2009/1/12

五十嵐公太ロングインタビュー05  インタビュー
KI:この時が26歳で、その後2年半、「ザ・ハート」というバンドのサポートドラムをしたり、「ジェラルド」っていうプログレバンドをやったり・・・いろいろやりました。で、29歳になった年に、それまでいろいろなところで顔見知りだったベーシストの恩ちゃん(註:恩田快人氏)から、彼のソロプロジェクトを手伝って欲しいって言う連絡があったんです。函館でいいボーカルの女の子を見つけたので、彼女をボーカルにしてバンドをやりたいと。

YF:それがJUDY AND MARY。

KI:そうです。でも、いざ始めてみると、全然僕のやりたい音楽じゃなかった。僕自身、もともとビートパンクとかパンクが大キラいだったんですよ。

YF:「ジョニー・ルイス&チャー」が好きだったんだものねえ・・それは分かる。俺はパンク、大好きだけど。ビートルズとピストルズ、どっちか選べって言われたら、迷わずピストルズ。

KI:(笑)初期のJUDY AND MARYは見事にビートパンク、こう、グシャーっというか、全部ダンゴな音。これは自分としてはとてもじゃないけど続けられない音楽なので、やめたい、と恩ちゃんに言ったんです。いったん彼は、それなら仕方がない、と納得してくれたんですが、しばらく経ってまた、いっしょにやらない?って。「バンドは売れないから!」って2回目も断ったんですが、最後はSMS(註:ソニー・ミュージック・スターズ)の社長さんまで引き連れて来て、是非頼みたい、と。仕事としてもちゃんと成立させるから、是非、と言う。最終的には押し切られる形で参加することにしました。1年くらいやって売れなくても自分の人生そんな変わらないだろう!って思って。デビュー前はホントに頼まれ仕事感覚だったので、なんかのアルバムでアニー・レノックスがやったみたいに、メイクで目を隠したりしてます。

YF:そうなんだ!

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■初期のJUDY AND MARYで「目隠し」した五十嵐公太(後ろ中央)■

KI:最初の頃はJUDY AND MARYの音を両親が全く認めてくれなかった事も辛かったですね。なんなんだ、あれは、みたいな感じで。そんな感じで悶々としながらライブをやっていたんですが・・・・ある日、ライブが終わった時、恩ちゃんがこう言ったんです。「公太クンはYUKIちゃんの後ろでドラムを叩いてるバックバンドの人じゃないんだから、もっと精神的にバンドに参加してくれないか。」って。その言葉は響きましたね。反省しました。自分の好きじゃない音なら、好きな音に近づければいいじゃないか・・って。そこから、積極的にバンドの音作りやアレンジにも参加するようになりました。

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■1992年当時■

YF:完全に「吹っ切れた」のはいつごろ?

KI:JUDY AND MARYを始めて3年経って、1996年に初めての武道館ライブが成功した時ですね。

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■1997年当時■

YF:不思議なもんだよねえ・・・ずっと「バンドなんて売れるワケがないんだ」と思ってやってきた人が、「これはとても続けられない」と思ったバンドで大成功。まさに「奇跡」のど真ん中に入ったわけだよね。これだから人生は面白い。で、そのあとはずっと飛ぶ鳥を落とし続けて・・・・客観的にはかなり突然の活動中止。

KI:2001年3月の東京ドームで解散でした。 実際はそのあともドームのDVDの編集はしてましたけど。(笑)

YF:「解散」の理由は?・・福田はいわゆる「発展的解消」だと理解はしてるんだけど・・・

KI:あの時点がまさに「限界」だったんです。アルバムを一枚作るごとにすり減っていった感じで・・・・とにかく休みたかった。1999年に活動を一旦休止したものの、実際にはゆっくりさせて貰えなかったし。最後は、「解散」をエネルギーにしていたかな・・・アルバム作るたびに、「もう解散、もう解散!」って言ってましたから(笑)。

つづく

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