前回、何もかにも入れたくて、図柄が小さくなった。結果的には何がなんだか分からない。もう一度作り直した。一面に一つだけにしたのだが、やはり格子がネックになって、今一分かりにくい。

二度目にペリーが来航したのは、翌年の1854年2月11日(嘉永七年旧暦正月十四日)、6隻が浦賀沖に勢揃いしたのが2月13日(旧暦正月十六日)。現在のディズニーランドの向かい側になる。
当初は15隻の大艦隊で押し寄せる予定だった。ところが、そのころ中国では泰平天国の乱が次第に上海に迫っていた。おまけにヨーロッパではクリミア戦争が始まっている。フランスもイギリスも動けない。ロシアは戦争当事者として、日本近海でこれらの敵国に捕まるわけにはいかない。日本は当時の国際情勢の隙間を突いて、かろうじて当たりくじを引いていたのだ。
ペリーは結局、規模を縮小して、7隻で上海を出発した。
何度も云うようだが、当時の蒸気船は燃料の石炭補給基地がなければ、航行できない。太平洋を一挙に横断することは不可能だった。アメリカ海軍の極東基地はマカオで、燃料、食料そのほかの物資は上海で積み込んだ。日本遠征の食料供給基地は沖縄、燃料の一時保管場所を小笠原の父島に予定していた。帰りに寄ってみたら状況が一変していたというのでは困るので、沖縄には見張りの1隻を残しておかねばならない。だが、上海で7隻目を用意したものの、沖縄専属というわけにもいかず、一応、沖縄と上海の警護防備を兼務して、行ったり來たりを余儀なくされていた。
結果的に、ペリーもあっと驚く大艦隊を見せ付けて威圧するには、たった2隻しか補強できず、ちょっと気が沈んでいたのだ。
もし、クリミア戦争が起こらず、泰平天国の乱が遅れていたら、フランスとアメリカの連合艦隊にロシアが加わり、日本は分割統治の悲惨な運命になったであろう。歴史上の奇跡というほかあるまい。〆(..)para1002n(ぱら仙人)


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