上水道の追っかけがいきなり外堀に結びつく理由はこうだ。どちらもどんどんから水を引いている点。もっと言えば、城下の大部分の上水道の水も東西のお堀の水もたった一箇所、どんどんの西部幹線取入れ口が共通だった点にある。お堀はさらに海にも繋がっていて、東西の堀の半分は汽水ながら、海水が入っていた。
芦田川が二股に分かれて流れた水系の下以外は、元々は海だった歴史がある。井戸を掘っても良質の飲み水は得られない。築城当初から上水道設備が構想されていた理由もそこにある。上水道も掘りも水源はひとつで根っこはひとつなのだ。
西御門より北側部分については近年まで女学校(葦陽高校)があったので、異同が少なく、文化遺産に対する認識も高まって、比較的よく調査が行われている。学校を移転した跡地に県立博物館や美術館の文化ゾーンを建設する際に発掘調査も綿密に行われている。街中、特に西外堀の南部分については、三之丸立体駐車場の半地下に保存されている石垣遺構以外には、民有地の関係もあって特に外掘跡を示すものは道路の形状以外は残されていない。
山陽線の高架下には確かに西御門櫓の土台となる石垣があった。同じ場所に復元されていることになっている。高架線の橋脚には設計上の一定のスパン(間隔)がある。丁度橋脚の位置が上手く石垣遺構の場所と外れていたとは限らない。一度取り壊して、同じ材料で復元するにしても、邪魔にならない位置に多少ずらして再現してある可能性は大いにある。
そのあたりのことを検証する意味からも、葦陽高校が移転した跡地に残してある外堀の内側をポイントごとに示す石標は貴重なものだ。
西御門番所跡(花壇の中)


花壇の中と歩道に外堀跡を表示した石柱と石版がある。↑
振り返って高架下の石垣との位置関係はこんな感じ。↓
西御門の門前

西外堀の北側が道路の向こう側。こちら側の南半分との間は堀幅が狭まり、橋が渡されていた。外堀の南側には入り江から海水が引かれていた。道路の向こう側にはどんどんの水が來ており、最終的には海に流れるようになっていた。〆(..)para1002n(ぱら仙人)


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