鞆鉄道(19) 昭和3年の海岸ライン
本当は昭和2年に埋め立てられた所かもしれませんが、昭和3年調製の法務局の地図に海として青色で塗ってある境界線上を昭和3年ラインと此処では呼んでいます。同様に大正14年ラインも福山図書館の履歴地図、国土地理院の大正14年測図の海岸線のことです。「明治43年測図、大正14年修正」、「昭和22年修正地図」も測量は大正14年のものですし、昭和2年の「大日本営業別住所入り明細図の内廣島縣沼隈郡鞆町」(あき書房復刻版)も大正14年の測量図が原図になっています。大正2、3年、6、7年に既に埋立が終わっている場合もあります。地図の発行年に関わらず、海岸線の測量年代の形状で分類しています。
また、大正5年製版の国土地理院地図は明治43年修正のものですが、資料が揃わず細かいことが分かりません。元禄町絵図にも「原村百姓家(現鞆町大字鞆字原町)」の北は「山田村山南村(現沼隈町山南・山田)への道也」と書いてある山道より北(現御幸町)は描かれていません。そこで、江戸時代明治末を一括して明治43年時点で少なくともこれよりも外側には土地がなかったはずだというぎりぎりのラインとしました。鞆往還際まで砂浜の自然海岸で家のなかったところもありますが、地番の三桁整数の土地の境界線を一括して仮に江戸明治(43年)のラインにしています。
昭和2年に埋め立てが終了した100m区間の北限です

(1)

(2)

(3)
(1)新晃伸鉄の裏が昭和2年の埋立地の北限です。法務局の昭和3年調製地図に海として青く塗られているのは郵便局の北西角からこの新晃伸鉄裏までの100m少々の区間だけで、一筆分(家一軒分)西のラインは原町から御幸町までの大正14年海岸ラインと一直線に繋がります。大正14年以後は昭和3年までの間にこの100m区間だけが埋め立てられて広がったということです。昭和2年は備後地区に甚大な豪雨災害がありました。流れ出た土石の処理地として砂浜が埋め立てられたと考えられます。(2)暗渠化された路地です。ブルーシートの奥のレンガ塀まで昭和3年時点では海です。路地はそこから急に狭くなっています。水路の両脇に家があって昭和3年当時までの水路幅です。
(3)少し近づいて分かりやすく写してみました。同じ場所です。黒い板塀とレンガ塀の間に水路があります。昭和3年当時の海岸線です。
昭和3年にも埋め立てられず海岸だった名残の側溝口

(4)レンガ塀の下に側溝の口が開いています。こちら側からは見えませんが、新旧県道側から路地や駐車場の奥に入ると側溝を見ることが出來ます。98年ゼンリン住宅地図にはこの路地(新晃伸鉄の北)から次の路地(吉永工業の南)までの区間に側溝が描いてあります。海岸線の石垣跡が地上に姿を現して残っている貴重な場所です。直線状の大正14年海岸ラインが御幸町の海岸線が先細りになって尽きる所まで続いています。次回はこの側溝を追いかけて北上します。旧路線バス通りからは20m〜25m(家1、2軒分)ほどです。

para1002n(ぱら仙人)


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