鞆軽便鉄道(41)
「沼隈郡誌」(沼隈郡は合併後、現広島県福山市域に編入)の折込に「沼隈郡明細図」がある。縮尺10万分の1のカラー絵地図で、大正8年の大洪水直前の芦田川が克明に描かれている。
芦田川が神島橋の下から3本に分かれていた。この当時の神島橋は130間で、現在の瀬戸川に相当する西芦田川が53間、分岐した東芦田川(鷹取川)の川幅は58間ある。昔の淀川と呼ばれていた分流が水道局の裏から体育館の方にかけて湾曲した川だった。その間は全部陸地(中州)になっていて、丁度真ん中辺りに平行して小川が流れている。この3本の川はすべて神島橋の下で合流しているので1本にまとめても水量は変わらない。河川改修で現在の川幅の中に納められた。
堤防がなければ西芦田川(瀬戸川)から鷹取川(淀川)まではすべて芦田川の流域になる。表面は堤防で仕切られているが、現在でも川底の砂地の中を芦田川は豊かな水を湛えて地下水脈として流れているに違いない。
芦田川は中の小川を無視しても、大きく東西に分かれて2本あった。現在の我々の感覚では草戸大橋が川を渡る1本に連なった橋のイメージだが、川の間が陸地だった昔は、西の銭取り橋、東の鷹取橋を経由して半坂側と福山市内側とを往き來していた。間は陸地だから橋は2つが離れた場所にあった。
これはどういうことかといえば、その間を鉄道が横切ることが出來たということなのだ。どの地図を見ても位置的に鞆鉄道が草戸大橋を越えて走っている。川はいつでも増水するので草戸大橋の下を通すわけには行かないし、橋の上を跨ぐ鉄道を川の中に作るくらいならそのまま延長して対岸まで鉄橋を敷く方がいい。もし全部中洲で陸地だったらその上に土盛りをすれば100mほどの鉄橋を2本渡すだけで済む。
宮脇俊三氏の「鉄道廃線跡を歩くW」の「鞆軽便鉄道」の中の文章を借りて説明します。
「ところで、河川改修前の旧線は、ここ(天使幼稚園付近)を直進し、現芦田川方向に向かっており、旧草戸稲荷駅は、現在の芦田川の川原の中にあった。」(引用ここまで)
中央が瀬戸川、右上が芦田川-水呑大橋から遠望

「現在の芦田川の川原の中」というのはどこなのか。天使幼稚園に近い河川敷の水際をイメージしていましたが、どうも川を渡りきって、半坂側の川原のことだったようです。100m足らずの銭取り橋の東側を鉄道が通っていて、橋のちょっと下手に旧草戸稲荷駅はあったのです。現在瀬戸川の汚濁を解消する工事が進められています。市の職員の方に聞くと、植栽して環境を整備するとのことです。草戸大橋の下手で浄化実験は済んだようですから地続きの草戸稲荷駅があった場所を示すような記念になる表示ができればいいと願っています。
それ(中州を鉄道が走っていた)を裏付ける写真もありました。さとう誠雅園さんのホームページの1931年3月12日に撮影された洗谷付近の写真です。是非参考にご覧になってください。辿り着くのに長いから直リンクにしています。
さとう誠雅園営業案内・史跡巡り→福山市水呑町トップページ→福山市水呑町-1→福山の干拓・芦田川改修・水呑昔風景→
芦田川改修-2-昭和6年(1931年)3月12日妙見山より芦田川
右端の方に旧鞆鉄道橋が中州まであります。中州から対岸まではちょっと位置をずらして洗谷仮橋が架かっています。鉄橋は洪水後、延長されなかったのではなく、新線開通までの10年以上の間も営業運行はしていたのですから、鉄橋は中州までしかなく、中州の盛り土の上に線路が敷かれている様子も写真に写っています。この中州は自然に出來たもので神島橋の下手の鷹取川分岐点までずっと続いていました。鉄道は草戸で銭取り橋と交差することなく北上し、向かい側の鷹取川に達して、トユキクリーニングもホーコスも天使幼稚園もすべて中洲の中だったのです。〆(..)para1002n(ぱら仙人)


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