2005/12/28 22:54
いきなり何か漢字で「多様性」なんぞと小難しいタイトルを付けておりますが、別に大層な理屈を考えているワケではありません。(苦笑)
ただ、一般論として家族から地域・会社・政党・国家に至るまで、あらゆる人間集団に身を置いていても、それが豊かな多様性を認める場(組織)であればこそ、正直な感想として「息苦しくない」と思えるのは、私に限った事なんでしょうか?
(私の属している組織はドウなんじゃ?・・・ってのは一旦・・・脇に置いておいてね・・・苦笑)
逆に、組織が何らかの基準において「純粋」であればある程に、それを息苦しく感じるのは、その組織内の他の構成員から見れば不真面目でしかないのでしょうか?
話を大きくしてしまいますが、私は生命とは本来からして雑多なものであり、その善悪を問う以前の【存在】における多様性を否定して辿り着く場所とは、多様性を背景として生き延びる可能性を探る生命そのものの力とは縁の無い不毛や枯渇や衰亡でしかないと、事ある毎に思ってしまうのです。
つまり現実において「完璧」やら「絶対」やらが有り得ない以上は、必ず生きた組織には間違いというものは生じ得るのであり、その時において過ちからの再生の道を担保するモノとは、如何に豊かな多様性を内部に保持できているのか?という点に他ならないのではないでしょうか。
それは、例えば生物の進化の歴史において当て嵌るだけでなく、生き延びる会社の条件であったり、生き生きした生命力を持って伸びていく組織や政党や学問の条件であったり、歴史や政治においては・・・間違いばかり犯す凡人による「民主主義」が、歴史的に滅多に出て来ない奇跡の様な天才に委ねる「独裁」に比しても尚、はるかにマシな選択として選ばれ得る理由でもある様に、規模とソレに伴うリスク(危険)が増大すればするほどに、およそあらゆる物事に該当するテーマとも思えます。
なんて、話をデカくしてみましたが、結局は・・・私自身がココで生きていて良いという・・・「理由探し」みたいなものかも知れませんね・・・
思い当たる理由も無く息苦しくなったりした時に、飲み屋とか・・・より雑多な人間の居る場所に行って落ち着きたいと考える自分を見つけたりします。
7年前に、仕事で単身カナダ(オンタリオ州)に3ヶ月程行っていた時、自分自身が「外人」となっていた頃に寂しさから始めたインターネットですが、今思えば寂しさよりも、かの地は妙に自由を感じさせる空気だった気がしするのは、今居る場所からの逃避って言うのかしらん・・・
また何処か行きたいな。
来年は・・・行けるかしら?
(その前に普通免許でも取り直すのが先かニャ〜)
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【余談・・・こんな漫画読みました】
【作品名】 ヴィンランド・サガ(既刊2巻)
【作者】 幸村誠
【出版社】 講談社(連載中)
【ジャンル】 漫画(ドラマ)
【一言】
11世紀前半のヨーロッパで、後の世にバイキングと呼ばれた人々のドラマを描いた少年漫画。
幸村氏の前作である近未来SFモノ「プラネテス」という作品も私は好きでしたが、最近になるまでコノ作品が連載していた事も知りませんでした。
氏の筆力は、ますます迫力を増しており絶句もの。
「本当の戦士には剣など要らぬ」
う〜んカッコイイ!!・・・嵌りました。

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2005/12/18 23:07
なんか最近・・・同じ処をグルグル回ってる気がするんです。
(別に物理的な場所じゃなくて、気分の問題なんですけどね)
気が付けば、この自己満足オンリーと割り切った本ブログも、開設してから1年以上経過しているんですよね・・・
私には2人の子供が居るんですが、子供の1年は成長という大きな違いが目に見える様です。(それは喜ばしい事には違いないのだけれど)、私自身は20年近く前になる大学生の当時から、何処か少しでも成長したんだろうか?
こういう気分の時には、とりあえず目の前の仕事を上手く乗り越えられれば、それが自分の成長だと、自分に言い聞かせたりするんですけどね・・・
そういう「お年頃」のせいなのか(苦笑)、それとも病気のせいでなのか、甘ったれな本性が出て「弱音」を吐いているだけなのか・・・
もう先が長くない身内の事や、新しい門出を迎えようとしている身内の事、だんだんと日常の中で老いていく人の事・・・
自分は・・・どうなんだろうと思います。
ちなみに、自動車の運転免許の更新時期を忘れて大幅に超過してしまった為に、私が免許を持っていない状態になった事は、約1年前にココでも述べましたが、実はマダ自動車免許は再取得ができずに(自爆)、仕方なく先に原付免許だけ取って、最近は寒風が吹きすさぶ中を乗りまわしたりしています。
すると・・・やっぱり同じ様に、大学時代において普通免許を取得する以前に原付を乗りまわしていた頃の感覚が蘇ったりします。
もっとも、真冬でも徹夜で東京までの200km以上の道程を飛ばしていった若さというか無謀さは、もう無いんですけどね・・・
もうすぐ冬休み・・・
一人で、少しだけ遠出してみようかな…
(いや無論・・・帰って来るんでしょうけどね・・・やっぱ)
【余談】
私が読んでいる連載漫画で、「ヨコハマ買い出し紀行」(芦奈野ひとし著)というマターリ系の名作があるんですが、温暖化して海面が大幅に上昇した未来の地球が舞台だったりします。
温暖化による海面上昇問題は、南太平洋の海洋国家では既に国土消滅の危機として目の前の現実だったりしますが、こう異常気象が続くと・・・我が家も海の底という時代が来るのかしらと思ったりしてしまいます。
(あんま海抜高くないんだよな・・・ウチ)

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2005/12/3 3:53
突然ですが・・・私は、トラウマというか・・・「暴力」という行為一般に「恐怖」を感じます。
仮にヘタレと言われても私は、自分の事であれ他人の事であれ、暴力が嫌いで恐れている事は事実なので仕方ありません。
最近では幸いにも、あまりそれを特に意識する事が無かったのですが、眠れない今夜、急に・・・その「恐怖」を思い出して、自分自身の自己形成の基本となっているソレ(恐怖)について、結論を出せるか否かは別にしていっぺん真面目に向き合ってみなければと、半ば途方に暮れながらキーボードに向かっています。
以前ココで、政治に関した話題において、いわゆる「テロリズム」を否定する文章を書いた事がありました。
それは、一応は「論理的」な体裁を整えて紡いだ言葉であったとは思うのですが、私個人の内面に限って言えば・・・「論理以前」の「暴力」への拒否感から生じた「恐怖」の叫びだったと思うのです。
別に、良い子ブリッコしたいわけでは無いのです。
ただ私は何故、そんなに「暴力」という行為、もしくは「暴力を行使する人間」そのものに恐怖を感じるのか?
きっとそれは良い子ブリッコの正反対の処、自己の内部の「暴力性」を自覚すればコソの事であったと思うのです。
(そうでなければ、ソレは「恐怖」としては現われないと思うから)
自己の内部の「暴力性」・・・それが発現する時は、恐らく自分にとって大切な何かが危機に瀕した時?それとも失った後で?
私が今の「安定した」生活に感じる・・・焦燥にも似た「違和感」や漠然とした「恐怖」は、そこから繋がっているのかもしれません。
理由などなんであれ、人は人を殺す事すらできる。自分自身にもソノ可能性は拭えない。だから私は「暴力」そのものに理由の如何を問わず(むしろ理由付けしようとする心理まで含めて)恐怖の裏返しとしての「怒り」や「憎悪」を感じて、それを時に「論理」を使って表現をする。
こうして整理してみると、表面的な「論理」の裏側は、実に単純な人間の姿が見える様な気がするなんて言うと、少し背伸びのしすぎかしらん・・・
あまりにも暗いニュースばかり多い中で、むしろ恐怖を感じるのは生物としては「正常」な感性の証しなのかもしれないのですが、それへの脊髄反射みたいに恐怖の原因たる暴力への怒りや憎しみに走るのは止むを得ないとして良いのか、暴力を抑止する暴力という現実からの単なる逃避に過ぎないのか?
これ以上考えても、あんま生産的な思考になりそうもないのですが、いくら考えても「恐怖」そのものが消えるものでも無い以上は、現実的に「恐怖」と付き合う方法として、より認め難い暴力を(自他ともに)退け得る手段を考え追求していくしか無いのでしょうな。
誰一人殺される事が無いという日が何時か来ますように・・・

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