2004/12/25 16:58
忙しく過ごしているうちに、気が付けば今年も、もう残り1週間を切っています。
・・・とは言っても、そういった節目に、特別に何があるという訳でも無いのですが(大して長くは取れない休日はある・・・笑)、それでも人間が気分や感情抜きで生活しているのでも無い限り、そういう気持ちの上での区切りというか文化的な問題つ〜のも、私が生きている小さな集団(コミュニティー)の中で、会話やイベントによって意思や感情を疎通させたり(コミュニケーション)、理屈以前の信頼関係みたいなものを築く為には結構大事な問題であったりもします。
・・・とか何とか、いちいち「理屈」を付けねば、私も、「本年中は大変御世話になりました。来年もよろしく」だとか、「残り少なくなりましたが、今年が皆さんにとって良い年として締め括られますように。また来年が皆さんにとっての飛躍の年として、健康と幸福でありますように。」とかって、挨拶も出来ないという癖(クセ)は、何とかした方が良いとは思います。(苦笑)
私個人にとっては複雑な思いも少しはあるクリスマスも、以前にココでも触れた結婚記念日も、無事に過ごせました。
結婚記念日は普段通りの毎日で互いにイベントらしき事も無かったけど、まぁ(今の所は)仲良く互いに健康に過ごせているので、それが何よりでしょう。
子供達は、どうやら未だサンタさんを信じているという年頃であるらしく(私はサンタを信じていたという記憶が無い)、「サンタさんに(逆に)プレゼントしようと思って手紙を書いた」なんてのを聞いたり見たりしていると、これは・・・殺気立ってるというか殺伐とした雰囲気の職場と、本当に同じ地上での出来事だろうか?・・・って気がして、思わず「おめ〜ら実は幸せだろ?」などと(我が子にまで)妬ましく言ってしまうというのも、それを私自身が望んでいるという意味では悪く無い事なのかもしれません。
実は最近、えらく仕事上で「煮詰まって」いるので・・・年代的に「最後のチャンス」として、真面目に転職まで検討せねば・・・将来展望も見い出せず(少しだけ)体や精神が持たないかとも考えたりしているのですが、このまま現状の生活や仕事の維持が可能か否かは別にして、もっと頑張ってみるかと、(これでも)思いました。
単に、たまたま仕事上で大きな物件が終ったばかりなんで、一時的に気持ちも楽になって前向きなのかな?(次が待ってるけど・・・笑)
これは鬼が笑う話かもしれないのですが、もし来年の暮れにも私が生きていたとしたら、今と同じ事を考えているのかしら?(私は、それを良しと思えるか否か?)
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実は今回、私は「趣味って何だ?」ってテーマで、何か書こうかと考えていたんですが、書く為に「文化」だの「仕事」だのとウダウダ考えていたら、結局・・・何が何だか判らなくなってしまったので、今回は(華麗に?)パァァァァッス!!!
ただ、私がこれまで私自身の「本業」とは区別された「趣味」であると、自分自身では思い込んできた事について、せっかく日記系のブログを開いてながら、触れた事が無かったと思い至り、もったいないと思ったのは確かです。
これまで一応、天体ウォッチとか、漫画を書くとか、ツーリングだとか、温泉巡りとか、色々とあった気もするんだけど・・・最近は何も出来てないし、かろうじて残るのが「音楽鑑賞」と「読書」ぐらいか?
「音楽鑑賞」はともかく、その「読書」についても、仕事関連や政治関連(これも趣味か?)を除けば、あとはえらく「ライト」な物しか残らない気がします。(まぁ「趣味」ってのはそんなモノかもしれないけど)
ライトといえば・・・ライトノベルというジャンルで売れすぎて、実は本人は嫌がっているとの噂の、小野不由美女史の「十二国記」やら「屍鬼」も、実は今年になって読んだりしたっけ・・・
(深夜一人の部屋で、泰麒キュンだとか静信サマ萌えってか?←致命的自爆行為)
ちなみに、私の使っているパソコンで、インターネットブラウザーソフトの「お気に入り=ブックマーク」には、ディレクトリ(フォルダ)毎に細分化して分類した、色々なサイトのショートカットが入っているんですが(政治/友人/趣味/創作/地域/論文/etc)、その趣味のフォルダに入っているサイトには一貫した傾向と呼べるものが無く、果たして私には「趣味」と呼べるモノが有るのか?・・・って真面目に考えてしまいました。
ただね、私の娘(6歳)がねぇ・・・土曜日の夕方という、珍しく一緒に過ごせる時間帯に、私がソファーで娘と一緒に、別に私にとっても(ドタバタ物とは違って)嫌いではないTVアニメを見ているというだけの理由で・・・
「パパの趣味はCCサクラだよね」と、
デマに近い誇張
を周囲に言い触らすのだけは・・・
御願いだから勘弁して下さい(血涙)
(もう・・・保母さん達や周囲のママ連に・・・顔が出せなくなる)

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2004/12/13 2:38
今日は、日記なんだけど・・・少し理屈めいた話をします。
別に大した「論理」はないのに、自分に欠けた部分を補う為の方法として、自分に出来る事が「理屈」しかないのが、未だに情け無いとは言えますが・・・(苦笑)
本当は、和み系のネタで、昨日あった妻の実家における法事(正確には妻の伯父の33回忌で「お年忌明け」の法要というものらしいが)やら、どうやら「精進落とし」という名目だったらしいのですが、昨夜に泊まった(脳ミソのシワがノビて無くなりそうな)温泉ホテルの話でもしようかと考えていたんだけどね。
(そっちは掲示板で話す事にでもします・・・笑)
さて、前置きなんですけど、(他の人の事は知りませんが)私自身には、「自分は、こんな事にも気が付かなかったのか〜」って思う時が、時折あります。
そして(本当に判ったと言えるのかどうかは別にして)、自分では「やっと判った」という事であっても、単に理解できたというだけの事では、何の意味も無いというのが多いという事が実態であり、所詮は「何をやったのか?」に比べれば「何が判ったか?」なんて事は、そんなものかもしれません。
それだけの意味しか無い事の証明みたいに、私は(多分)馬鹿なので、そんな浅い理解のママでは、野蛮に切り抜けていかなくてはならない「生活」の中では、そのカッコつき「理解」の事を、私は(すぐに)忘れてしまうのです。
今までの私が常用していた、個人的に(誰にも見せない)未整理メモとして書き付けるだけだと、しばらくすると書いた本人である自分自身にすら意味が判らなくなり、備忘録の用すら成しません。
だから、果たして「書く」という事に如何ほどの意味があるのか?ってのは判らずに、自分でも何を一体してるんだ?とも思います。
それでも、(えらくローカルな場所とは云え)ウェブ上に公開している限りは、確実に少しは「読者」というものを想定しているのです。
そうである限りは、自分の問題を「昇華」させ、「希望を示す」なり「楽しませる」ってカタルシスを提供しようとするのが、他者に対する一般的な礼儀というか・・・最低限の「スジ」なんでしょう。
もちろん、私にも(ほんの・・・少しかもしれませんが)そんな気持ちだってあるとは信じたいのですが、結果として何処までそれに「成功」できるのか?・・・なんて事は判りません。
しかしまぁ、とにかく私の今の「心境」について「書いて」みます。
でも、こりゃ以下に書こうとする「本題」に比べて前置きが長すぎだわ・・・
(大江健三郎風に表現すりゃ「見る前に飛べ」ってカンジ?)
具体的には・・・特定の「何」って事でもないのです。
(といっちゃ嘘になるのかなぁ?)
ただ・・・誰であれ自分の周囲の「世界」と「自分自身」との関りにおいて、事の大小には関り無く、失敗やら挫折やら妥協なんてものは、(恐らく当たり前の事として)よく起こり得る事であり、それ自体では別に決して「悪い事」とは言い切れないという事も、多いのだろうと私は思っています。
つまり、「失敗やら挫折やら妥協」に如何なる意味を持たせるのか?なんて事は、それ以後の自分が、それに向き合っていく自分の意思を持ち、その意思を通す為に何が出来たのか?によって、場合によっては後に誇る事が出来る程にまで、意味を正反対にしていくなんて事だって不可能とは言い切れず、私も常にそれを視野に入れていきたいとは思います。
しかし、不幸が・・・当事者である自分自身における「失敗やら挫折やら妥協」の受容形態から生じるという事は、自分自身では認めたくないんだけど・・・確かに在る。
一つの実例として、「失敗やら挫折やら妥協」に際し、(これも「人間らしい」反応ですが)その衝撃や絶望に流されてしまうだけになってしまったり、それまでの比較的に「幸福」だった時期に自分自身が望んでいた事までを全て消し飛ばされて、自分の意思まで「失敗やら挫折やら妥協」という局面状況に依存させてしまう事、つまり状況に耐え得ないとして自分の意思を手放すという事がありました。
これも、それだけの事なら善も悪もないんですが、仮に手元に如何に価値がある多くのものが残されていても、自分の意思を手放した自覚が無ければ(代償として)、不幸が生じる問題となるのは、世界の「悪意」しか見つけられなくなったり、「悪意」しか認められなくなってしまうって心理状況です。
要するに、もしも世界に悪意しか認められないのであれば、その人にとっての幸福とは、狂気の別名だという事です。
(まぁ・・・狂気でも構わないと寝言を言う大馬鹿野郎も、別に他人事じゃありませんが)
しかしやっと・・・こんな事が判ったところで、何の益もありません。
ですが・・・もしも「毒」からでも人が得るものがあると仮定すれば、一つの希望として残るのは、逆ももまた真かもしれない(真である筈だ、もしくは真であって欲しい)という観点も、同時に考えられる事です。
(これもまた・・・本人次第なんでしょうが)
カンが悪い私ですら、考えてみれば(恐らく「常識」を持つ自分以外の人間からすりゃ考えるまでもなく)、これまで多くのものが他者から与えられてるんだよね。
まだ何も・・・終わっていないどころか、始まってすらいない事も多いワケで、迂遠な回り道をしつつも、ココまで歩いて(落ちて?)きたのであれば、逆の方向にだって歩いて(戻って?)いく事だって、例え遠い様に感じる事があっても、決して出来ない筈は無いと、今は考えています。
あくまで自己満足で自分の為に過ぎないとしても、せめて1つぐらいは、何かを返したいもんです。

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2004/12/9 11:16
今日は、最近の国際政治について、あくまで私が【個人的に】考えた事の、覚え書きです。
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@ 【前提 ・・・単なる「床屋談義」でも判る事】
あの朝鮮民主主義人民共和国が、またニセの遺骨を出してきた事が判明したと報じられていました。
人を舐めているとしか(私にも)思えません。
どう見ても確信犯だし、今さら手違いなんて事があるわけないよな・・・手違いかもしれないなんて考える事は「不可知論」って奴じゃないのか?(冷)
大韓航空機爆破事件の際に、「結局は本当の所は判らない」などと寝言を言っていた一部のマスコミに対して、当時の日本共産党の顔だったミヤケン(宮本顕治氏)が批判を加えていたセリフを、そのまま援用すればって事ですけど・・・(苦笑)
単なる雑草に等しい私には、国境だの国家だのは、どうでも良いとしか思えませんが、(国の違いはあっても)民衆に寄生しているという意味では、こりゃ(為政者という名の)ダニの駆除法と同じだと思えました。
単に潰すのでは無く、支えてる基盤を断つ事が必要です。
(この事は、後でAにおいて述べます)
最初に強調したいのは、この局面における「経済制裁」というのは、明らかに相手の「思う壺」だという事です。
一般的に言っても、「経済制裁」された国において、【直接】困るのは「為政者」ではありません。
(恐らく為政者自身は、生活に困らないだけ、たっぷりと持ってるワケですから)
では、どんな場合に「経済制裁」という選択が有効性を持つかと言えば、それによって【直接】困窮する事になる民衆やら在野の勢力が「力」を発揮して、相手国内から為政者へ圧力をかけて政策変更を促したり、政策変更が得られない場合は「為政者」そのものを相手国民の手によって「排除」してもらう事を【期待】して行うものでしょう。
(恐らく)すぐバレる事ぐらい承知で大ウソを付くという事は、あの国の「フザケきった」為政者にとっては、そんな「力」が既に国内の民衆に無い事に対して、括弧付きの「自信」でもあるのでしょう。
つまり(ヤクザの一般的思考法から推察するに)、日本などよりも依存度が高い「中国」がある事もあり、もしも仮に日本が「経済制裁」した所で、(彼等にしてみれば)ミサイル実験再開や核実験の実施といった、カードを切る口実が出来たぐらいにしか考えないのも明白です。
「米国」にとっては、要するに自国まで届く「核」への対処をしたという国内世論向けの口実さえ作れば良いと思われるので、自分にとって経済的利益になる巨大市場を抱える「中国」を敵に回すリスクを負ってまで、イラクなんかとは異なり資源も何も無い朝鮮民主主義人民共和国にまで戦費という「投資」をするつもりも無いと読む事も出来ます。
だから、あくまで「6カ国協議」まとめ役として「中国」を選び、「中国」が朝鮮民主主義人民共和国に対して「核」に手を出させない様に圧力を行使する限りで、それ(朝鮮問題)を「中国」にとっても政治的なカード(役割)として使う事を容認しているとも(私には)読めます。
こうなると、自業自得とは云え良いツラの皮だと言えるのが「日本」の小泉氏でしょう。
朝鮮民主主義人民共和国のフザケきった対応に、「日本」国内からは断固とした対処を求める圧力が日増しに強まりつつも、現在のところ政治的に「冷め切った関係」にあると言える「中国」との関係により、朝鮮民主主義人民共和国に対して最も影響力を行使できる「中国」に何かを期待も出来ず、彼にとっては唯一の頼りである「米国」ですら「6カ国協議」の枠を壊す絶好の口実を朝鮮民主主義人民共和国へ与える政策には、それが「米国」にとっての利益にはならない限りは積極的な賛同も得難い。
それどころか、自分の利には特に敏い「中国」が、同じく自分の利に敏い「米国」に対して話を持っていき、「日本」の単独行動にストップをかける圧力すら有るかもね(苦笑)
それを見て、結局は当面の自己の安泰を図れて高笑いするのは、朝鮮民主主義人民共和国の「為政者」だという事になります。
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A 【対処法 ・・・私が個人的に考える巻き返し方】
「満腔の怒り」を覚えるという拉致被害者家族の声には、人間として(たかが政治的な立場なんかの問題以前の事として)、私も全くの同感です。
しかし、各国の思惑の中で手詰まりとなった状況から巻き返す為には、戦略および戦略目標自身の、大きな転換が必要です。
国境を越えて普遍的に「生活」を営む「民衆」にとって、何をリスクとして誰がそれを負う事で何を目指すのか?・・・という事を念頭に考えるのであれば、具体的な戦略の前提ともなる大きな戦略目標自身は、自ずと定まってきます。
自分ではリスクを負わぬくせに、自分に都合の良いイデオロギーをでっち上げる事で、民衆にリスクを負わせる「為政者」そのものを、いずれの国であれ、その国の民衆自身が権力から排除していく事しかありません。
それは、決して相手(為政者)に鎧をまとう口実を与えない様に注意しつつ、内部から(その国の民衆の力が主導する形で)相手を切り崩さない限りは、結局は無益に終るだけでなく、余計に大きな犠牲を生み有害ですらある事は、現代史上の2つの事例からも(私には)明確だと思われます。
当該国の民衆自身が望み為したソ連・東欧の崩壊と、これまで犠牲や失敗やテロという害悪しか増幅しなかったイラクの事例です。
以前、私がココのウェブサイトに併設している掲示板で色々な問題について述べた事と重複しますが、明らかに「テロ」やら「独裁」は、民衆の絶望を寝床にして維持拡大されます。
そもそも、「外部」とやらに「敵」が居るという扇動宣伝やイデオローグによる不安や恐怖を無しにして、民衆に高い税金まで払わせて自己を維持した権力なんてものが歴史上にあったでしょうか?
(そもそも、誰が敵の居ない権力なんかを有り難がって税金なんぞ払うのか?)
それらを「口実」にして、自己の権力維持を図るフザケきった奴への対処法として、最も重要だと私が考えるポイントは、そういった「口実」そのものを与えない対峙の仕方を考える事です。
その一つとして、それが一時的には敵を笑わせるだけだと思えても(勝手に笑わせておいて)、まさに煮え湯を飲む想いで「援助」でも何でもするという事で、独裁とは相容れない文化を流入する隙を広げたり、最終的に権力から問題のある「為政者」を排除する民衆自身に経済的基盤を築いてもらい、自信という力を実現する、本当の「人道」援助をする事です。
この方法であれば、テロに口実を与えるだけだったイラクとは異なり、東欧の「壁」の崩壊の様な前進を民衆自身が勝ち取る事ができるであろうと(私は)思います。
もちろん、日本単独ではなく、最終的に困ってる人間の所まで届くかどうかを、査察するだけの権限やら権威やらが国際的にも広く認められた、国連等の「国際機関」を通じて行った方が良いという点を念頭に入れる事も必要でしょう。
これは、今さら世論の理解を得るのは難しいという意見もあるでしょう。
しかし、日本以上に多くの家族が拉致され「煮え湯」を飲んでいる「韓国」が、あの朝鮮民主主義人民共和国に対峙する戦略として、韓国国内からも反発が多い「対話路線」やら「太陽政策」を取っているというのは、単に「同一民族」だからなんて理由と思われますか?
口先だけは勇ましい民族主義者みたいに、「民族」の差異なんてのを「口実」に自己の政策の非合理性から目を背け続けていると、結局は自分自身の首を締めるとは思われませんか?
この寒空の下で、家族で身を寄せ合う事だけで寒さを凌ぎ冬を越えていくという点では、何ら「日本人」とも変わらないという生活者の視点で見れば、(あくまで私には)何が最も合理的で目的に対して「最短」の選択であるのかを考える上で、民族の差異などという「感情」を理由にする程に「ノンキ」な事は無いと思えます。
これが、私にとっては「ノンキに構えてられない」という意見への回答になる考えます。
つまり、決して相手(為政者)に「口実」を与えない様な遣り方を選択する事で、フザケた「為政者」やら「テロ」を民衆から孤立させ、一方で民衆自身による「力」という自信と文化を築き、内部からの可能性の拡大を図るという事が、最も道理に叶うだけでなく、最終的には最短の時間で解決する「戦略的」な方法であると(私には)思われます。
短期的な「戦術」しか持たぬならば、最終的な解決が遠くなるだけでなく、それは特に自己の利益だけで動く大国(米国やら中国)に対して、「別の利」を示す事で動かし、自己にとっての短期的な収益を挙げる上でも無益でしょう。
それは、こういった「戦略」を持たぬ偏狭な民族主義や国家主義では、最初に述べた@みたいなな手詰まりしか産まなかった点からも、私には明白に思われます。
特に、朝鮮民主主義人民共和国を動かす為に、朝鮮民主主義人民共和国に対して命運を握るに等しい、「中国」なんていう【自国の利益になる範囲でしか】信用のならん国を相手にするならば、相手国の民衆の力までを視野に入れた「戦略」は必須だと、私には思われます。

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