霞町(広島県福山市)から出発した鞆街道の最初に越える川は道三川ですが、今は暗渠化して道路の下です。下井手川の手前に土手や藪の植え込みがありました。土手の手前で道の方向が若干変わります。土手の法面(のりめん)を斜めに上がる坂道があったように思われます。
道三川を越える手前に番所がありました。人の出入りを検問していたようです。番所の向かい側(城下側)に「地吹 普請道具小屋」と書かれた一画があります。周囲は黄色で色分けしてありますから家中の武家屋敷地です。
現、地吹町は、当時の道三川を渡った南側の畑地です。その先の下井手川まで二十間の家中鉄砲矢場があって、前の方に小屋が建っていたようです。
鉄砲矢場の両脇に道があって、どちらの道も下井手川を渡って、東の芦田川に達していました。山田海道口(鞆街道)です。(「水野家時代福山城下明細地図」)
昭和5年の鞆街道

まだ東の芦田川(鷹取川)は川幅の流れの部分を50m、法面と川原を28m、土手の上の道路は対岸との直線距離が85mくらいに描いてあります。下井手川畔から芦田川の土手の上まで直線距離で13〜15mでしょうか。土手は取り崩され、平地になった一番外側が現在の競馬場、体育館への通りです。当時の土手は現在の道路から立ち上がっていたと考えられます。下井手川畔側からの土手の高さは2mはあったでしょうから、現在の路端から土手の上に斜めに取り付けの坂道があったと考えられます。
廃川予定地が大胆に略図化された昭和11年の地図

芦田川の河川改修が行われ、西の瀬戸川、大川が中川の中土手の線まで広げられ、東の芦田川(鷹取川)が廃川と決まりました。東の土手は取り崩されて、護国神社(現体育館)の埋め立てなどに使われました。東の芦田川は新堤防の内側に付け替えられましたが、完全に川が消滅したわけではありません。農業用水路として元の川筋の一部が淀川呼とばれて残っています。
ところがこの地図にはありません。廃川予定地を先赱って、平地にしてしまい、本来湾曲していたはずの川沿いの道は、土手を取り除いて直線道路になるものとの想定で描かれています。
昭和2年の福山大洪水のあと、芦田川河川大改修に伴って鞆鉄道の線路が新土手の手前で方向を変え、現ホーコスの間を通り、現光小学校の校庭をカーブして、新しい芦田川を横断して川向こうの鞆街道と併進する路線になっています。昭和6年ころの話です。
大正2年からの旧線(鞆軽便鉄道)は、芦田川の中州西寄りを通っていて、銭取り橋(草戸大橋の少し上流にあった)のたもとにあった草戸稲荷駅(現草戸大橋の少し川上にあった旧線時代の停車場)は、新土手の外側の現ホーコスの自転車置き場奥に変わっています。
昭和11年の地図には、その鞆鉄道の路線変更に伴う新駅も情報として欠かせなかったようで、方向も距離も違う場所を道路を捻じ曲げる形で無理やり図面の範囲に描き表わしています。
米軍の空襲で焼失した家屋を示す地図

「福山空襲 焼失家屋地図」は終戦直後の鞆鉄道、福塩線が描かれています。両備軽便鉄道は電化が進んでいたので、国鉄に買収され、両備鉄道の福塩線は備後本庄廻りに路線変更されて広軌道になっています。鞆鉄道は電化されなかったので買収対象にならず、時代遅れ路線のまま乗合バスにとってかわられ、この後、昭和29年に営業運行を終了します。
終戦時の福山市の様子です。東の芦田川は廃川になっても、まだ川筋は淀川として地図に残っています。鷹取橋は短くなって、この淀川に架かっていました。
昭和11年の地図の下井手川より南の部分は、この「福山空襲 焼失家屋地図」を参照して修正しながら見なければならないようです。
黄色で囲んだ部分は鷹取橋の北詰めです。霞町から南下する鞆街道と、鷹取橋は直線ではありません。30mほどずれています。
地吹の荒神さんの角に鷹取橋の頭柱が片側一本だけ残されています。この道路(競馬場通り)の荒神さんから30m下って中央から55間(100m)が芦田川改修工事前の鷹取橋の長さです。コンクリート橋でした。上流の鞆鉄道の鉄橋は58間(105.5m)です。
次回は鷹取橋の南詰と鞆鉄道の鉄橋の西詰めがどの辺りか探してみます。

para1002n(ぱら仙人)
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