鞆鉄道(226) 水呑川鉄橋跡
水呑川(広島県福山市水呑町)を越えた北側に水路があって、土手より少し高い位置まで橋台があったのがそのまま今でも残っている。航空写真で見ると、さらにその北側にも水路があって、川や水路を跨いでいた鉄橋が三箇所連なっていた。1976年から1989年までのゼンリン住宅地図には水路間ごとに独立した盛り土跡が残っていて、鉄道はそれぞれの水路を跨いでいた様子がよく分かる。水路は暗渠ではなかった。
近所のY本さんの話。「うちの畑のところに鉄道の盛り土があったんですよ。いい真砂土が使ってあるというんで、廃線後にてんで勝手に土手を削って持って帰る人がいました。」
当時の水路のあった位置も教えてもらいました。
水呑川鉄橋跡に拡幅して架橋された新しい橋台

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カーブしている石垣のせり出し部分は鞆鉄道当時のものです。色違いの部分は1988年ころN原さんが拡幅して架けられた橋の橋台部分です。元の橋台は取り除かれたか、この石組みの中にあると思われます。
犬を連れて散歩中のY本さんの話では、「橋台はN原さんの前の時代からで橋が架けられてからこられた」そうですが、ゼンリン地図では鉄道跡地に家を建てられた方と今住んでおられる方は苗字が同じなので、たぶん身内の方だと思われます。要するに先代のN原さんがこの橋を架けられたということなのでした。
高さや石の加工法の違う橋台

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(2)水呑川の北側の水路に残っている鞆鉄道の橋台です。古池川(三橋スタジオのところ)の鉄橋は現在の地面とすれすれの高さです。水呑川まで鉄道の軌道そのものはほぼ水平だったと考えられます。が、その間は溜池や畑(水田)があったような地形ですから裾幅が9m程の盛り土になっていて、崩した一部の土は周囲の低地に埋められたのだと思われます。
(3)水呑川に架けられた私設橋の下に行ってみました。初めにN原さんが架けられたのは右半分ほどの橋ですが、後に、こちら側から車の出入りができる本格的な橋に直されて、橋台もそのとき造られたようです。石の色が他とはぜんぜん違います。この色の違いは屋根がついて風雨から守られていたためだけではないようです。築造加工年代が新しい石肌のように思われます。
(4)水呑川対岸の護岸石垣が一部取り壊されて築きなおされています。橋台はそのやり直された石垣から少し控えて積み上げられています。この橋台を築くために護岸の石垣をやり直してあります。
水呑川土手と複数の鉄橋跡

(5)
水呑川堤防からの遠望です。右(南西)が水呑川。左(北東)は農業用水路。さらにもうひとつ左にも用水路がありました。桜の木のトンネルの左側に鞆鉄道の鉄橋橋台が残っています。堤防の上の道路を拡幅するために路面が削られ、少し低くなっています。N原さんの私設橋は土手が車の通れる広さになってから架けられています。元の鞆鉄道の鉄橋ではありません。高さも幅も石の加工の仕方も当時のものとは変わっています。
現存の鞆鉄道橋台

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(6)こちらは鞆鉄道当時からある農業用水路脇に築かれた橋台です。石垣の積み方は水平の布積みですが、表面に凹凸が残してあって、水呑川の私設橋台の仕上げとはまったく違います。
(7)護岸壁が修復されています。残っている斜めの線は元の護岸石垣の位置だと思われます。この斜めの線は橋台の最上段まで残っています。

para1002n(ぱら仙人)
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