鞆鉄道(239) ブルーマップ(2) H地点
H地点はとても重要な場所で公図界水呑町251-1(大川下新田八丁目)と250-1(仝十丁目)の境界線と水路(入川土手北側に現存の一本目の水路)が交差する地点です。中村集会所(広島県福山市水呑町)の北西の橋までは公図界を道路の西端に引いてありますが、この水路の交点H地点からは斜めに道路を渡って東側から逸れていくようになります。公図界の屈折ポイントです。
ここまで読まれて何じゃそりゃと思われた方はごめんなさい。私が勝手につけたポイント名で公式の名前ではありません。
ゼンリン住宅地図とブルーマップがどちらも1/1500なのに重なり合わない。7%の誤差がなぜ起こって、しかも調査費も使っていないのに定価が2倍にもなったのか。腑に落ちない天下りお役所仕亊を腹に据えかね、ならば現地調査を徹底的にやって正確に比較した上で、もの妄想(物申そうの誤変換です。はい。)ではないかという段取りです。
順次現地を巡っていきますが、A地点は中原さんの橋台跡西側、B地点はそこから西に向かって門田さんの西北角(暗渠水路と公図界の交点)、C地点は県道の方に北上して丸石薬店の北角(公図番号水呑町188の折れ曲がり点)、D地点はずっと南に下り、変則五差路と水路の接点、E地点はさらに南の水路鍛冶屋跡の標柱脇、F地点は、東に向かって公図番号水呑町151の南東角、仝198との接点です。さらに北に向かって、G地点は、びっくりカルビーの北西、I地点がちびっ子広場の南西隅、昔の猪原病院の北西角になります。
水路跡は拡幅されて道路になっている

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水色は水路跡
白線は公図界のイメージです。水路のところで折れ曲がって斜めに北に向かいます。
水路は暗渠で繋がっていた。

(2)

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(2)坂道を横切って西を見た様子です。電柱が重なり合って一本に見えますが、電柱の通りに水路がありました。今は拡幅されて道路になっています。
(3)ガードレールの下に下りてみました。入川の方向(南)を向いた様子です。溝蓋の辺りを水路が横切っていましたが、今はありません。
(4)溝蓋の下に下りてみました。写真の奥が西です。境界表示があります。ここを水路が通っていたと思われます。
水路跡に立って東を見通した様子

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(5)土手下に現存する一本目の水路のセンターから二本目の水路跡(この溝蓋辺り)までメジャーで測ってみました。10m25cmでした。幻の水路はもう一間ほど南に出ていたかもしれません。
(6)溝蓋より少し南寄りから見通すと、倉庫の角を掠めて奥にY本さん宅のガレージの2本目の柱が見えます。
(7)同じ位置から少しカメラを引いてみた様子です。区画整理でできた余剰地で市の土地です。複数の土地の方の話によると昔ここに坪町があったそうです。入り江は海に続いていましたから、舟で屎尿を運んでここにずらっと並んでいた野坪(コンクリート製の大きな枡でマンホールの蓋がずらっと並んだ立派なものだったそうです)に移して水田や畑の肥料にしていました。次回は橋台のB地点に行く途中で見た奇妙な坂道の予定です。

para1002n(ぱら仙人)
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