鞆鉄道(214) 葛城駅を横切る村道
たつみ不動産のY本会長さん(広島県福山市水呑町)のご協力で葛城駅の当時の様子がかなり具体的に分かってきました。
「年に一度だと思いますが、八興社の寮から尾道方面に花見に行くときは、七両編成のこともあったそうですが、福山方面なら勾配の急なところもないので、七両でも引っ張れたのですか」と尋ねてみた。Y本会長「田尻の海水浴場も鞆の仙酔もあるので、シーズンには七両編成で三分坂を越えましたよ。後ろからもう一両機関車を繋いで、押したんです。」
機関車の連結切り離しは田尻駅や水呑駅で行っていたのかもしれない。
葛城駅のすれ違い線は県道の中央辺り

(1)
「県道幅いっぱいくらいを鉄道のすれ違い線が通っていました」(たつみ不動産のY本さん)
バス停葛城の前は全部鉄道用地ですから、すれ違い線の軌道はもっと車道寄りにありました。すれ違い線のプラットホームは道路の反対側か中央にあったと思われます。現在のバス停は後からできたものでプラットホームの跡ではありません。
鉄道は路面電車とは違ってバラス床の上に枕木を並べて、その上にレールが敷いてある。すれ違い線があったところは6mの現在の県道の中央辺りで、車が通行できるようなスペースは残らない。つまり、たとえ福山方面から乗合自動車などがやってきたとしても、葛城駅から南には進入できない。NTTの前とか、大谷の干拓地の方がどんなに広くても、車が入ってくる入り口がなかったのです。人や車はすべて向ヶ丘中学校の方の山越えの旧道を通っていて、現在の県道は、葛城駅から三分坂の頂上(賽の峠)まで鉄道専用だったわけです。
葛城駅を横切る村道

(2)

(3)
(2)中央の植え込み辺りが駅長室のあった場所で、道路(昔の村道)より南に駅舎がありました。写真の奥が南で、谷川を渡ってすぐ上り線と下り線のすれ違い線が分かれていたので、鉄橋の位置は現在残っている一箇所だけです。県道の東端を軌道が通っていました。どうして鉄道用地の西側が広く空いていたのか、理由はよく分かりません。倉田さんの屋敷うちでしたが、一部県道に供出されています。代替地として交換したためかもしれません。
写真の白線はグリーンタクシーの敷地の境界線などで、「引込み線の跡とは何の関係もない」(たつみ不動産のY本会長さんの話)
(3)駅舎跡から北を見た様子。正面は向田医院です。黄色線は昔の村道。当時からあった古い道路ですが、道幅が広がるとともに少し南にずれています。引込み線の切り替えポイントは村道よりも南の駅舎側にありました。向田医院の辺りから東の一帯も埋立地で、農協や漬物工場がありました。頻繁ではないですが、引込み線に貨車を入れて積み込み作業が行われたりしていた。
村道は真っ直ぐ繋がっていた

(4)

(5)
(4)県道脇に三角余剰地のような占部商店があります。その裏(西)の路地が県道を斜めに横切る村道の続きで、鍛冶屋町内会館(さよなら列車の古写真の背景に写っている)の方からの村道は、ここへ真っ直ぐに繋がっていた。写真の奥が西です。
(5)逆に旧村道を東に振り返った様子で、写真の奥が鍛冶屋町内会館です。
「この道路(旧村道)に沿って谷まで野坪が並んでいました。さらに土手の下にもずらっと坪があって、鞆から屎尿を舟で運んでいました。今住宅地になっている半分くらいのところまで舟が入っていましたから。自然に埋まっていったのです。てんでに(勝手に)ごみを捨てて土砂も捨てにきて、この住宅地の下はごみの埋め立てです。勝手にどんどん捨てにくるから、不衛生だし、このままじゃいかんと云うので市に掛け合って仕舞の方は公園にしてもらったんです。」(Y本会長さんの話)
公園に唐樋門の石がある話から、「この近くに樋門がありました。六時間おきに樋門の開け閉めをするわけですよ。見張り小屋もあって。」「土手は昔から土手で、川の跡ではありません。佐須良池の方から来た水路が入り江の土手に沿って大川の方に向かって、土手の下には潮回しの水路もありました。」会長さんの子供のころのいろいろなお話を伺いながら、周辺を案内してもらいました。

para1002n(ぱら仙人)
人気ブログランキング ←ワンクリックをよろしく!!

1