福山空襲で戸籍簿、土地台帳、地図、など分散疎開していた書類があちこちでことごとく焼失。墓地台帳から民有地の境界線を確定するあらゆる資料が失われた。
鞆鉄道が買収していた鉄道用地と、隣接する民有地との境界は書類上の証拠がない。幸いなことに鉄道用地の多くは境界線に石積みがある。二三段の低いものだが、盛り土の土止めとして沿線に築かれていた。これは動かないので売却する際の測量の目安になった。
三之丸駅から野上停車場までの沿線も徹底的に破壊されている

すでに新堤防が現在位置に築かれていて、たかとり川(東の芦田川)は狭まって淀川と呼ばれていた。旧鷹取川河川敷が広がって(淀川の)川幅は1/4程度になっている。
米軍の福山空襲(広島県)
1945年8月8日は旧暦で七月朔日。新月ですから夜空に月はない。
それでも、満月だったと記憶している人は少なくない。
照明弾で真昼のように明るく、焼夷弾で家が燃える傍を逃げ、2週間ほど経って一息ついて見上げた時の夜空の印象が幼い脳裏に焼き付いて、満月の夜として刷り込まれている。そういう人が何人もいることが、逆にすさまじい。
福山の入り江は丁度海から人差し指を突きだした形に似ている。指先の方向が福山城。市街地のど真ん中だ。
南の海から侵入した米軍機は春日の山に焼夷弾を投下。福山の北に山火事を起こした。続いて東の郊外、深津の山に投下、西の木之庄の陸軍射撃場とその手前の斜面を爆撃。
反転して芦田川に沿って南下。海に出た後、再び入り江の指さす方向に沿って爆撃。反転して海に出て波状攻撃。編隊を組んで繰り返した。外に逃げられないように徐々に渦巻き状の輪を狭めて中心部へと町を焼き尽くした。
編隊の翼の間隔で攘夷弾がばらまかれ、空中でさらに散らばって地面には数メートル間隔で着弾。地図に赤く塗られたところが爆撃で焼失した家屋。白いところは爆撃をまぬかれたのではない。偶々校庭の広い空き地だったり、寺院の墓地だったり、水田やイグサの沼で、建物がなかっただけだ。
そういうところには二度目の攻撃はなく、燃えている近くには建物があるのでさらに攻撃を加える。町内を救おうと消火作業中に再度の爆撃で直撃弾を受けた人もいる。
家を捨て、町内を捨て、われ先に逃げた人が助かって、まじめに防空壕に入っていたり、まじめに消火活動を続けていた人が逃げ場を失って命を落とした。
空爆予告ビラ

憲兵隊に回収されたり、個々に処分したりで、現在も現物が残っていることは珍しい。その為、人道的に事前に避難を呼びかけたのは嘘で、原爆投下の8月6日以降に戦意喪失宣伝のために撒かれた別のチラシと勘違いしているのではと疑う説もあります。あまりにも現物が少なく、実物を見たことがないことからそういう説が表れたようです。
中国新聞(今年、2015年7月17日)の取材によると、このチラシは空爆8日前の7月31日に米軍が福山市上空から6万枚散布したものの一枚とのこと。「北本庄の世良チトセさんが(80)が保管している。」
「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。
人道主義のアメリカは罪のない人を傷つけたくありません。」
チラシにはそう書いてありますが、このチラシを書いた人道主義のアメリカ人と実際に操縦かんを握ってやって来て、逃げる人に狙いをつけて機銃掃射のボタンを押したり、消火活動をしている人影に狙いをつけて絨毯爆撃していった現場の戦闘兵士とは全くの別人です。云うこととすることが違うのは当たり前でしょう。

para1002n(ぱら仙人)
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