このまま地味に本町の町域、22箇所の角を丹念に写真に撮っても飽きられてしまう。道路と家の壁ばかりではなかなか鑑賞にも堪えない。いずれ福山城下に入るには本町を通らざるをえない。
ちょっと今までとは趣向を変えて、本町に辿り着くまでの道筋を外から旅人が入ってくる目線で歩いてみることにした。
実は、それも想定に無理があることはある。第一、旅人が福山城下を通過することは通例なかったことだからだった。
参勤交代道(西国街道=旧山陽道)は城下を大きく迂回していた。福山は何もないところに後から作られた町で、備後の中心拠点は神辺城だった。神辺には本陣も脇本陣もあったし、菅茶山の廉塾はじめ文人文化の拠点も神辺だった。
海側に福山城が進出しても、官道(参勤交代道)がルート変更されることはなく、福山城下の西を流れる芦田川には中津原の参勤交代道の大渡橋付近も舟渡しでで、川には一本の橋も架けられることはなかった。旅人がたとえ福山城下に立ち寄ったとしても、城下から出る西出口がなかったのだ。よほどの身分の人であれば、山手橋(平時は外してあって常設橋ではなかった)に臨時橋を架けたり、船渡しをする場合もあるが、それはペリーが日本に來た当時、同時期に長崎にプチャーチンの応接に向かった大目付筒井肥前守政憲、公儀勘定奉行川路左衛門尉聖謨(としあきら)、古賀謹一郎(茶渓)等の特例があるに過ぎない。
そういうわけで城下に所用があって入るには神辺から千塚池、丸池を回って千田の沼地を迂回するルートと横尾から大峠(おおたお)を通る2ルートと鴨方道しかなかった。いずれのルートも西国への出口は吉津の道標の所に出る。
吉津の道標

道標は道路の拡張に伴って、少し場所を移してあるが、北吉津交差点にあった。従是東京大坂道(これよりひがしけうおおさかみち)、従是北石州道(これよりきたせきしうみち)と彫ってある。
吉津交番

道標から南に二十五間(45m)下ると小川(御手洗川)がある。取水口はもっと上手(西)にあるが、掬って飲めるほどきれいな水が流れていた。この辺りに妙政寺の先から取水した吉津上水道の余り水放流口があった。現在は吉津交番がある辺り。
胎蔵寺

交番のところを小川沿いに西に入ると一町二十八間(160m)先に大佛橋がある。胎蔵寺の門前に架かる橋だ。この橋を渡ってまっすぐ南に下れば吉津川(蓮池川)の新橋に出て、本町、府中町に入る。
御手洗川沿いにさらに西へ

だが、外から入るものは胎蔵寺門前の大佛橋を渡らず、さらに西に行かねばならなかった。妙政寺の脇に番所があったからだ。(現在、番所跡、総門跡として残されている土橋周辺は2代藩主水野勝俊の寛永十八年(1641)に妙政寺脇から移設された新しい場所)
番所跡の渡邊神社

この最初の番所(初代勝成時代)のところに総門があったと考えられる。番所を通った後は南に突き当たって東に折れる。西には通行が許されなかった。妙政寺の先に吉津上水道の取水口があったからだ。ちょっと長くなったし、吉津交番から西へ西へ進んで來て、ここからは再び進行方向が変わるので、次回に続きます。〆(..)para1002n(ぱら仙人)


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