2004/11/19 15:28
「キリスト教」と私 ・・・そのB
まぁ目的が「自己満足」だってのは別に良いとしても、満足すべき私にとって果たして楽しいのか?
まぁ今回は(前回に比べ)楽しかった時期の話なんで、私としては少し気楽です。
私は大学受験において、できるだけ怠惰で安易に浪人もせずにチャッチャと済ませようなんて考えていたりしたもんで、不得意科目を避ける為に出身地の隣の県にある大学の理学部物理学科を選び、目論見通りに入学する事は出来たんです・・・(ツケは後になって回ってきます)
遠くに行ってみたい(要はココでなきゃ何処だって良いという逃避)なんて情けない理由で宇宙に憧れていたなんて事もあったんだけど・・・理系進学コースに居たもんで高校までは比較的に物理が得意で、人から好かれりゃ悪い気はしないなんてのと同じで、成績が良いなんて理由でさえ科目を好きになる理由になります。
しかし受験直前に、やりたい事というか「自分は文学部に行って哲学を勉強したい!」なんて発心した事もあったのに・・・結局は英単語のスペルを間違えなくて済む1次のマークシート式テストだけなら偏差値も良いなんて打算に負け、進路を変えなかったなんてのは、ちょっとヘタレ・・・
でもまぁ、好きな事なら専門以外でサークルだとか独学だとかでやれば良いなんて、これまた安易に考えて、それなりに期待に胸を膨らましてました。
しかし浪人を避けようとした安易さが祟ったのか・・・結局、私は学部卒業まで3年も留年し計7年も掛ける事になります。(単に遊び過ぎ)
自分の大学時代は下記の2期になります。
@前半(1〜4回生:86〜89年)
あまり勉強はしなかった時期。(教養課程で留年を2回繰り返した)
プロテスタントの教会に入信して通っていた時期。
学内サークルは慢画研究会で、とても楽しかった時期。
平和運動とかはやっていたが、まだ日本共産党に入党しなかった時期。
(天安門事件抗議集会とかで薦められ赤旗を購読したり応援はした)
ムッツリスケベだった時期。
A後半(5〜7回生:90〜92年)
これでも(自分の中で比較すれば)必死に勉強をしていた時期。
前半のツケで単位取得カリキュラムが重なって、更に自動的に
1年留年を強いられたが、その分は専門外にも手を出し勉強して
いた時期。(学部課程期)
プロテスタントの教会には全く行かなくなって信仰から離れた時期。
ソ連・東欧の崩壊を見つつ日本共産党に入党し、複数の社研サークル
で課外活動したりもしていた時期。(資本論も読んだ)
大好きな漫研には、迷惑をかけた上に顔を出せなくなった時期。
色々あって苦しかった・・・って記憶しか残せなかったっていう時期。
今回は、自分にとっては楽しかったって記憶もある@の時期に限り、書き留めて置きたいと思います。
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【1〜4回生:86〜89年】
この時期の私は、他者(閲覧者)からは、公教育に税金から支出された、社会的な資本を喰い物にしていたと罵倒されても、全く反論が出来ないという程に勉強はしなかった時期でした。(教養に居残って留年を2回)
そりゃ別に・・・社会勉強なら大学じゃなくても他でいくらも出来た筈なんだしね。
しかし大学という場所には、それまでの自分では知る事が出来なかった様な、色々な世界があったって事は確かで、この時期の私は結局のところ出会いの場として利用していた様なモノなんですが、新しい世界との出会いの契機を得るだけならば、今ならばインターネットで同じ事ができるんでしょう。
だた、緑が多い静岡市の日本平丘陵に建つキャンパスは、明るくて開放的な雰囲気を醸し出していて、高校までの暗澹たる気分を吹き飛ばすためには「何でもやってやろう!」って気分にさせてくれたのは確かです。(勉強以外は・・・って事だったみたいですが)
まぁ、育英会の奨学金(現在返済中)で賄った学費以外は、アルバイトして捻出しようとした事を皮切りに、周囲の人間を何と呼ぶか?ってな人間関係上の些細な事まで含めて、これまでの自分と違う事をしようとしました。
(ちなみに、ここで言っている周囲の人間への呼称というのは、高校まで比較的に近しい同級生であっても「〜君」なんて呼んでいたなんていう、クラスの中では典型的なイジメられっ子だった自分が、周囲の人間が普段しているやり方をマネて、近しい友人は呼び捨てにしようって涙ぐましい取り組みだったりします)
本題(キリスト教と私)に取り掛かりますが、大学一回生の夏に、プロテスタント教会において、洗礼(教会用語でパプテスマ)を受けて入信し、教会へ通う様になりました。
きっかけは、毎週土曜日とかに学生生協第一食堂前という人が多く通る場所で、フォークギターでゴスペルソングを弾いたりマイクを使わず地声で伝道していた、現在イエス福音教団富士教会で牧師をしている兄さんに、声を掛けられたって事です。
単に声を掛けられるだけなら、そういえば当時に街頭でテロ組織である「戦旗共産同」の女性メンバーからオルグ(組織化:この場合は勧誘の事)されかけて、けっこう強引に何度も訪問を受けてたなんて事もあったんですが、そのネエちゃんにはキッパリと断りましたし、別に「声を掛けられた」って事が嬉しいなんて理由でホイホイついていったってワケでも無いんですよ・・・(苦)
それに最初は、いわゆる社会問題を引き起こしていた「統一協会(※注1)」だとか「エホバの証人(※注2)」じゃないのか?・・・って警戒ぐらいはしたんです。
もちろん違ったからこそ、私みたいなオッチョコチョイでも(少し勇気は要ったが)入信してみようなんて気になったんですが・・・
しかし、私は何故そこでプロテスタント福音派の教会に入信したんでしょうね?
一種の「恋」みたいなモノだったんじゃないかと思ってます。
つまり、自分には無い個性や特質を持った人間に憧れみたいな気持ちを持って、請い(恋)願うってワケです。
勿論、キャンパスに伝道に来ていた兄さん「個人」に対してじゃ無いとは思いますよ。
そりゃ・・・さわやかで明るくて魅力的な男性だったけど、全く肉体的・性的な対象として見るなんて事が許されないぐらいに、私の目には清らかな人物に映ってましたし、幸福な家庭を築いていた妻帯者だし。
でも、一般的な理屈で考えるとすると、自分に無い性質への憧れみたいな気持ち【だけ】にしか根拠を持たない「恋」の一種は、自明の結論として破綻する事が約束された、不幸な状況とも言えます。
だって、それだけだとすれば、要は憧れて止まない「性質」を持っていない自分なんか嫌いだって事の裏返しだから。
つまり嫌いで堪らない自分に手を付けず、都合良く補ってもらおうという視点で他者を見ておいて、どうして何かを望む限りにおいて背負う義務やら、マシな未来を築いたり結果を切り開く当事者=常に問われている自分自身に、目が向けられる事がある?
その「不幸」とは、立場を反対にしても起こり得る事だと気が付く事も出来た筈です。(全然容易では無かったんだけど)
つまり、そんな状態の自分が誰かから幸運にも好かれるなんて事があったとしても、そんな自分を好きになってくれた事が有り難く嬉しければ嬉しい程に、相手を拒否せざるを得ないワケでしょう?
自分を嫌いで堪らない限り、たとえどんな相手の好意だって自分にも相手にも幸福が齎されるなんて事は、信じられない筈です。(目は常に内側を向いているだけなんだから)
当時は、未だ女性と未経験だったなんてのは理由になりません。
しかしそれでも、憧れに胸を満たしていられ、現実によって夢から覚まされるまでの間は、そんな淡い恋であっても、本来であれば向き合わねばならぬ孤独を忘れさせ、幸福な気持ちを自分の頭の中に齎してくれるってのは確かです。
その頃、私はそういう強烈な「憧れ」だけの一方的な「恋」なんてものを、キリスト教会だけではなく、当時のサークルを始めとした色々な場所で心に「秘めて」いたわけです。
どうして「秘めて」いようとしたのか?ってのは、自分を嫌いで堪らない限り、当然の事でしょう。(だって自信無いし)
でも・・・恐らく周囲から見れば、「秘めた」なんてのは単なる笑い種で、必死こいて「悟られまい」とすればする程、丸見えだったんだろう・・・と思うんですけど(恥)
しかし、例え「恋」が勝手な片思いであったとしても、それすら無い時期に比べれば、とても楽しかった恋する時期だったと言えるんです。
余談だけど、女性とは何も無かったけど、自分がバイセクシャルだという、変えらぬ肉体的な性衝動の現実に、初めての体験で気が付いたのもこの頃・・・
迷い込んだ「ハッテン場」で、同性相手に性的な接触を持ったって事件があって、当時やっと話題になり始めたエイズとかが非常に怖くなり、冷や汗を流して3ヶ月を耐えてから(判別できるまでに3ヶ月必要)、保健所のオバちゃんの好奇の目に耐え「検査」を受けに行ったっけ。
陰性だという結果を受け取りに行った日、保険婦さんが追いかけて来て「相談に乗るよ」なんて言われた時は、そういう風に自分がなった事など別に自分の責任とは限らないにも関わらず、矯正せねばならない犯罪でも咎められた気分がして、一目散に逃げてきました。
なんで、自分の「性」がそうである事は罪なんかじゃ無いとチャンと言い、同性愛者の人権を主張するって事を貫けなかったのか・・・
しかし、この件は確実に「夢」の終わりを予告していて、自分自身を含めた現実に、向き合わねばならない時が近づいた事を自覚させる契機になりました。
そりゃ同性愛を認める福音派(※注3)教会なんて聞いた事も無いですし・・・(苦笑)
この「幸福」な時代は、そんな観念的な「憧れ」だけでは何も変える事が出来ないという事(例えば告白するとか・・・笑)から、目を逸らす事が不可能になるまで続きます。
(普通ならすぐに気が付きそうなもんですが、私の場合4年という長い間続いたんだな)
何らかの具体的行動を起す為に、自分を変えていかねばならぬ状況に追い詰められてくのは、比較的に真面目に勉強しようとしていた大学の後半(5〜7回生)になってからです。
移行の直前には、次第に様々な局面において辻褄の合わない事が蓄積していたので、懐かしく感じる場所を逃げる様にして去っていきました。
当時の政治活動なんですが、平和運動とかは自分自身がやりたい事に重なっていたので、時々やってました。
しかしこの頃は、まだ日本共産党(JCP)には入党しなかった時期であり、私自身の要求と党政策が一致した場合にのみ協力したり、援助もしたりするという程度で、党の側から見たら恐らく周辺をフラフラしている協力者といった存在でした。
(薦められて赤旗を購読したり、選挙では全戸ビラを撒くぐらいの応援はした)
天安門事件抗議集会とかを機に、それまで距離があった党と私の距離が縮まり、私以外は誰も一般参加者居ない時事問題の寂しい学習会なんかに、可哀想というか興味を引かれて何度か参加したりするようになります。
一方のキリスト教では、当時の自分では祈っても自分自身を全く変えられないという事が、少しずつ身に染みて次第に教会からは足が遠ざかる事になります。
文中※注は、本記事のコメント参照
(そのC)に続く
まだやるんか・・・オレ

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