去る7月13日(水曜日)に、日本の総理大臣の【立場】に居る菅直人氏が、「脱・原発依存」と銘打って記者会見を行いました。何故「脱・原発」ではなく「脱・原発依存」なのか?というと、彼の主張が、元々「脱・原発」には【具体的な期限】も設けずに、既得権益に配慮して「将来は原発に依存せずにやっていける社会」を目指すという【抽象的な目標】だけに、発言を控えたというだけのものでありましたが、それでも原子力産業(東芝・等々)を抱える経団連などは「原子力は将来に渡って国の基幹的産業」だなどと猛反発をし、自分達が過去に原子力を推進してきただけでなく将来に渡って決して「脱・原発」など公言しない自民党だけでなく、与党・民主党内の「菅内閣の早期退陣を求める」という11名の右派議員は、定期検査中の原発の「早期再開」まで求めるという始末で、仙石氏などは「出来もしない事を言うな」などと言い出すありさまでした。
それを受けて、発言の翌日にはもう、枝野官房長官が、あれは「首相個人の想い」を語ったとか「遠い将来の話」だのと【政治的後退】をはじめ、更に翌日には、菅直人・総理大臣自身が国会での答弁で「個人の想い」に過ぎないと自ら認める事によって、私などが…当初は「愚か」にも期待していた【総理大臣という立場】の人間による【公式な国家方針の表明】という物では、全て無くなったに等しい状態になってしまいました。
そもそも一般論として、組織を公的に代表する【立場】の人間が、組織にとって
プラスとなる事を「個人的な想い」として語る事は、一般には許されても、組織にとって
マイナスになる事は、例え「個人的な想い」と断りを入れたからといって、一般社会では許容されるものではありません。
喩えとして…会社の社長が「個人的な想い」として、事業の飛躍や新展開を語っても許されますが、もしも「会社など倒産したって構わない」などと「個人的な想い」として発言したら、その社長は株主から指弾され解任されるでしょう。
(公人が「個人的うんぬん」と言うのを聞いて、靖国神社問題を思い出した人も多いのではないでしょうか?)
そういう意味で、菅首相の「脱・原発依存」「将来の原発の無い社会」という「想い」は、その【方向性】自体の持つ意味から見れば、
国民の安全と国土の保全という国家という組織の利益には合致するとして、私も感情的には【意気】は良しとでも言ってやりたい所ですが、実際には他面として、その期限を定めぬ「将来」までの間は、
国民の安全と国土の保全を危険に晒し続けるという事を発言したものとして逆に受け取れば、それは「個人の想い」という言葉では許されない=【立場】を弁えない
【無責任】な発言をしたという事にもなります。
そして、福島原発が(これからも)齎し続ける被害の甚大さを考えるのであれば、例え菅直人・総理大臣が、定期点検で停止中の原発の再稼動に(当事者がチェックを行うという非常に不充分な)ストレス・テストなどという、新しい括弧付き「ハードル」を設けて単に【時間稼ぎ】をしたという情状を勘案したとしても、上記の今回の首相の発言の【意義】は、後者の【無責任】との謗りは免れ得ないものでしょう。
本当ならば、期限と展望を示した「脱・原発」を、明確な政府見解として示し、抵抗勢力と闘ってでも貫き通すというのが、国民を代表する総理としての【責任】でしょうから…
実際は、菅直人氏には、既に…総理大臣として内閣(政府)の意志統一を図る力量も、与党・民主党の党首として党内意見をまとめる力量も、もはや何処にも無い事は周知の事実となっていますが、そこに到るまでに国をまとめねばならない総理大臣の権力を殺ぐ事に腐心し…【被災者】も【原発事故】も放置して、永田町だけの【権力闘争】に明け暮れて、あの「内閣不信任案」を出した野党(自民・公明・他)やら、それに同調しようとした与党の一部(小沢派や鳩山派)に対する、マスコミの【批判精神の欠如】と、それに同調している人々の
【無責任な体質】は、それ以上のものがあるでしょう。
(自民・公明やら小沢派・鳩山派の政治家達の己の立場や行動に対する自省なき「妄言」を、何ら批判もせずに括弧付きに「公平」に垂れ流す事が、日本のマスコミの現状です)
私は、マスコミにとって都合の良い「数字」だけを出す為に、意図的操作の余地のある【世論調査】なるものには、殆ど全く信頼に値するモノだとは考えていませんが、庶民=生活者の置かれた現実という確実な基礎から産まれる理性の発揮=「生の声」としての【世論】には、常に耳を傾けて、それを【政治】に活かす努力が、民主主義国家における政治家には【義務】としてあると考えます。
政治家という【立場】は、常に国民の【理性の発揮】を信じて、愚民思想こそをタブーとして恥じる事を要請するものだと、私は考えます。
もはや無力になってしまった首相の「個人的な想い」というのは、立場としては無責任でも、実は無力という事では彼以上に無力な立場に置かれている多くの庶民=生活者達の「個人的な想い」とも重なるものがあり、私は菅首相には批判的で何の期待もしない立場ながらも、現状の国政における彼(総理)の無力は、そのまま…彼以上に無力な立場に置かれている多くの庶民=生活者達の現状に重なって見えます。個々に切り離された「個人的な想い」という意味で…
民主主義社会では、一人一人は個々に切り離されてはいても、我々(庶民=生活者)こそが主人公であり【主権者】なのです。
それは決して【選挙の時だけ】という意味でもありません。
この限られた地球上に住む限りは、如何に人間の技術が発展しようとも、半永久的に残る放射性廃棄物の存在や、自然を前にして「人間のやる事に完全は有り得ない」という自覚を常に持つ事こそが、原子力発電所を【非・科学的】な存在にしているという事実を、我々(庶民=生活者)は今こそ明確な確信にして、まず【声】を挙げる事から行動を起こし、必要ならば原発の運転差止めや廃炉に向けた住民訴訟やら、その応援の署名など、出来る事から始めましょう。
(問題は、我々の子供や子孫に、負の遺産を残さない事です)
【循環可能】な、太陽光を始めとしたエネルギーを…揚水発電や水素エネルギー&バイオマスによる燃料電池・蓄電池=スマートグリットなどで【安定供給】できる体制の構築に向けて、科学や経済の資源を投入する事を求めていきましょう。それは「新しい挑戦」かもしれませんが、これまで人類が乗り越えてきた多くの壁と同じく、決して人類にとって「不可能な挑戦」ではありません。
(もちろんこれには、単に工学的問題だけでなく、発送電の分離・電力自由化・エネルギーの地方自治など、経済や政治的なシステム設計も必要になってくるでしょう)
そうして、個々に切り離された「個人的な想い」を、単なる「個人的な想い」で終らせず、確実に次世代に、脱原発という結果を出し、安全で環境を守れる社会を残していきましょう。

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