2009/1/12

五十嵐公太ロングインタビュー04  インタビュー
YF:学校とは別にドラムを習ったりはしなかった?

KI:習いました。クラシックの先生にもドラムを習ったんですけど・・・なんて言うか、クラシックの教育って、ゴールを見せないじゃないですか。たとえば、ロックだったら、イアン・ペイス(註:「ディ−プ・パープル」のドラマー)とかを見て、うわーすげえ、こういうふうに叩きたい!みたいなお手本、ゴールがまずあって、そこに向かって必死に練習していく、っていうのがあるのに、クラシックの場合、とにかく、はい基本、グリップはこうで、こう叩いて、みたいな。コレが何の役に立つの?みたいな疑問だらけで。

YF:あるある、問答無用っていうか、押し付けっていうか。確かに基礎練習は大切なんだけど、日本のクラシック楽器教育っていうのは大抵、なぜ基礎が大切なのか、についてちゃんと説明しない。要するに、教育には教育を受ける側のモチベーションが大切、って事を理解してない・・っていうか、ハナから考えてないのかな。言われたことはとにかく言われたとおりやれ、みたいな。そういうノリに耐えられるやつだけが演奏上手になるんだとすると、音大ちゃんと出てるクラシックの演奏家にロクなヤツはいねえ、ってことになる。まあ、この意見、実際ある程度以上当たってると思うんだけどね(笑)。で、演奏家にならなかった場合には、音楽教師になっちゃうワケだから、音楽の授業が面白くないのはあたりまえ。

KI:そうですよねえ。で、僕はクラシックのドラムは1年くらいでやめちゃいました。もちろん、その時習った事が、今なんの役にも立ってない、とは思わないですけどね・・・高校二年生の時は、YAMAHAのEastWestのジュニア大会に出ました。1979年かな。

YF:シニア部門ではKODOMO BANDが優勝した年だね。決勝大会には?

KI:行けませんでした。でも、その後もずっとバンドは続けていて、武蔵大学1年生の時、4年生の先輩から「絶対勉強になるから」って言われて、生まれて初めて「お仕事」としてドラムを叩きました。米軍キャンプやお店をまわる、カントリーバンド。

YF:カントリーバンド!それはまた激しく「ロックじゃない経験」・・・

KI:そうですねー。まあ、要するにハコバンです。バンドメンバーは同じなんですが、日によってボーカリストがゲストで乗ったりする。この時は、「主役」であるボーカリストのパワーってすげえなあと思いましたね。けっこう威張ってるというか、ワンマンというか、そういう人が多くて、ワザと裏拍から歌いだしたりするんですよ。要するに、イントロのサイズ(註:長さ)なんか関係ない、俺が歌いだしたらそこが頭!みたいな・・・

YF:ひー、当時のカントリー業界とかってそういうオヤジ、いそう。やられたほうはたまらんなー。でもそれって、ワザと裏拍から歌ってるんじゃなくて、単にそうなっちゃってるだけじゃないの?(笑)

KI:かもしれないですけど(笑)。でもとにかく、今の自分のドラムに、あの時の「カントリービート」がどう役に立っているのかは分からないんですが、少なくとも、臨機応変さ、みたいなものは身につきましたね。

YF:確かに「勉強」にはなった、って事だね(笑)。経験値アップ。どのくらいの期間やってたの?

KI:1年半くらい。給料はちゃんともらってました。その後、大学4年の時、EastWest出身の「十二単」(じゅうにひとえ)っていうバンドに参加して、全国ライブハウスツアーに出ました。もちろん全部クルマ移動です。

YF:おー「十二単」!確かEastWest82出身じゃないかなあ。久保田利伸がベストボーカリスト賞取った年・・・それで覚えてる。キーボード、三国くん(註:三国義貴氏。ハードロック系キーボディストの第一人者。ちなみに華子のファースト、セカンドアルバムの作詞をした羽音さんは、三国氏の奥様)だよね。そうかあ、公太くん「十二単」で叩いてたんだ・・・あのバンドって、結局デビューは?

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■「十二単」時代の五十嵐公太(左後)。寝転がっているのが三国義貴氏■

KI:しなかったんです。出来なかった、というか。で、「十二単」での活動を経て強烈に思ったのが・・・「バンドで売れるっていうのはムリなんだ、不可能なんだ」という事で。

YF:キビしくも正しい認識を持ってしまいましたなー、若いのに(笑)。でも確かに、そうなんだよね。バンドで売れる、って事はホントに「奇跡」、普通、絶対ありえないんだ、と、俺は今でも思うもの。これって、この業界にいないとなかなか分からない。みんな「売れちゃった結果」しか見てないわけだからね。実際は屍累々、というか・・屍すら殆ど残らない。

KI:ですよね。で、僕は、最終的に「十二単」が解散したあとも、ドラマーとして仕事が続けたくて、ダディ竹千代さんの事務所にお世話になって、坂上忍のバックをやったりしてました。

YF:公太くんがダディさんと接点があったのは知らなかったなあ・・・業界、狭い。で、その後は?

KI:1986年に「TV」(ティヴィー)というバンドにドラマーとして正式加入しました。

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■「TV」時代の五十嵐公太(1987年撮影)■

YF:そうだ、「TV」!公太くんが「TV」にいたって話、前にちょっとだけ聞いて、俺、妙に盛り上がった事があったよね。あれは何故かと言うと・・・・「TV」って、もとはEastWest83のグランプリバンドの「幼稚マンco-Limited」でしょ、筑波大学のバンドで、ギターが葛城くん(註:葛城哲哉氏。TMN、浅倉大介などの名サポートギターとして名高い)。実はEastWest83の決勝大会って、俺、審査員やってたのね。で、「幼稚マンco-Limited」、すげえカッコいいんだけど、なんか出来すぎてて、場慣れもしてて、ちょっとムカつくから落とそうかって他の審査員と話してたんだけど(笑)、結局、ダントツにカッコいいからしょうがねーか、うん、しょーがねー!!ってことで、グランプリになったんだよ。

KI:そうだったんだ(爆笑)。

YF:そうそう、コンテストの審査なんてそんなもん(笑)。でも実際、面白いバンドだったよねえ、「TV」。1986年に公太くんが加入した時点では、「TV」はすでにセカンドアルバムを・・?

KI:そうですね。僕はセカンドミニ・アルバム(Charプロデュース)のレコーディングから参加しました。メーカーはポリスター・・このアルバムが最後のアナログレコード盤で、次からCDになって(註:1986年〜1987年は、アナログ盤からCDへの移行期)、その後何枚か作りましたけど、結局あまり売れずに、1989年に解散しました。で、またもや思ったわけです、「バンドってやっぱりダメだ、売れないんだ」って・・・。

つづく

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