2006/3/30 11:46
前回の記事で紹介した本は、比較的に気楽に読める本ではあるのですが、未だ半分ぐらいまでしか読めていないので、次回には感想をアップできればイイなぁ〜と思っては居るんですが、今の自分の生活における余剰時間を考えると、読み終わるの少し先になりそうなので、今回は少し個人的な日記(みたいなもの)を書きます。
ところで、仮に1日につき8時間の睡眠を摂るとすると、人生の内の3分の1は寝ている勘定になる訳ですが、この睡眠時間の事を「有意義」に思えるか否か?というと、私はあまり積極的な意義を認めずに「無駄」の様に感じる事が多い様です。
尤も、睡眠を摂らずに翌日に仕事に行ったりすると、悲惨な結果というか惨憺たる能率しか上げられないという事もあって、不眠は良い仕事の敵だと思っては居ます。
だから無理にでも眠らねばならないという時には、マイスリーやらハルシオンといった睡眠導入薬などに頼って、夢も見ずに深く眠る様にしています。
(お酒の力に頼って眠るのは、精神衛生上も良くない事だと医者に言われた事もありまして)
でもタマに、疲労の御蔭で薬に頼らずに(飲み忘れて)眠ってしまう時があります。
こんな時には、大抵の場合・・・寝汗でビッショリになる程にディープな夢を見て、夜半過ぎに中途覚醒してしまう事が多いです。
昨夜も・・・寝床で本を読んでいたら、そのまま寝てしまった様で、夜半に夢で目が醒めました。
夢は日によって違いますが、概ね深夜の寝静まった街をズット歩きつづけるといったイメージの夢を見る事が多いです。
夢といえば、論理やら人間性を司る「前頭葉連合野」は、以前は浅いレム睡眠時には覚醒していると言われていましたが、最近の脳研究の成果では「前頭葉連合野」の活動状態はレム睡眠時でも低下しているとの報告が有る様で、夢が非論理的な内容である理由も「前頭葉連合野」が眠っている証拠などと言われています。
でも、夢を見た後っていうのは、眠った気がしないんだよなぁ・・・
緊張感が続いて・・・起きている時は大抵の場合は疲れているので、せめて寝ている時ぐらいは、楽しい夢が見れれば良いのにと思うんですが、睡眠についても現実世界と同様に・・・思うようにはいかない様です。
もし私が小説家とか・・・創作的仕事をしている人だったら、夢とかでネタを拾えるのかもしれないのですが、努力なくしては一文の得にも為らないのが現実というもんですね。

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2006/3/23 11:26
そういえば、最近・・・私は「政治」の話題をしませんねぇ・・・
日々接するニュースや事件についても、主張したい事や書きたい事は山程あるんですよ。(って気がするんですが)
現象的に見れば、自衛隊のイラク派遣問題やら、憲法「改正」問題、福祉等のセーフティーネット切り崩しとか、一方で進められる「規制緩和」路線についてとかね・・・
ただ言い訳がましくなりますが、生活(仕事や家庭)に追われて、それらを自分の文章にして表現する程に深めていられないという面もあります。(恥)
こういうのを「ヘタレ」って言うんですかねぇ・・・
でも狭い意味(TVで話題になる様な意味)での「政治」とは違って、日常生活の中で仕事やら地域の人々との付き合いを通じて対話やら信頼関係を築いていくという事が、広い意味(実際に歴史を動かしていくという意味)での「政治」の実際ではないかとは、一応は思っている訳なんですよ。
集会やらデモやら投票やら、数として測る事ができて節目となるモノ自体が「政治」ではなく、普段から築いておく対話や信頼といったモノこそが「政治」の本質であり、数はソノ結果に過ぎない・・・というと「結果」こそ大事だろってツッコミが入りそうですが、因果関係としては間違っていないと思うのです。
じゃあ、その「政治」の根本たる対話や信頼関係の醸成といったものが、裏付けとなる自分自身を高める努力(勉強やら行動やら)と伴に、如何ほどに出来ているかと言うと・・・笑って誤魔化すしか無いといった有り様で・・・
良くも悪しくも(既に終っていると言われつつも・・・苦笑)、一応は日本共産党という政党に所属している身でありながら、これではイカンとは思いますよ。
でも、普段は「ヘタレ」と罵倒されながらも、懸命に自分の仕事や家族や慎ましい生活を守っている人々(親爺やオバサン)こそが、ここぞという時に歴史を決めていく訳で、いつまでも「ヘタレ」で良いかと言えば・・・確かに違うんだけど、そんなに「ヘタレ」は馬鹿にしたモンでも無いぞと・・・
そんな事を考えていたこの頃、下記の本の広告を毎日新聞で見つけたので、ネット書店のアマゾンで注文して入手しました。
(本屋に行く暇が中々とれないのもあって・・・)
「マルクスの使いみち」太田出版
稲葉 振一郎 (著), 松尾 匡 (著), 吉原 直毅 (著)
未だこれから読むんですが、出版社の編集が付けたと思われるキャッチコピーに、ヘタレ文系インテリ向けの入門書とありましたが、私の様なヘタレ理系でも良いんでしょうか?(笑)
著者(3名)の内、稲葉氏を除く2名については、インターネットで公開している論文等を通じて、数理的検証の専門的な過程は別にして、概ねの御立場や御関心、研究テーマといった事を(個人的関心から)追わせて頂いた事があり、興味がそそられます。
ちなみに、日本における「マルクス経済学」と呼ばれる学派のうち、古い体質を持つ多数派は、「マルクスの基本定理(Okishio(1963), Morishima(1973))」に対して、「一般化された商品搾取定理(Bowles & Gintis(1981), Samuelson(1982)」によって「価値」の唯一の源泉としての労働力という命題に疑問符が付けられて以来、搾取と階級の照応関係について新たな定義を行なわねばならないにも関わらず、あまり理論的に積極的とは思われない・・・停滞を見せています。
私の関心事は、市場原理主義やグローバリゼイションに無条件の万歳を送る風潮の中で、まさにどれだけオールタナティブ側の理論が「使える」のかという点にありますので、上記の新刊本のタイトルである「マルクスの使いみち」という言葉は・・・まぁ使うのは別に「マルクス」に限定する必要は無いのだけれど・・・関心にフィットしているとは言えます。
私も、いつまでも「ヘタレ」じゃアカンしねぇ・・・この本を読んで(少しは)奮起できればイイかなぁ・・・
どうでも良いけど、この本は事前の噂?では「逆襲のマルクス」とかいうタイトルだった希ガス・・・(謎)

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2006/3/15 0:20
「不幸」は経験的に、ほぼ確実に他者に伝染します。
ここで言う「不幸」とは、本人の頭の中・・・つまり「主観」における「不幸」を意味します。
「主観」では無い、つまり「客観的」に見て「不幸」もしくは不遇である人であっても、本人が自らの置かれた環境の中から主体的に「幸福」を見出す、もしくは見出そうとしている人であれば、周囲の他者は励ましを受けたり、不遇な環境に何か援助をしたいとすら、思わされるものです。
逆に、「主観」において不幸である時というのは、良くも悪しくも「不幸」に流されている状態であり、それでも生きていける状態の時と言えます。
私自身も、恥ずかしながら「不幸」を撒き散らしていた時期がありました。
(鬱が最も酷かった頃は・・・苦笑)
慣れた「不幸」に浸っている状態と云うのは、それがその瞬間における「限界」という意味もありますが、背理として「不幸で居続けても生きてゆける」範囲内の生活という意味を持ちます。
こういう事を自覚するのは、自分自身の不幸に接した時ではなくて、他者の「不幸」に接した時なんですよね・・・
(偉そうに他人の不幸を勝手に計って・・・大した不幸でもないクセに・・・とか思う時なんですよね・・・苦笑)
主観的な「不幸」が、周囲の他者に不快感や、連鎖的な不幸を巻き起こす事は、形は様々であれコミュニケーションの必然であります。
ほら、他者の心無い一言の背後には、貧しさが透けて見えませんか?
自分自身としては、自分自身のためにも、「不幸」ではなく「幸福」を【発信源】として周囲に撒き散らしたいものです。(笑)
政治やら世相に、なぜか「不幸」が溢れかえっていると思えるこの頃・・・

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2006/3/8 22:36
以前から不思議だったのですが・・・
「好きではない」と「嫌い」という言葉は、ほぼ同義語なんですが、「嫌いではない」と「好き」という言葉には距離を感じる時があります。
例えば、北朝鮮の現体制の事は「好き」とは言えませんが、かといって「嫌い」かと言えば、(今の私には)特に感情的になる気にはなれないという意味で「嫌いではない」と言えます。
(冗談抜きで、朝鮮中央放送の独特のイントネーションやら大真面目なマスゲームを見てると、時々「愛嬌がある」とすら思えますし)
でも他方で、私は「愛玩動物」の事を「嫌いではない」のですが、他者から見ると「好き」と同じ様な顔面状態らしいです。
愛玩動物といえば、2週間程まえから、ウチには「デグー」といチリ原産のテンジクネズミ類縁種のオスが3匹、オリの中で飼われています。
(娘が友人から貰ってきたとか)
大きさはハムスターとモルモットの中間ぐらいで、活発に動き人間に慣れる事が出来る、良く見ると可愛い奴なんですが、色は茶褐色で地味なペットです。
(檻の清掃とかは当然の様に私の仕事になってます)
良く似た大きさのハムスターは、私も子供の頃に飼っていたのですが、檻の中から外に吊るしてあった洗濯物を齧っている処を母親に見咎められて、叩き殺された経験があって、以来・・・小動物は苦手だと思っていたんですがね・・・
また、以前にもココで書きましたが、家に来る野良の三毛猫にもエサを買ってきてやったりしています。
果たして、私は「愛玩動物」の事を、「好き」なんでしょうか?
「好き」と「嫌いではない」には距離がある様な無いような・・・
全く別の問題が孕んでいますが、私は私の「家族」や「職業」については、どうなんだろうなぁ〜
時には「嫌いなら一緒に暮らしてね〜よ」なんて、一昔前の頑固親父みたいに言ってみたりする(笑)

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