最近は1日置きに三之丸停車場(広島県福山市鞆軽便鉄道跡)までウオーキングスティックを頼りに歩いている。だんだん楽に行って戻れるようになったら少しずつポイントを移して距離を伸ばしていきたい。今のところ行って帰るだけでヘロヘロ。だが、少しずつ帰りも楽に歩けるようにはなってきている。
野上町民館の壁に掲げられている案内板

赤線は当時の道路、青は現在の道路。濃い数字は古野上町の地番。薄い数字は西桜町一丁目の地番。野上駅の南の東西道路(緑色)が霞町通り(旧国道2号)です。霞町通りを西に行くと、神島橋、尾道・広島方向。東には特徴のクランクがあります。このクランクと鉄道との交差点(踏切)までの距離で縮尺比を読み取ってください。
霞町通り(緑線)から野上駅方向には線路を挟んで東西2本の側道がありました。側道は野上駅までで、そこから北には道がありません。
昭和5年の實地踏査福山市街全図 (表題の字体通り旧字体を使うと、文字化けして以降の記事や原稿が消えてなくなるので、新字体に変えています)

昭和五年の地図では現在のリム福山の南東前にはまだお堀の一部と水が残っていた様子が描かれている。大正2年の鞆鉄道開業当初は、南外堀の南東角から内曲がりの角に向けて対角線上に鉄橋を通す計画でした。鉄道を敷くだけなら、石垣の上でも差し支えはないものの、国鉄福山駅周辺の道路とフラットな方が交通の便はいいわけで、石垣の上の方は取り除いて鉄道が敷設されたかもしれません。
国鉄の敷設に福山城の内堀を埋め立て、石垣も取り壊した前例はあるので、そんなに抵抗はなかったかもしれません。
少なくとも、昭和5年の時点では鉄道は外堀を埋め立てた地盤の上に敷設されています。埋め立てに使ったのは、染色工場で使った石炭ガラで、産業廃棄物の処理場に外堀埋め立て事業がリンクしていたと考えられます。
昭和11年の改正福山市街商工地図

昭和11年の地図では野上駅の西側の構内施設及び側道が取り払われています。栗原鉄工と現高橋金物の間の側道は描かれています。その突き当たりが野上駅のプラットホームで、北限は古野上町の町界のようです。この町界線が現在どの位置かが確定できれば、プラットホームのあった位置が分かります。
昭和25年の地図には野上駅がない

昭和25年の地図には野上駅が描かれていません。ただ単に忘れられていたのか、校正ミスなのかは定かでありませんが、このころは乗降客がずいぶん減少していて、野上駅には停車していなかったことも事実です。プラットホームはあっても、通過駅だったわけです。
野上駅跡とみられる桝平乳業から高橋金物の駐車場


H田さんの記憶では、鉄道は道路と建物のギリギリのところを通っていたようですが、それだとK土井さん宅の東側に掛かってしまうので、もう少し屋敷内を通っていたようです。昔の古野上町の町界まで駅があって、現在の西桜町一丁目1の若月マンションの手前から徐々に道路から離れて、ビッグボーイ(イタめし屋さん)と広島日本語学院の間を通って現在の新国道2号を越えていました。

para1002n(ぱら仙人)
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