2006/2/10

昨日の夜中は  音楽
伊福部先生が東宝ゴジラシリーズに「音楽監督」として関わられた最後の作品「ゴジラVSメカゴジラ」を見ながら酒を飲んでいた。
制作は1993年。映像的には「21世紀的」なニュアンスが少し垣間見えはじめ、でも、音楽は、もう見事に「伊福部昭」全開、昭和特撮感覚満載、という作品。映像が表現しようとしているある種のシャープさ、クールさと、伊福部先生の土俗的音楽感覚が明らかにズレている部分も多く、逆に伊福部音楽が喚起する「昭和の東宝特撮」の問答無用のスケール感に、映像がまるで拮抗できていない部分も多い。そういう意味では、はっきり言って破綻した作品であり、1993年の映画館で感じた違和感は、それから12年以上経ってみても、やはりそのままだった。
結局、「ゴジラ」の登場する怪獣映画、というものは、やはり1960年代に「すでに終わっていた」と解釈すべきなのかもしれない。伊福部先生の土俗的パワーに満ちた音楽を得て、放射能大怪獣という単なる「空想科学的生物」から、「荒ぶる破壊神」へと昇華したゴジラ。彼が踏み潰し、叩き壊し、焼き尽くせる街は、つまり、神の怒りを受容するだけの余裕、または「スキ」のある街は、多分、その頃にしか存在しないような気がするから。

まあ、それはそうと、なぜ伊福部先生は「ゴジラ」の音楽を担当することになったのか。
以下、哀悼の意をこめて、あえて、福田のインタビューを抜粋する。

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福田:::先生はどうして特撮映画の音楽を作ることになられたんですか?

伊福部:::始めて手がけた「銀嶺の果て」(’47年)という映画に、フルオーケストラの曲をつけたんです。その頃、大編成で映画音楽を書く人はあまりいなかったので、怪獣みたいに大きいものが出るんだから大きい編成で書く人がいいだろう、という事なんだか(笑)、どうして決まったか、よく知りませんが。

福田:::最初は「ゴジラ」でしたね。

伊福部:::これに関しては、非常にツイていた、というか。
「ゴジラ」の前に、京都の東映で仕事をしていたんですが、ある晩、飲み屋で女優さんと飲んでいたら、男の人が入ってきたんです。その男の人は、どうも仕事があんまりなくて、お金も持っていなかったんでしょう、なんだまたタダ飲みかい、まあ入れよ、なんてみんなに言われていて。
それからも東映のそばの飲み屋に入ると、ちょくちょくその男の人がやってきて、今度の映画はカメラが悪いだの、あの俳優はヒドいだの、悪口ばっかり言っていて、面白いからよく一緒に飲むようになったんです。お互い、名前も良く知らないまま。
で、いよいよ東宝で「ゴジラ」を作る、というんで記者会見をやった時に、特撮監督は円谷英二、音楽は伊福部昭、ってひとりひとり紹介されていったら、あれ、京都で飲んでバカな悪口ばっかり言ってたのはお前か、と(笑)。
そんなわけで、円谷さんに、「ちょっとゴジラの模型を見せてよ」って頼んだんです。円谷さん、それまで誰にも見せてないんですよ、監督にもですよ。監督に見せると何やかやと文句言うからって(笑)。だけどそこを頼みこみましたよ。「分からないと音が書けないんだから」・大きいのが出るんだから、デタラメ書けばいいよ・「デタラメの書きようがないんだから見せてよ」そしたらとうとう、”伊福部さんならしょうがないなあ、もう悪いところみんな見られてるからなあ”って(笑)。
それで円谷さんの部屋へ行きましてね。こんな小さいものが凄く大きく映るんだ、とかいろいろ教えてもらいました。おかげで、ストーリーは別として、だいたい怪物のイメージをつかむことが出来たんです。

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この短い抜粋を読むだけでも、先生の、なんとも軽妙な話しぶりが伺えると思う。
実際、非常に「洒脱」なかたで、福田、一度、ワイングラスの持ち方を注意されたこともw。若い頃は、さぞ、モテただろうなあ。

ちなみに、このインタビュー記事の企画、構成者であり、当日先生のお宅に一緒にお邪魔したリットーミュージックの編集者、金井喜久乃さんは、この数年後、交通事故で急逝。多分、まだ20代だったのではないか。その後、先生の奥様である愛子さんは2000年にお亡くなりになり、そしてとうとう先生も亡くなられたので、文字通り、この記事に関係した人間で「生き残っている」のは、カメラマンの若色さんというかたと、福田だけになってしまった。寂しい限りである。


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