2008/11/18

ダイアリー・オブ・ザ・デッド  映画
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「Living Dead」という概念を確立し、独自の作風を貫き通し、68歳という年齢に達したロメロならではの実験精神に満ち、極めて多くの寓意が重層的に存在する大傑作。ロメロがあえてP.O.V.という方法論を採用したことに関しては、むしろその技法の洗練の度合いを賞賛すべきであって、単に「すでに珍しくない映画話法である」という次元で突き放すべきではない。少なくとも、ここまで論理的に構成されたP.O.V.映画、は、いままで存在しなかった。しかし、この作品の最大の魅力は、この「緻密なP.O.V.」という一見矛盾した話法にあるわけではなく、ロメロが観客に投げつけてくる、時に禅問答のようですらあるナレーションであり、ダイアログだ。「これは我々と彼らの戦いだ。しかし、彼らは我々なのだ」こういった類の「言い回し」が我々観客に突きつける明らかな「不快さ」は、作品に存在する様々な問題提起全てに敷衍される。例えば、公権力によって捏造される報道、その対極にあるかのようでいて、編集され音楽までつけくわえられて発信される個人的な情報(要するに、この映画そのもの!)・・・それはほんとうに信頼に足るものなのか?また、映画中唯一の「中年男」である大学教授は突如、「カメラを通したとたん、全ての視線は傍観者のそれになるのさ」、と、「見る者の責任」を問うコトバを投げかける。しかし、「傍観者」がカメラを捨てて事態にコミットすることで別の方向へ進んだ「現実」を、誰が記録できるというのか?つまり、カメラは傍観者である以外に、なにでありうるというのか?シナリオが投げつけてくるこうした様々な問いかけに対し、観客は常に混乱し続ける。この素晴らしい居心地の悪さ!そして、映画の終盤。ついに「Living Dead」に襲われた「映画中映画の監督」の死の瞬間、彼は叫ぶ。
「Shoot me!」。言うまでもなく、「俺を撮れ!」でもあり、「俺を撃て!」でもある。映画中ずっと徹底的に「傍観者」であり続けた存在=観客に対して、「当事者」となるためには命を捨てろ、と、「まさに傍観者の視点で構成されてきた映画そのもの」が叫ぶのだ。なんとまあ痛烈で皮肉な構造!さらに。主人公達は、生き延びるため、世界とつながり続けるために、世界との接触を断絶したパニックルームに引きこもるしかない。しかし彼らはこの先、いったい何にコミット出来るというのか?そうして生き残ることの意味は?ラストシーン、木の枝に吊り下げられた哀れなLiving Deadの女性のアゴから下の全てを、「我々 人間」の放つ銃弾が一気にもぎ取る。そして投げかけられるナレーション。「我々には生き残る価値があるのか?」鼻から上だけが枝にぶら下がったLivingDeadの、我々を見つめるあからさまに悲しげなまなざしは切なく、同時に完璧に、絶望的に不快である。全くもってお見事!この映画は確かに、説教じみている。しかしそれは、ロメロが68歳にしてなお、あまりにも多くの伝えたい事を持っているからだろう。それはつまり、彼は人間に絶望などしていない、という事だ。なので、あえてこう書いておく。こんなに悪趣味にカッコよく、見る者に大量の疑問符をぶつけてくる「説教映画」は滅多にない。大いに説教食らうべし!!
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