鞆鉄道(86) 坪町
田尻の人たちにごめんなさいと謝らなくちゃなりません。田尻の海岸の人里に入ってから、つまり、藤之棚(広島県福山市田尻町)から鞆鉄道が海側の埋立地を赱って県道を跨ぎ、再び県道を越えて高島小学校との間を北上するコースは買収可能な農地の実は最短距離に近く、至極妥当な計画でした。
田尻の非協力的な人たちに鉄道敷設を拒否され、已む無く取らざるを得なかった大規模な沿岸道路整備、鉄道敷設だと決め込んでいました。これは全く思い過ごしです。
鉄道を阻止するために一坪運動を画策し、小分けにした大勢の地権者がいたために鉄道は迂回せざるを得なかったと思っていたのです。でも、実際には田尻の人たちはそのような市民運動で抵抗するようなたちの悪い人ではなかった。2.5坪〜2坪未満の土地が31区画も集まっているのを昔の地図で見た時、てっきりこれは抵抗運動の痕跡だと思い込んだのです。ぎすぎすした現代人の感覚です。
「ふるさと田尻あれこれ 地名編」(福山市高島公民館発行)を見ると、江戸時代から農業用の肥料を確保するために野坪を設けて人糞を発酵させていた場所が一箇所に集まって「坪町」と呼ばれていたことが分かりました。坪町は何箇所かあったようで、屎尿を舟で運んだので海に近いこと、農地が近いことそういう場所に何軒かが共同で屎尿運搬舟を持って順番に舟を使って人口の多い商業地の鞆から各自の坪に運んでいた。この歴史は随分長く、鉄道はこの施設を簡単に移転させるわけにも行かないし、周囲には人家も耕作に便利な農地も並んでいるので、これらも一緒に全部移転させるわけにも行かない。海側に埋立地を広げて道路を整備し、将来の鉄道予定地も確保するという土木工事は、鞆街道(県道)整備の目的で国から(鉄道敷設の)認可を受ける以前に着々と進められていたようです。
左の建物辺りが坪町

坪町を拠点に田尻の生産性の高い農業が営まれていた。
「2坪程度の土地がたくさん寄り合っていた所はありませんでしたか」と訊ねると、近所の老婦人の話「はいはい、野坪が沢山ありました。あの辺(H石材)は坪町と呼ばれていました」
この話を聞いた時も筆者は実は抵抗する市民運動の痕跡が見つかったとしか考えていませんでした。「一坪運動、鉄道反対運動のようなものがあったんですかねえ?」と聞いてみた所で、それは鞆鉄道が出來るよりずっと以前の話で、明治時代のことだから、ご婦人には聞くだけ野暮というものだ。と独り決めして訊ねなかった。
荷揚げ場の余剰地が始まる殿休公園の北側

鞆街道(県道)が大きく湾曲している外側は勿論海ですが、鉄道を敷くために埋め立てて海岸線が広がりました。県道の脇に櫛形の土地が出來たので荷揚げ場として活用されることになり、その後隣接して鉄道が敷設されると荷揚げ場は機能を失い余剰地として残ります。
駐車場の入口に海岸線の名残の石積みが残っている

殿休公園の北の駐車場入口に石垣の頭が並んでいる場所があります。近所の方の話では鞆鉄道のあったころの海岸線だそうです。実際に護岸の上を取り払った残りで、この下に石垣が残っているのか、基壇は下の方にあって、目印として表面に数個の石が並べてあって、石垣とは繋がっていない所謂浮石なのか。
その点は分かりませんが、浮石だとしても随分小洒落たことをしていると思います。歴史的にはそんなに価値はないかもしれません。
昭和40〜50年代の防潮堤のライン上なので、かなり新しい海岸線ではありますが、(実測したら歩道脇の側溝から13mで、昭和3年の状態のままでした)場所が場所だけに、こういう目印はインパクトがあるので永く残してほしいと思います。

para1002n(ぱら仙人)


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