鞆鉄道(82) 殿休橋
小高い所を通っている古道は鞆(広島県福山市鞆町)の方に向いていくとM本さんの上のほうでさらに上に迂回します。そのまま南に真っ直ぐ行っても畑の中で道が途切れてしまいます。元は道が続いていたのに谷が崩れて跡地が畠になっているのか、元々古道は足場のいい所を現在のように迂回していたのかよく分かりませんが、反対向きに北の方に行くと明神社の前を通って、佐曽谷川の所でも突き当たりになっています。土石流に押し流されて川の北側の道路の続きは埋まってしまったのか、元々そちら(川の北側)には道路が繋がっていなかったのか。こちらも詳しい所がわかりません。伊能中圖には田尻(広島県福山市田尻町)の海岸に鞆から続く道が朱記してあります。(北も南も突き当たりの短い区間をご通行になったとは思われませんし、海岸に元から鞆街道があったのならこんな坂道に迂回する必要はなさそうです。)
古道の突き当たり 殿休橋

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三叉路になったところに橋が架かっています。殿休橋です。反対側には平かなで「さそたにかわ」「とのきゅうはし」と川の名前、橋の名前が書いてあります。
お代官様がこの橋の付近でご休憩なさったということだと思います。現在の県道より大分川上に入ったところです。海岸を埋め立てて県道が整備される(明治22年)以前、江戸時代のことです。鞆往還として使用されていた海岸通りに平行する短い区間の山道です。
昔(昭和3年)の道幅は現在の県道のセンターライン付近で4.9m。これは田舎の海岸道にしては広すぎますし、海岸を通る距離が長すぎます。荷物を運搬するには福山鞆間は船のほうがずっと便利でたくさんの荷物を運べるので、こんな広い道路が初めからあるとは思えません。所々は海岸を避けて高台に迂回していたかもしれませんが、伊能忠敬の地図を見ると意外にも、海岸線を田尻から鞆まで朱記された道が描かれています。矢張り相当古くから船に頼らず陸路を行く鞆街道が存在するようです。
所々海岸を離れて山道に迂回する箇所もあったのかもしれません。でも、殿休橋の言い伝えとは必ずしも結びつきません。橋をお渡りになったとか、橋を渡って山道のほうをご通行になったとかということではなく、単にご休息所が近かったので橋を造ったとき名称にしただけのように思われます。
明治時代に鉄道を通そうという構想の下で県道の拡幅整備が合わせて行われたというか、鉄道を敷くために県に働きかけて道路拡幅も合わせてインフラ整備を進めさせたと考えるほうが自然です。県道の原型は伊能忠敬の時代には既にあったのでしょう。県道沿いの山裾の掘削、海岸の埋め立ては既存の鞆街道を修復拡張する形でさらに明治時代にも継続されています。

para1002n(ぱら仙人)


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