鞆の石畳(101) 海岸線(21) 石井町の海岸線
石井町は鞆殿御屋敷の真正面の海岸町になる。鞆の東海岸線は殆どが石垣の護岸だが、元禄絵図では既に石井町浜通りが凹みの形状になっていて、御屋敷に搬入物資の中心的な荷揚げ場だったことが分かる。
元禄時代と明治初期の海岸線比較 Yahoo航空地図Pasco

藍色→元禄時代の海岸線。
水色→明治時代の海岸線。
破線→江戸時代の浜通り。
緑色→元禄時代からある古い町割り道路。
実は既に明治初めには水色の線まで埋め立てが進んでいる。80歳を超えた人でも、昭和元年か大正の末の生まれなのだ。昭和2、3年に石井浜町会館脇の道普請が行われた。現在の南北の通りの傍まで海が迫っていたことを目撃した人はいない。子供のころ祖父母の話を聞いて、まだ残っていた対潮楼下やときわ(現シーサイドホテル)横の海水浴場など、子供のころの記憶に残る海岸のイメージと繋ぎ合わせて一直線に繋がった記憶の海岸線が鮮明に脳裏にある。「戎神社の裏の石崖、あそこに路地があって、海岸だった」ときっぱり言い切る。仰る位置よりもずっと沖まで明治の初めに埋め立てられているにも拘らず、点々と残っていた海岸線をじかに結んで子供のころに聞いた話としっかり結び合わさってゆるぎない記憶に定着している。
本当は誰も見たことのない明治初頭の海岸線を復元してみた。
破線の道路は今は失われた江戸時代の石井町浜通りです。ここにはお城の蔵もあり、荷揚場が広く取られ、庶民の生活道路は海岸から少し控えた現在の路地の位置に古くからあったのかもしれない。
O浜さんの話では、「おばあさんから聞いた処によると、向かいの3軒並んだ建物の裏が海だった。(鞆町絵図の形に近い)」
鉄工所のT井さんは「道路のこちら側まで海があった。ここに來る前も4、5軒ほど先で生まれ育ったのだし、年齢も近所では上から三番目なので、この辺のことはよう知っとる。」と仰る。でも、生まれる50年も60年も前の様子は目撃談でないことも事実だ。お城(御屋敷)の正面の荷揚げ場が相当広かっただろうことも想像が付くので、道路のすぐ際が海というのは事実ではない気がする。

para1002n(ぱら仙人)


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