本日は、電力各社の株主総会の日であり、ニュースでも東電や中電などで「脱原発」の株主提案が為されたが、株主総会では、何れも銀行などの大手株主の反対により否決されたと報じています。
それに対して今回はエッセイとして記事をUPします。
私は、元より新自由主義的な思想に染まった銀行などの大手株主には、期待など微塵もしていませんでしたが、人間という存在が「立場」によって如何に愚かな(事実に謙虚に学ばない)判断を為し得るのかという事を再確認して、絶望ではなく、ますます闘志を掻き立てられました。
私は、もともと階級闘争的視点【のみ】に拘泥する事で、何でも反対だけしていれば良いと安易に流れて、自分自身の具体的な未来社会についてのオールタナティブ構想を磨かなかった古典的左派の既存党派には批判的ですが、人が「立場」によって影響され変わるという…非理性的な愚かさを持つ、一般的な事実そのものを【否定】した事はありません。
しかし、私の「怒り」は単に「階級的」な問題に(つまり他者に)還元される物ではなく、革命的な転換を未だ現実の物に為し得ない、自分自身を含めた【我々】の非力さにも自省されなくては、本当の意味でのオールタナティブに繋がらないとは思うのです。
こう言うと(古典的左翼に)誤解されそうなので補足すると、私は別に「新自由主義」的な狭隘な損得勘定しか出来ない人間、非理性的な虚妄に囚われている人間、すなわち残念ながら括弧付きながら現段階での「敵」を免罪しようとするつもりは毛頭ありません。
しかし人間の「理性」そのものに限界を設けて、科学的な合理性を追及しようとする「理性=ロゴス」に対峙して、それを超越した何らかの「パトス」にこそ、近代の超克が有り得るという様な括弧付きに革命的な【幻想】立つ根拠も持てません。
(その幻想は、実際には歴史的にも、危険な狂気の出現予兆である可能性の方が高いと言えましょう)
前回までの私の「原発問題」に対する発言は、あくまで対等平等な人権を持つ事を前提にした人間相互の間で、誰か人に頼る事では無く自分自身の問題として考える、自立した自由な個人による【理性の発揚】を、私というミクロな個人の能力の持つ制約からの小さな声からであれ…目指す為のものでした。
(それは今でも変わっていません)
皆が、
この地球上で原子力発電を安全に為し得るという【虚妄】を、科学的・文明的にも打ち砕いていかねば未来は無いと、
ひとりひとりが自分自身の問題だと考えて、自分で自分自身を解放する為に【理性】を発揮して、地道に「対話」や「思索」を重ね、無知や無力と闘っていく事こそが、必ず道を開いていくものと、私は確信しています。
電力会社の株主総会での「脱原発」否決のニュースは、そういう意味で「我々」の【理性】に対する挑戦であり、だからこそ私は、これまでより一層の事として、闘志を掻き立てられました。
人類の【理性】は、それを阻むものが「既得権益」であれ「官僚機構」であれ「神話」であれ「何らかの経済体制」であれ、それを常に打破し乗越え生延びる道を実現してきたというのが、これまでの歴史であり、それは今の時代を生きる我々にも課せられた責務でもあると、私は考えます。
今回は、何か具体的な「提起」というより、若干…アジテーションっぽくなりましたが、私自身の今の信条=心情を率直に書いてみました。(苦笑)

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