鞆鉄道(93) 田尻警察の裏-水呑織物田尻工場跡
曇っているとなかなかしゃんとした写真が撮れない。画質調整でシャドー・ハイライトを加減すれば、逆光でも、影の中でも、明るく見えやすい写真にはなる。便利な時代になったものだ。どうも曇っていると気が乗らないのは長年の写真に対する先入観が染み付いていて、単に気が乗らないだけかもしれない。今日も一時明るい日差しの瞬間があったのに、フリーセルの手順記録にかまけていたりして、出そびれてしまった。明日も雨の予報だそうだ。
昼間出かけなかった分、日が落ちてからのデスクワークが続く。法務局昭和3年作成の地図の片側を持ち上げて端の方から見るとカーブの区間や直線の区間が強調されてよく分かる。
灘の田尻郵便局裏から再び県道を越えて大井川の団地の中までは、直線だ。その間に点々と残っている当時の遺構を基準に鉄道用地の幅を図面上で計算し、現代の地図に反映すれば、かなり心強い資料が出来る。その図面を元に現場を探査すれば、ひょっとして、往路で見落としていた遺構も新たに目に留まるかも知れないし、うっかり見逃していたことに改めて気づくようなこともあるかもしれない。
ただ、あんまり物知り気に先に云うと折角の証言も尻すぼみになって充分取れなくなる。
こちらでは気づかなくてもどこかでちゃんと見られているらしく、「いついつ來とったなあ」とか、「何処そこで写真を撮っとったなあ」とか、いろいろ話しかけられることも多い。前に話を聞いた人だったり、すっかり忘れていて、気まずい気分になったりと、盛り上がらないことも多々ある。
証言してくれる人の記憶が常に正確とは限らない。こちらは毎日のことでも、突然聞かれる人は気持ちの準備も出来て居ないし、何もなかったところに鉄道がなくて機関車や客車が急に浮かんできたり、鉄道が撤去された跡の盛り土の上を道路代わりに歩いた記憶が蘇っても、周りの様子はすっかり変っている。後からできた建物や側溝に記憶が引っ張られて新しい基準物を中心に風景が組み立てられる。
写真は田尻警察の裏、水呑織物田尻工場跡の脇の路地です。

M川さんはT野さんよりも古くからここに住んでいる方ですが、それでも記憶は盛り土の上の方、レールや枕木の幅のイメージが強く、裾の方は6mもあった印象は薄いようでした。若奥さんの話では、織物工場があった跡を小分けにしてあるので元の境はよく分からないそうです。T野さんの前の側溝から6mを実測したら、植え込みを越えて建物の壁ぎりぎりのラインになります。
元々鉄道は農地の真ん中の建物も何もないところを買収して敷いてあって、廃線跡地を両側の地権者の都合で線引きして取り合い、そこに新しく建物が建つのだから、線引きから控えてあったところに、後から建て増し、継ぎ足しで、昔の形はなくなっている。
確かに此処から斜面になって、上のほうにちょこんとレールがあったら、とてもこの路地いっぱいとは思えず、端の方にちょっとレールがあったような印象になってしまうのも止むを得ない。
全てが6mだったわけではなく、4.5mの所や4.2mの所、中には3.9mや3.6mの所もあるし、鉄道跡がどちらかの隣接地に吸収されているわけでもない。両側の地権者が中間点で折半して、片方だけが埋め立てて嵩上げし、段差が出来ると、その段差が鉄道の盛り土跡と勘違いしてしまいそうだが、実は線路の中央と云うこともままある。
一つひとつ確定したことを基準にしてはっきりしている現物遺構と線を結んでいくと少しずつイメージも変化してくる。しっかり見通せるところばかりではないので、建物を迂回して反対側に回るとガラッと風景が変わって戸惑う。そういうときに正確に位置を割り出した図面が重宝する。デスクワークもまんざら見捨てたものじゃない。

para1002n(ぱら仙人)


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