題では無い様な)自分自身の「生い立ち」やら「感慨」に過ぎないというわけなんです。
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【幼児期〜12歳頃?】
私とキリスト教との関わりって言うならば、話は遡って、まず私の実母から始まってしまいます。
実母は、私には窺い知れぬ内面を持った独立した人格であるので、現在どう思っているのか?までは知りませんが(少なくとも私を産んだ時点では)ローマ・カソリックの教会へ通うクリスチャンでした。
カソリックへの入信は、彼女の短大時代だったとの事なので、彼女が私の母校と同じカソリック・ミッション系の中学・高校にに通っていた時期とはズレている為、事と直接の関係が有るのか否かは知りません。
もしくは・・・当時の時代背景からすると、相当に奔放でエキセントリックな生活を送っていた「祖母」への反発とか、そういった環境からの救済を求める気持ちもあったのかもしれません。
(この祖母は全く宗教的では無い人物で、若い時の山師めいた人物達との派手な交際を経た後に、今では愛知県東栄町という山奥でヘンクツな性格に磨きをかけて存命しています)
ところで、カソリックでは信徒に子供が産まれると、赤ん坊の間に幼児洗礼を受けさせる様に薦めます。
そういったワケで私も幼児洗礼を受けたのですが、単に受身であったというだけでなく、小学校の低学年になる頃までは、良い子チャンに毎週日曜日になると自発的に教会に行って礼拝に参加していたりしました。
(今の私を知る人間からは大笑いされそうですが)
その頃に通っていたカソリックの教会(今はもう無いのですが・・・かつて名古屋の大曽根という場所にありました)は、私にとっては・・・とても楽しい場所でした。
そこの神父様は、名古屋市の北区にあった城東園という昔の「赤線地帯」に働く女性達に布教したり援助する為だといって、私財を全てといって良い程に投げ出しては、土地を買って教会を建てたり維持したりといった方だったし(ボロボロの教会でした)、ローマ教皇庁が典礼を改正して現地語(日本語)でミサを行う事にしても、教区内では唯一人「ラテン語」でしかミサをしないっていうのを終生貫いた頑固な方でした。
(ちなみに、神父とはカソリックの聖職者で、牧師はプロテスタントです)
今から考えると(恐らく)周囲からは変人と呼ばれていたのではないか?っていう程に、個性的な方だったのですが、私に対しては・・・非常に目を掛けて可愛がってくれていたので、頑固なんだけど優しい御爺さんとして、今でも私の記憶には残っています。
そのころの私は、神父の脇でミサの手伝いをする事も多く、赤と白の衣装なんか着て祭壇でロウソクなんかを付けたり、聖書や祭具を運んだりしていました。(お駄賃は10円だったか30円だったか・・・)
クリスチャンでは無い近所の家庭とは異なって、神道や仏教に起源を持つ祭り(七五三とか)には、全く縁がありませんでしたが、復活祭やクリスマスは常より長く教会で過ごしワクワクしていたって事を覚えています。
復活祭では色付きセロファンに包んだ茹で卵を配ったりしましたし、クリスマスには生誕シーンを模した飾りが祭壇の脇に出してあって、何故か普段の数倍になる参加者が集まる深夜ミサがあって、その日ばかりは夜更しを許された子供が眠いのを堪えて最後まで起きていると、神父がサンタクロースの格好をして菓子を配ってくれました。(そんでミサが終ると隣の信徒会館という名のボロ屋で、お汁粉や焼きブタを食べさせてもらったりして、夜明け近くまで過ごすんだな)
駐車場として賃貸していた場所を除けば、とても緑も多くてホッとさせる雰囲気がある教会だったのですが(イチジクの実が成るのが楽しみでした)、その神父様(七崎神父)が昇天された後は、私の足も教会から遠ざかっていきました。
(私が再び「教会」に関わるのは、少しは悩みらしきものが生じるまで成長してからです)
七崎神父が昇天された後に・・・元々治安の良いとは言い難い場所だった事もあるのでしょうが、私の通っていた大曽根教会は、放火?と思われる火災により全焼するという事件があり、その事件を機にカソリック名古屋教区は、七崎神父が寄進した大曽根の土地を売ってしまって、今はもう・・・えらく近代的な「商業」ビルが同じ場所に建っています。
(確か・・・職安の向かい側だったかな・・・)
(そのAに続く)

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