2008/6/21

2週間後  ニュース
秋葉原の例の事件・・こう書くたびに、もともと秋葉原、という地名が持っていた雑多で、パワフルで、でもちょっとこっぱずかしい、といったイメージが全て掻き消えてしまう。
それほどあの事件は衝撃的だったし、なにかを根本的にひっくりかえしてしまった。

「彼」の巻き起こした大殺戮は絶対許されるべきではない。
その罪状に基づいて厳罰に処されるべきなのは言うまでもない(ただ、福田は基本的に死刑廃止論者なので、ここで言う「厳罰」が、そのまま死刑、を意味するものではない。「死刑」に関する考えについては、論点がずれるのでここでは触れない)。
しかしそれでも、福田は「彼」の行動が「分かる」。
無論、同調できるという意味ではない。ただ、理解できる。
実は、「分かるのはイヤだが、正直少し分かってしまう」という人間はかなり多いのではないか。この事件をめぐるマスメディアの報道がめずらしく「慎重」である事実からもそれは伺える。それは、ほんの少しの救い、ではある。
ただ、例によって町村官房長官の発言には呆れた。あの男は、ナイフを規制すればなにかが変りうる、と本気で考えているらしい。この想像力のなさ。救いようのないほどのニブさ。はっきり書くが「ああいう形式」の思考しか出来ない人間が国を動かす立場にいるという事実そのものが、間違いなく、今回の事件の元凶のひとつだ。そしてそれに追随したいくつかのマスコミも。ナイフは人を殺さない。殺すのは人だ。では殺す人、を作るものはなにか。彼らにはこんな単純な思考の道筋がない。恐るべき無恥さだ。

「彼」は、性的異常者でも、狂ったサディストでも、麻薬常習者でもなかった。
ほんとうにどこにでもいる、厳しくしつけられ、そのせいで小学校では優秀で、でも次第にドロップアウトして、仕事に対する愛の持ち方もプライドも権利意識も形成されようのない派遣労働の職場で給料を得て、かろうじてアニメやゲームやネットに支えられてつつましく暮らしていた、典型的な若者だ。その「彼」が真綿のように首を絞めあげる猛烈な孤独にさいなまれ、最後は凶悪きわまりない殺戮者へとジャンプした。この最後のプロセスは確かにあまりにも異様だ。
しかしこれすら、実はひとつの「典型」なのではないのか。
「第二第三のKが現れるかも知れない・・・」などと書く週刊誌がある。楽観的すぎる。
今の「日本」が陥っている(と敢て断言する)新自由主義的社会構造の中に、「彼」は、100人に1人の割合で確実に存在すると思う。つまり、「彼」は全国に120万人いる。そして「彼ら」がいっせいに10人を殺したらどうなるか。1200万人が死ぬ。つまり、例えば東京都が「全滅する」。絵空事か?いいや、ちっとも。
我々は「そういうギリギリの世界」に棲んでいる、と自覚するべきだ。
年間に3万人が自殺しているこの国は、見えない戦争をしているんです、と語った、
映画監督園子温のコトバが、今更のように思い出される。

誰が悪いのか。殺戮の実行者であるところの「彼」か。確かに、それはその通りだ。
彼は、他人の生命を奪うという時点ですでに「絶対悪」である。しかし、では、その「絶対悪」はどうやって形成されたのか。
すでに2ちゃんねるには、「彼」を礼賛する膨大な数のスレッドがたち、今もその数を増やしている。殺人者を礼賛する?とんでもないことだ。でも、今回に限っては、そんな救いようのないバカどもの気持ちすら、福田には「分かる」。書かずにはいられない彼らの気持ちが。むしろ、「分からない」という人間のほうが、分からない。

今回の事件は、誤解を恐れずに言えば、無自覚なまま行われた911テロであり、日本という一見平和で豊かな国の日常に、致命的な深さで刻みつけられた傷だ。もはや、我々は、この事件が起きる以前の日常の「無邪気さ」を取り戻すことはないだろう。秋葉原は、単なるオタクの聖地「アキバ」として語られることはなくなるだろう。しかし、それでいい。
今回の事件は、明らかに、人が人を(自分も含めて)殺さないですむには、普通にシアワセに生きていくためにはなにが必要なのか、を本当に真剣に考える時がやってきた事を我々に示している。無自覚、無思想の時代は終わった。現在の社会構造に関して、徹底的な考察をすること。それが、無残にも命を落とされた方々への、せめてもの「つぐない」である。


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