いきなりハードルを上げて行き詰ってしまった。その後も、ウオーキングは毎日続けていたが、写真がない。ウオーキングコースは日替わり。主に、芦田川河川敷の芝生の上を歩く。そこに至るまでに鞆軽便鉄道跡を通るパターン。そこから思いついて、両備軽便鉄道の跡を歩くパターン。何度か歩いて、両備軽便鉄道福山駅についてある疑問が湧いてきた。
二層の物見櫓が天守の右側に見える

この位置関係から、両備軽便鉄道駅舎は、コンビニ(ファミリーマート)の前の東西道路よりもかなり南、現在のサントークの建屋内の東西通路辺りが昔の道路の位置と一致している。
(福山市の水呑町以北、以東は墓地台帳、土地台帳、住民台帳のすべてが空襲で疎開先の古野上水道局で焼失。終戦後、再測量したものや、明治以前の近隣郡町の保管していた土地境界図に一部図面があるだけで、大正時代、昭和初期、戦前の土地資料は、福山市にはほとんどない。大正、昭和初期の様子は、その土地の真上に住んでいる地権者の証言が頼り。古くからの住人でも少し離れた個所は、また聞きや風聞が多く、当てにならない。東京など大都市の著名な先生が名を連ねている郷土史関係や趣味の鉄道関係の著作は実際の分担執筆箇所が別の人だったり、十分な裏付け資料と突き合わせて確認が難しく、明らかな誤認記事や、検証不足の著作も訂正、書き直しされないまま放置されているものが多い。)
大正5年の福山駅裏の道路位置

写真の上が東方向。駅裏の東西道路は現在よりかなり南にあって、延長線はサントークの店舗の通路辺りになる。
天守と外堀櫓と両備鉄道福山駅の位置関係

写真が撮影されたのは、外堀埋め立て跡地。この辺りは堀幅が60〜70m近くあった。染色工場の石炭ガラなどの産業廃棄物で埋め立てられている。
上の写真のような位置関係に見えるのは、水色のライン上になる。コンビニの裏手辺りに駅があったとする説では、濃い藍色のラインになって、天守や外堀物見やぐらは駅舎の左手に見えなければならない。コンビニの裏手辺りにあったのは軽便鉄道の引き込み線や車両倉庫で、これらを聞き込み調査段階で駅舎施設と誤認していると思われる。
大正時代の福山市街明細図が数種類あるが、大正3年が開業直後の様子。昭和11年が営業終了直前の様子。昭和13年以後は新たに南回りの福塩線が開業して旧線は廃線になる。
古写真の位置関係から緑の線が両備軽便鉄道跡

para1002n(ぱら仙人)
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