2010/6/13

佐々木誠監督 ロングインタビュー 再開!  インタビュー
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福田が初めて佐々木誠監督作品「Fragment」を見たのは2009年の正月。
いわゆる典型的な「二代目のボンボン」として、六本木の裕福な実家の寺、長耀寺を継いだ若い僧侶・井上実直が、9.11を機に、静かに、しかし確実に、真摯な「宗教者」としての自己を形成していく様を淡々と追い続けたこのドキュメンタリーは、正月ボケの脳ミソに深く突き刺さった。
ニューヨークのグラウンドゼロを訪れた事をキッカケに、世界三大荒行と言われる激烈な日蓮宗100日大荒行に参加、「修法師」としての資格を手に入れた彼は、再びグラウンドゼロへ赴き、祈祷する。それは鎮魂のための祈祷なのか、平和のための祈祷なのか、ただ自らのための祈祷なのか。そういった積極的な問いかけは映画の中には一切現れないし、祈祷に向かう心情も祈祷を済ませた心情も、一切語られない。カメラはただ、降りしきる春の雪の中、「正統な修法師」としてグラウンドゼロでの祈祷を終えたあと、ハワイのパールハーバーでも祈祷する井上実直の姿を、そして、もう一度100日大荒行に参加する井上実直の表情を追い続けるのみだ。一切の音楽、モノローグを廃し、徹底的に客観的な視線を死守した冷静なドキュメンタリー映画でありながら、最後に彼のもとに「祈祷」を求めてやってくる老人のシーケンスが強烈な印象を残す。素晴らしいバランス感覚である。作品に感動して、佐々木誠監督にインタビューし、ロングインタビューの「初回」を掲載したのが2009年3月24日。その後、腰を据えてインタビューページを構成する時間がどうもうまく作れないまま、すでに1年以上が経過してしまった。佐々木監督、ごめんなさい。やっと載せます。というわけで、来週の6/19(土)14:00に、法政大学市谷キャンパス外濠校舎6階で開催される佐々木監督作品の上映会のささやかなPRの意味も込めて、監督へのロングインタビューの再開、さいか〜い!

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■以下、YF=福田、MS=佐々木誠(敬称略)■

YF 「Fragment」は基本的にとても静かでクールな作品ですよね。

MS そうですね・・僕の中には、被写体との一定の距離を保ちたい、という感覚が常にあるので。このへんは明らかにガス・ヴァン・サントの作品の影響です。

YF でも同時に、「主人公」の井上実直くんの撮り方には、あきらかに「ヒロイックなキャラクターを見つめる視線」を感じる。それはもちろん、実直くんが俳優やTVタレントをやっていたこともあるいわゆるイケメンで、画面に映るとちゃんと「かっこいい」からそう感じる部分があるんだろうけど。雪の降りしきるニューヨークを、祈祷師としての正装をした実直くんがグラウンドゼロに向かって歩いていく姿は、なんというか、最終決戦に向かうヒーローみたいな(笑)。実際には全然「最終決戦」にはならないんだけど。

MS 多分、僕の中ではこの映画が「スターウォーズ」でもあるからでしょうね。彼はルーク・スカイウォーカーだなあ、って自分でも思います。別にグラウンドゼロがダースベーダーではないんだけど。

YF ガス・ヴァン・サントと「スターウォーズ」が平然と混ざっちゃう(笑)、そのあたりの感覚が佐々木さんの面白いところなんだよね・・・そのへんの感覚って、どういう履歴を辿ると出来るのか、ちょっと聞かせてください。まず、佐々木さんは何年の、どこ生まれでしょう?

MS 1975年の兵庫県西宮生まれです。1歳のとき愛知県の春日井市というところに引越して、小3までいました。そのあと、宝塚に3年住んで、88年に千葉の浦安に引越します。堀江中、という舞浜と浦安の中間あたりの中学に行きました。

YF じゃあ、「漁港」の船長の近所だ!今度船長に堀江中の事を聞いてみますw。
それにしても、 けっこうあちこち動いてるんだね。映画とかは見てました?

MS 子供の頃から、けっこう一人で映画を見に行ってた記憶がありますねー。映画館というより家から歩いて行ける公民館みたいなところでの映画上映です。地方では劇場公開作品もそういうところでやってたみたいで。でも基本,東映まんがまつりとかでしたけど。
ナウシカとかもそこで観た気がします。小学校高学年(宝塚時代)になると大阪までひとりで 電車に乗って映画館に行ったりしていました。TVでも映画ばっかりガンガン観てました。「スーパーマン」とかも初見はTVです。

YF なるほど、1975年生まれってことは、3歳の時、ハリウッドが長い70年代の冬の時代から脱却したのを象徴する「スーパーマン」が公開された・・・そうか、そういう世代なんだね。「スターウォーズ」は2歳、「未知との遭遇」も3歳あたりで劇場公開だから、幼稚園や小学校に上がって「コドモとしての自覚」がはっきりしてから、TV放映でそのへんの大作映画を見た世代。

MS そうですね。「スターウォーズ」は初見がいつだったか、よく覚えてないです。「ゴッドファーザー」とかも・・・劇場で見たのが最初だったのか、TVで見たのが最初なのかすらアイマイ。劇場で見た印象がはっきりあるのは、「E.T.」・・これはどこかのドラインブインシアターで見ました。あとは、小4の時の「ネバーエンディング・ストーリー」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、中学になってから見た「ダイ・ハード」・・・1988年ですね。

YF 中1の時の「ダイ・ハード」は強烈だったでしょう(笑)面白すぎで。

MS いやもう、本当に面白かったです。それからシュワルツネッガーの「コマンドー」を見てシュワちゃんの大ファンになりました(笑)

YF ものすごく健全な映画遍歴だね(笑)「Fragment」のクールなタッチとはまるで相容れないっていうか。俺は、この監督、フランス映画とかばっかり見て育ったヤツなのかな、とか一瞬思ったから(笑)    註:福田は別にフランス映画嫌いではありません

MS (笑)全然違います。凄く普通のエンタテインメント映画が好きでした。でも中学あたりからちょっと文芸寄りにはなりましたけど。ベルトリッチの「ラストエンペラー」は長いけど面白いなぁとか思った記憶があります。

YF ベルトリッチだったら「暗殺の森」は?

MS 19歳の時に見ました。もう随分オトナな頃。
かなり影響受けました。映像も素晴らしいんですが、シナリオの構成が完璧過ぎて。

YF 俺、「暗殺の森」、14歳の時に見ちゃったんだよねー・・・なんか、あらゆる意味でショックな映画で・・(このあとしばらく福田が「暗殺の森」について延々語る。Snip)

MS あとは「タクシードライバー」「レイジングブル」、イーストウッド映画・・一貫して「タフガイ好き」っていうのは変らなかったですね。黒澤映画も、「用心棒」「椿三十郎」とかが好きでしたし。
そういえば、いわゆるアイドルとかが好きになったことは一度もなかったですね。

YF 映画好きになっちゃうと、テレビに出てるアイドルなんかに気をとられてるヒマねーよ、って感じだもんね。いわゆる「映画オタク」の文系チューボー?

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MS いや、それが全然そうじゃなくて、体操部やったり、陸上部の部長だったりしました。いわゆる体育会系です。これは浦安っていう土地柄もあって、なんか、体育会系じゃないとナメられる、というか、そういう雰囲気がありまして。で、そうやって体育会系である事を主張しつつ、高校時代からは演劇部もやってました。

YF なるほど、アメリカみたいだな(笑)。今はどうか知らないけど、20年位前の普通のアメリカの高校だと、体育会系じゃない男はとにかくみんなタマナシ扱いだったから、仕方なくホッケー部に在籍しつつ音楽やってた、っていう友達がいる。まあ、その結果、文武両道になるっていうのか、なんていうのか・・でもなんで「演劇部」だったの?

MS 当時の千葉県って「演劇大国」って言われてまして、学生演劇が凄く盛んだったんですよ。だからなんと言うか、バンドを組むみたいに劇団を組んでました。演劇部で出たコンテストで知り合ったメンバーと、新しい劇団を立ち上げたり。

YF なるほど確かにそれって、バンドでよくあるパターンだね。しかし「バンドを組むみたいに演劇をやる」っていう表現は初めて聞いた(笑)

MS 立ち上げた劇団で野田秀樹のコピーとかやってましたしたしね。

YF 俺らの頃のバンドもんが文化祭でパープルのコピーとかしてたのにモロにカブる(笑)。映画は撮らなかったんですか?

MS 高校三年の文化祭に向けて「秋はほおばれ」っていう、遅刻しそうになった男子二人がひたすら爆走する10分の映画を撮りました。

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YF  へえ、10分にまとめたんだ!それはエラいなあ。普通、長くなりがちだけど。

MS このころから、徹底的にムダなもの、イコール、カッコ悪いものをそぎ落としたい、って思ってました。シナリオも、スタローンがロッキーのシナリオ3日で書いたんなら俺にも書ける!と思って書いて、俺はこの映画、いつか劇場でかけてやる!と思いながら上映して(笑)、実際に一昨年下北の映画館でイベントの一環で上映しました。

YF おお、初志貫徹!ということは、高校時代に完全に佐々木誠の「映画志向」が出来上がったわけだね。それで高校卒業後は映画の道へ?

MS はい。日経新聞の奨学金制度を利用して、西麻布の新聞配達所で住み込みの配達員をしながら、赤坂にあった「東京映像芸術学院」という専門学校に通いました。今はもう、この学校無いんですけど。

YF 在学中は具体的な作品を作りました?

MS 授業の一環で撮った映画でよく覚えているのは「アート・ミーツ・カルチャー」というヤバいタイトルの作品(笑)。僕の友達のすごくパンクな女の子に茶道を習わせるドキュメンタリーでした。

YF 面白そうだなー。卒業後は?

MS専門学校在学中に先輩の白尾一博さんという実験映画の監督さんと知り合って、仕事を手伝うようになりました。白尾さんはコーネリアスなどのPV撮影監督、最近では2005年に「ヨコハマメリー」のプロデューサーと編集をやった方です。

YF 「ヨコハマメリー」!見てないんだよねー。ずっと気になってる作品なんだけど。

MS その白尾さんが99年(制作は97年)にカメラで参加したあがた森魚さん監督の「港のロキシー」には、僕は助監督と役者として参加してます。

YF ずっと白尾さんと一緒に仕事を?

MS まあ、事あるごとに、という感じですね。ベタでついていた、という事では全くないです。この頃は仕事じゃないですけど、西麻布の「イエロー」が住み込みしていた新聞屋から歩いてすぐだったんででものすごくよく行って遊んでて、VJの真似事みたいなことも一度くらいしました。

YF「イエロー」!久々に聞いたなーその名前。福田の友達のDJもイエローで回してました。いわゆるクラブカルチャーが日本に定着しつつある時期だね。

MS ですね。この当時って、ある意味、なんでもありな感じで楽しかったです。そのあと、SONYのSDでPVの制作をやるようになりまして、いろいろ参加しました。でもあくまでもいわゆる職業人として参加していて、自分の中には「激しく表現したいモノ」がないなあ、とずっと感じてました。

YF その感じ、よく分かる。俺もずっと音楽を仕事にしてやってきてるけど、純粋に「音楽を通じて激しく表現したいもの」って自分の中にないんだよね。これって音楽やってる人間としては明らかに間違ってると思うんだけど、そうなんだから仕方がない。よく、福田さんは自分のライブやらないんですか、って聞かれるんで、「トークライブ」ならやってますって言うとヘンな顔される(笑)。

MS (笑)だからいわゆる自主映画を撮ろう、というような気持ちは全くなかったんです。映像関係の仕事はあくまでもメシを食うためのスキル、という考えで。

YF なるほど・・・・でもそれが、「あの事件」で一気に変った、と。

つづく

2010/6/13

佐々木誠監督 ロングインタビュー 再開 2!  インタビュー
MS はい。2001年当時、僕は渋谷のクラブとニューヨークのクラブを双方向映像でつなぐ指輪ホテルの「Long Distance Love」というイベントに関わっていて。その初日が9/14だったので、9/11は渋谷のクラブでリハーサルをやってたんです。そしたら、弟から突然電話がかかってきて「ニューヨークが大変なことになってるぞ!」って言う。何のことか全然わからないまま回線をつないでいたら、ニューヨークサイドはパニックになってて。渋谷に集まっているスタッフは呆然としてその様子を見ていた。僕はその時、これは生まれて初めてかも知れない、というほどはっきりした自分の意志で、呆然としているスタッフにビデオカメラを向けたんですよ。自分の目線でこの状況を記録しなくちゃ、と初めて思った。

YF まさに、意志とスキルが一致した瞬間だね。その瞬間を体験できたことは凄いことだと思う。明らかにそれが初期衝動となって「Fragment」に繋がったよね。

MS そうですね。最初、井上実直をメインに映画を撮ろうと思ったときに、このクラブでの衝動がそのまま生きていたかどうかは、そんなにはっきりはしてないんですが・・・当初は単に、友人だった井上実直から、100日大荒行っていうのに行くからその記録を撮ってほしいと頼まれたんです。なんでそんなキツそうなものに参加するの?って尋ねたら、それはニューヨークでグラウンドゼロに行ったことがキッカケだったと。

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それで、彼を軸に「9.11」の断片(フラグメント)を撮ろう、と思って撮り始めました。けっこう軽い気持ちというか、そんな感じで撮り始めたんですが、2002年に撮影を開始した後、実直がどんどん変って行った。どんどん「僧侶」になっていったんです。それで映画もどんどん変っていった。実直は、完成したものがこういう映画になるとは思っていなかったようですけど。

YF 「Fragment」は2002年に撮り始めて・・・

MS 2005年まで撮ってました。足掛け4年ですね。

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YF すごい持続力だね。その持続力こそが明らかにこの映画に説得力を与えてて。実直くんが僧侶になっていく・・宗教者になっていくリアリティがすごい。俺がこの映画がドキュメンタリーとして優れてると思うのは、佐々木誠と言う監督が4年もの長い時間の間、最初から最後までシンプルな記録者であり続けてること。徹底して観察者でしかないこと。自然現象をそのまま撮ってるみたいなスタンスを崩さないこと。カメラを回してるのも佐々木くん本人なんだから、映画が「こっち側」に翻るのは凄く簡単なんだよね。でもそれをやってない。ナレーションも入れない。音楽も一切使わない。そしてそれは「作為の隠蔽」という猛烈な作為で、もっとも意思的な作家的選択だと。

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だから、俺としては、この作品に対して「作者の意志が見えない」って言う人は、根本的に見誤ってると思う。逆だよね。語らないことそのものが意志でしょ、この映画は。でも、最初に言ったとおり、カメラが投げかけてる視線はちゃんとエンタテインメントの視線なんだよ。編集のスピード感もね。とてもユニークだよ。この映画が「ドキュメンタリー」としてちゃんと評価されてないっていうのは悲しいね。

MS 正直、あらゆるドキュメンタリー映画祭で全く評価してもらえなかった時は、もう映像と関わるのはやめようか、と思いました。でもその後、すこしずつ、理解してくださる人が増えてきて、アップリンクファクトリーでは1年以上ロングラン上映できたり、と、なんとなくホッとしています。まあ、相変わらずいわゆる「ドキュメンタリー界」からは完全黙殺され続けてますけど(笑)。

YF いいよ、そんもんほっとけば(笑)だいたい、「なんとか界」なんてものにロクなもんはないんだから。「ロック界」だって、「王様」が出てきたときすげえ批判して黙殺しようとしたんだよ。俺は王道やってるのに、あいつはなんだ、みたいな。あんなに「ロック」な男いないのに、外面しか見ない。困ったもんだ。まあさすがに今、「王様」を批判するヤツなんかいないだろうけどね。実際、当時「王様」批判してたヤツらって、もうほとんど音楽止めてる。あー、話脱線した。元にもどしましょう。この作品の、ある意味対極にあるのが、短編「マイノリティとセックスに関する2,3の事例」。俺は最初にこっちを見たでしょ、で、このタイトルを見て、あ、こいつフランスなのかと(笑)ゴダール野郎かと(笑)

MS(笑)確かに20歳頃はゴダールやアントニオーニにもハマりましたけど。
あ、あと、いきなりですが、当時、井口昇監督の自主映画「わびしゃび」には感動しました!

YF あれはほんと名作だね〜。大林宣彦監督なんか、この映画は世界映画史上の事件だってまで言ってる(笑)。それは大袈裟にせよ、あんなにストレートに心を打つ映画はほんとに少ない。今の時点で見て感動するんだから、世代の近い佐々木さんとかがほぼリアルタイムで見たのなら、そりゃあやられるよね。やられる、をキーワードに強引に話を元にもどすけど、この「マイノリティとセックスに関する2,3の事例」って、ホント、だまされたんだけど、フェイクドキュメンタリーなんだよね?

MS そうです。

YF そう言われればそうか、と思うけど、作り方がうまいよね。やられた。ダマされた。でも、あのモンマさん、という人はホンモノでしょ。

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MS ホンモノです。でも彼女はニセモノ。

YF ダマされた〜!彼の存在感とリアリティが凄いから、全部が本当に思える。

MS そうなんですよ。僕はこれで、ドキュメンタリーなのかそうじゃないのか、みたいな、「ジャンル」という考え方そのものへの懐疑というか、そういう感情を表現したかったんです。真実と虚構の境目なんて、実は誰にも分からないでしょ、みたいな。

YF そこに写っている人間はホンモノだけど、それははたして「取材対象」なのかそれとも「役者」なのか。でもほんとはそんなことはどうでもよくて。この作品で言えば、「身障者の人のセックスライフ」や「映画作家のナンパの先にあるもの」が語りかけてくるなんとも言えない奇妙な「世界のリアリティ」が重要なんだよね。

MS そうですね。僕は基本的に人に興味があって、とにかく人にカメラを向けたい。ドキュメンタリーであるか、ないか、は問題じゃない。今は、実質的に「マイノリティとセックスに関する2,3の事例」の続編を作っています。

YF 期待してます!

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2009/3/24

佐々木誠 ロングインタビュー01  インタビュー
3/16。前回の氏へのインタビューからちょうど一ヵ月後。2月末から3月初旬にかけてアメリカ ロサンゼルスの南カリフォルニア大学の招きで「Fragment(フラグメント)」の上映とティーチインを行った佐々木誠氏(以下、MS)と再会。

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いわゆるインタビュー記事の構造としては極めて異例だが、「Fragment(フラグメント)」という作品の内容、佐々木氏の履歴などを語る前に、まずは現状、この作品そのものが「いま」置かれている状況そのもの、についてのインタビューを掲載したい。
そのため、佐々木氏に関するさまざまな来歴や出来事が「既知のもの」として会話が行われている場合が多い。あきらかに不明と思われる部分については最低限の注釈を補すが、詳細に関しては今後の「遡って」のインタビューで補完していただければ幸いである。

3/16

YF:おかえりなさい。どうでしたか、アメリカでの「Fragment」への反応は。

MS:とてもよかったです・・と言うか、自分が想像していた以上に正確に見てもらえたし、深いところまで見てもらえたっていう感じがありますね。

YF:それは素晴らしい。今回の招聘はそもそもどんな経緯で決まったんですか?

MS:USC(南カリフォルニア大学)で日本文化論を教えているローリー・ミークスという教授・・・ものすごい美人の教授なんですが(笑)、彼女がたまたま渋谷のアップリンク(註:「Fragment」の上映館)で「Fragment」を見てくれたのがキッカケです。

YF:なるほど、日本文化論を教えてる人だったら反応するよね、この作品には。上映は教室とかで?

MS:いえ、USCにはすごい映画館がありまして、そこで。

YF:映画館があるの!?大学の中に?

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USC構内にある映画館の正面玄関。

MS:そうなんですよ。スピルバーグとかそのへんの大物映画人の寄付で作られたらしいんですが(福田註:かつてスピルバーグはUSC志望だったが、学業成績が芳しくなく入学できなかった)、ほんとうに立派な劇場でびっくりしました。でも、「Fragment」の上映の日が、アカデミー賞授賞式の日だったんですよ。

YF:うわあ、そりゃキツい(笑)

MS:(笑)ですよね。これは絶対お客さんなんか来てくれないだろう、ガラガラだろうと思っていたら、なんと300席が全部埋まって満員でした。

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YF:すごい!そりゃあ嬉しかったでしょう。客層はどんなでした?やっぱり白人が多かった?

MS:いえ、東洋系、ヒスパニック系、白人、黒人・・・人種入り乱れてました。黒人の数は多くなかったですが。

YF:理想的な状態じゃないですか・・・福田は、アカデミー賞授賞式って、なんだかんだ言ってもやっぱり「所詮は白人のお祭り」って感じがしてるんで、映画のイベントとしては明らかにアカデミー賞に勝った感じ?(笑)観客の反応は具体的にはどうでした?ここは明らかに日本とは違うな、みたいな部分は。

MS;そうですね、僕が意図的に笑いを取ろうと思って入れた部分にすごくストレートに反応してくれていたのが嬉しかったですね。例えば、井上実直が100日荒行に入る前に、食べ収めみたいにいろんなケーキをパクパク食べまくっているシーンとか、ニューヨークで僧衣を着た実直くんと井田さん(註:「Fragment」で井上実直氏とともにグランドゼロで祈祷を行う僧侶)が、「パフォーマンスと間違われないないだろうな」とブツブツいいながら歩いている姿なんかが素直にウケてました。

YF:上映後のトークも盛り上がりましたか。

MS:映画学科の教授や、宗教学の教授たちとトークして、とても深い話になりました。映画学の教授が、「Fragment」というタイトルはつまり、さまざまな断片を集めて世界を再生していくという意味なんだね、と言ってくれて、これは僕にとってはいい意味で予想外の表現で、なるほどそういう捉え方もあるんだな、と。ただ、会話はあくまで通訳を介しているので、思っていることを全部は話しきれなかったし、多分、教授のみなさんの話も通訳のかたが全部は訳しきれていなかったと思います。

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YF:でしょうねえ。で、この上映会のあと、さらにオファーがあった、と。

MS:ええ、USCでの上映を見てくれたカルフォルニア大学の教授の招きで、後日、カリフォルニア大のサンタバーバラ校とリバーサイド校の2校で、2007年制作の短編の「マイノリティとセックスに関する2、3の事例」を上映しました。この時は、それぞれ50人ぐらいずつに見てもらいました。この時のリバーサイド校の教授は、もう日本語ペラペラなんですが、彼はこの映画の素晴らしい理解者でした。「きみの映画は、ハイパーテキストだね」と言ってもらえたのが凄く嬉しかったですね。

YF:ハイパーテキスト。

MS:ええ、つまり、作品のどの部分からもなんらかのテキストが取り出せる、どのシーンにも問題提起がある、ということらしいです。これは嬉しかった。

YF:素晴らしい褒め言葉だねー。的確に佐々木誠作品の本質を突いてるって言うか。
例えば「Fragment」って、作品の中心に描いている対象、要するにそれは「井上実直」という人物なんだけど、彼に対して、徹底的に客観的だもんね。常に一定の距離を置いて、その距離感が最後の最後まで変わらない。その客観性、クールさにおいて、とても正確に、「客観的に」意味が切り出しやすいんだよね・・・これが、ガァっと主観的になっちゃうと、その瞬間にテキストも変容して、問題の中心点がブレる。異質なものが出てくる。

MS:でも、熱いっていうか、そういう部分がなさすぎる、ってよく言われるんですよ。だからなのか、この作品、いわゆる「ドキュメンタリー映画」界からは完全に無視されています。

YF:え?本当に?

MS:はい、いわゆる黙殺、に近い状態ですね。結局のところ、この映画でおまえは何が言いたいんだ、と、よく言われます。

YF:要するに、なにも結論が出てないじゃないか、って事?うーん、それは困ったなあ。この映画、音楽もナレーションも一切入れずに、ただ淡々と事実だけを追っていって、最終的にはいわゆる「結論」を何も出さない。見た人に全部をゆだねちゃう。それこそがこの映画のドキュメンタリーとしての面白さだし、誠実さだと思うんだけど。

MS:そういう風に見てくれる人とそうでない人が真っ二つ、ですね(笑)。例えば、いわゆる映画関係の人には、評論家含め、結構否定的に言われる事が多くて。逆に、デザイン系とか、福田さんみたいに音楽系のかたからは、評価していただくことが多いんです。
僕自身は、この作品を撮るまで、いわゆる「ドキュメンタリー映画」というものを作ろうと思った事は一度もなくて、一番好きな映画は実は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんですが(註:佐々木氏の映画作家としての志向性に関しては、別のインタビューを後日掲載する)、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」って徹底的に主人公マーティに関して客観的なんです。実はマーティのクローズアップが一度もないとか、異色のハリウッド映画なんですね。マーティは常に「誰か」「何か」に影響を受けて物語がすすんで行くし、そもそも「主人公の心理」が描かれない。あのテンポに影響受けているのかなぁと勝手に思いました。つまり、「ドキュメンタリー映画」を作っているのに、エンタティンメントの王道みたいな映画から影響を受けてる、というあたりが、いわゆる「ドキュメンタリー」のカテゴリーからはじかれてしまう一因なのかなあと。

YF:うーん、どうだろう。この作品が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の影響下にある、っていうのは、多分、作者にしか分からないことなんじゃないかなあ・・少なくとも、福田としては、前回佐々木さんから、いままで見てきた映画の履歴とか好きな映画についてのお話を聞くまでは思いもしなかったことだったし。むしろ、テーマの設定の仕方とか、そういう事で引っかかってるのかも。例えば、今まで、映画評論家とかに、仏教の坊さんをアメリカに連れてく、っていうテーマ設定がそもそも安易だ、とか言われたことない?

MS(笑)ありますねー。結構、そういうノリはあります。

YF:やっぱりなあ・・・なんだか、絶望的になるね。「アメリカに坊さん」で何が悪いんだろうなあ。問題は、そこから何を語ろうとするか、その意思であってね。日本人って、方法論にかまけて本質を見失うっていうか、方法論の評価が先で、その先は知らん、みたいな事を言っちゃう傾向がある。福田は、そうじゃねえだろう、と思うんだよね。アメリカ人のほうがストレートに物事を見る部分が明らかにあって、「Fragment」に関しては、そういう見方をしないと見えてこないものがたくさんある。そういう意味では、日本でよりアメリカを含め、海外でのほうが、「正しく」評価してもらえるかも知れないね。今後は、アメリカでの更なる展開、みたいなことは考えてるんですか?

MS:まだ特に具体的な話はないんですが、今後もこの作品を持って海外に行くことはあると思うので、とりあえず今は、英語をもっとちゃんと勉強しておくかと。やっぱり、通訳ごしだ限界がありますからね。

つづく



2009/1/12

五十嵐公太 ロングインタビュー02  インタビュー
■この記事は、読みやすさを考慮して、下方向にスクロールしていくと追記分が現れるように構成されています■

YF:それでは、ここからがインタビュー本番です(笑)。
普段は全然聞かれないような事とかも聞きますので、よろしくです。
まず、「五十嵐公太」は本名ですか。

KI:本名です。

YF:カッコいい名前だなあ・・誕生日は?

KI:1963年、1月17日。山口百恵と同じ誕生日です。まあ、だからなんなんだ、って感じですが(笑)。あと、実は坂本龍一教授も1月17日生まれだそうです。これまたあんまり関係ないですけど。

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■1964年 五十嵐公太1歳■

YF:(笑)血液型はなんでしょう?

KI:O型です。

YF:O型・・・・じゃあ、ステージであんまり緊張とかしない?

KI:いや、しますねー。

YF:する!?なんかA型の福田から見ると、O型のミュージシャンは緊張しない、っていうイメージがあって・・・・浜田(省吾)さんとか、小島(良喜)っていうピアノ弾きとか。あとB型も本番に強いっていうイメージ。サンちゃんとか、河合(パッパラー河合)とか。俺は、いつどんなステージでも、お前何年ミュージシャンやってんだよ、っていうくらい緊張しちゃって。毎年やってるAAAの武道館でも、単なるバックバンドなのに、すげえ緊張する。その結果、思ったことの7割しか出来ない。

KI:同じですねー。僕もそんな感じですよ。物凄い緊張しいです。

YF:そうなんだ!それはけっこう意外だったなあ。嬉しいって言うか、なんて言うか(笑)さて、もしよろしければ、お父上のご職業を教えてください。

KI:父親は弁護士です。で、祖父も弁護士・・・

YF:弁護士一族!?なんというか・・・優秀な家系だねえ。ご兄弟は?

KI:姉が一人と、双子の妹弟がいます。この妹弟は上の二人の「ハズレものぶり」を見て育ったせいか今は固いサラリーマン&主婦ですが、姉はコントラバスをやっていて普通に女子大を出てからいきなり芸大に入りなおして、そのあとアメリカのジュリアード音楽院に留学して、いまはアメリカで活動をしてます。僕自身は、何故か、姉が優秀な演奏家だ、っていう認識はあんまりないんですが・・・僕が聴いていない時にはちゃんとうまいらしい(笑)。

YF:身内の評価ってシビアだなあ(笑)。それにしても、長男長女がともにアーティストっていうのはすごい。どんなご家庭でした?

KI:よく覚えているのは、とにかく祖父が人を集めてワイワイやるのが好きで、お正月やお盆なんか、もう家に何人お客さんがいるのか分からないみたいな状態で。多分、50人くらいのお客さんが来てて、麻雀の卓がたくさんあって、そこらじゅうで麻雀やってる、みたいな(笑)。

YF:にぎやかなお家だったんだねえ。そういう明るいおじい様がいる家の4人兄弟姉妹っていうと、そりゃまたさらにニギヤカだったでしょう。

KI:そうですね、どったんばったん入り乱れて育ちました。

YF:理想的だねー、それは。公太くん自身はどんな子供だったんですか。

KI:うーん・・・・僕は小さい頃の事ってあんまり覚えてないんですよ。極めて普通、というか・・家ではおとなしくて、表ではけっこう活発だったかなあ。

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■1967年 五十嵐公太4歳■

YF:「逆・内弁慶」っていう感じ?

KI:そうですね。小学校の頃は野球少年でした。別にクラブ活動を一生懸命やってる、とかそういうのではなく、あくまで遊びの一環として野球が好きだった、っていう感じですけど。巨人、貴乃花・・もちろん先代のです、卵焼き、っていう、すごーく普通な感じです。

YF:初恋は?

KI:小学校3年。荒木順子ちゃんという子が好きでした。

YF:しっかり覚えてますなー(笑)。

KI:あと、小学校5〜6年の頃は「フィンガー5」命、でした。姉や従兄弟の影響でちょっと「耳年増」な感じはあったんですが、とにかく「フィンガー5」は大好きで、レコードは全部持ってました。

YF:おー、音楽の話、来ましたねー。じゃあ、いわゆる音楽のファーストインパクトは「フィンガー5」。そういえば公太くん、AAAで「恋のダイヤル6700」やった時、すごく嬉しそうだったもんね(笑)。

つづく

2009/1/12

五十嵐公太 ロングインタビュー03  インタビュー
YF:中学に入ってからは?

KI:中二の時フォークギターを買って、普通にフォークソング歌ってましたよ。かぐや姫とか、風、とか、井上陽水とか・・・文化祭で歌ったりもしました。どうも、これは人づての情報ですが、一学年上の女子で結成されたファンクラブがあったらしいです(笑)。

YF:すげ!さぞ可愛かったんだろうなあ、きっと。バンド願望みたいなものはなかったの?

KI:当時、学校の友達と、ではなく、通ってた進学塾でバンドを組みました。塾には、普通にエレキギターやベースを持ってる子が多かったんです。

YF:進学塾って、お金持ちの子供が多かったってことかな・・

KI:そうなのかもしれません。で、空いていたポジションがドラムとボーカル。もともと楽器屋さんで見てドラムセットというものに興味があった事もあって、ドラムをやることにしました。

YF:別に強烈にやりたかった、というわけじゃなくて、空いてるポジションに収まったのがその楽器をはじめたキッカケ・・実は、プロになった人間にもけっこうありがちなケースだよね。ギタリストが余ってたから仕方なくベーシストになったとか。そういえば小島(良喜)も、ギターやりたかったけどジャンケンで負けてキーボードになった、って言ってた(笑)。ドラムはどうやって勉強したの?

KI:最初、姉の友人に習ったんです。その人自身がドラムを叩いてる姿は全く見たことないんですが・・・(笑)とにかく手取り足取り、教えてくれて。

YF:ライブは?

KI:数回リハーサルスタジオで音を出しただけで、終わっちゃいました。確か、「Apeng」っていう名前のバンド。

YF:ホントに幻のバンドだね。そのバンドがライブハウスに出て人気が出ちゃって進学どころじゃなくなって・・・っていうドラマチックな本末転倒はまるでなく(笑)、五十嵐公太の人生において、進学塾はあくまで進学塾として機能した、という事かあ。
当時、得意な学科は?

KI:英語・・いわゆる「受験英語」って言われるものは好きでした。英会話は今も苦手ですけど。数学は、数字を見るのもイヤでした。

YF:小・中学校と公立校で、高校も公立へ?

KI:いえ、私立の桐蔭学園高校に進学しました。

YF:うわ、名門受験校だ!男子校?

KI:はい。制服はツメエリ、校則はガチガチの、カタい高校です。今はどうか知りませんが、当時は公には「ポピュラー音楽禁止」。放送部は昼休みにロックをガンガンかけるんですけどね。とにかく「バンドをやってる」というのがNG。それだけで、進路指導の先生に不良というレッテルを貼られる、という・・

YF:古典的!うちの高校は、公立だったっていうのもあってだろうけど、とにかく凄く自由だったけどなあ・・(このあと、福田が、竹早高校時代の音楽教師・塩崎先生の話を延々する。snip)

KI:いいですねえ、そういう先生・・うちはとにかく「ロック」好きに対する締め付けがヒドかったです。法事で学校を休む、と届けを出しても信じてもらえなかったこともあります。でも、そういう環境でも楽器のプレイヤーはたくさんいて。

YF:締め付けがキツいほど燃え上がったりするもんだからね・・「ロック」をやる環境としては、竹早高校より桐蔭のほうが正しいのかも。うちの先輩有名人、5コ上の山下達郎さんだしなあ(註:山下達郎さんは「ロッカー」ではないという言外の意味、明確にありw)

KI:桐蔭には、「外道」の加納ヒデトさんがいますからね。

YF:すげ!加納さん、桐蔭なんだ!

KI:あと、僕の同期にデーモン小暮がいましたよ。

YF:小暮くんも!しかも同期!・・そうか、小暮くん、公太くんと同い年だもんね・・(このあと福田、公太氏と同学年の福田の弟が早大在学中、「聖飢魔U」のベースに誘われた話を延々とする。Snip)一緒に音を出したりはしなかったの?

KI:それは全く無かったですねー。当時は、小暮が音楽らしきことをやっているのは知っていましたが、向いていた方向があまりに違っていたので接点はゼロでした。 彼は、「音楽」は「パフォーマンス」のいち手段だと、この前も言ってました。卒業後、大学の時に電車で突然話しかけられたのを覚えてるんですが、その時、彼は『劇団ひまわり』にいるって言ってました。 SONYから「聖飢魔U」ってバンドがデビューするらしい、しかも、 桐蔭の卒業生がボーカルらしいよ、っていう噂が友だちからまわってきた時、 そのボーカルがあの小暮だとはまったく想像もしませんでしたよ。

YF:桐蔭学園側にとっては、小暮くんみたいな卒業生っていうのはどうなんだろうね(笑)。「誇り」なのか、「恥」なのか・・・少なくとも、桐蔭内に「悪魔礼拝堂」は出来ないだろうけど、ちょっと校長とかに聞いてみたい気もする。俺が校長だったら小暮君、卒業式の来賓に呼ぶけどなあ・・・話戻して、高校時代の「憎まれっこ」五十嵐公太の音楽活動は?

KI:一年生のときから三年生に誘われて、「外道」や「四人囃子」のコピーをやってました。バンドとしては、「ジョニー・ルイス&チャー」が大好きで。だから今回、ジョニーさんにインタビューできたのはほんとに嬉しかったです。まあ、とにかく、普通にロックバンドをやってるだけで学校では「ダメ生徒」の烙印を押されるもんですから、よけい勉強しないようになり、成績はガタ落ち。ホントに「不良」になっていきました。

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■五十嵐公太 18歳。なかなかに呪詛を溜め込んだ表情w■

YF:これまたよくある悪循環(笑)。でもそういう環境でこそ楽器の腕が上ったりもするんだよね。

つづく

2009/1/12

五十嵐公太ロングインタビュー04  インタビュー
YF:学校とは別にドラムを習ったりはしなかった?

KI:習いました。クラシックの先生にもドラムを習ったんですけど・・・なんて言うか、クラシックの教育って、ゴールを見せないじゃないですか。たとえば、ロックだったら、イアン・ペイス(註:「ディ−プ・パープル」のドラマー)とかを見て、うわーすげえ、こういうふうに叩きたい!みたいなお手本、ゴールがまずあって、そこに向かって必死に練習していく、っていうのがあるのに、クラシックの場合、とにかく、はい基本、グリップはこうで、こう叩いて、みたいな。コレが何の役に立つの?みたいな疑問だらけで。

YF:あるある、問答無用っていうか、押し付けっていうか。確かに基礎練習は大切なんだけど、日本のクラシック楽器教育っていうのは大抵、なぜ基礎が大切なのか、についてちゃんと説明しない。要するに、教育には教育を受ける側のモチベーションが大切、って事を理解してない・・っていうか、ハナから考えてないのかな。言われたことはとにかく言われたとおりやれ、みたいな。そういうノリに耐えられるやつだけが演奏上手になるんだとすると、音大ちゃんと出てるクラシックの演奏家にロクなヤツはいねえ、ってことになる。まあ、この意見、実際ある程度以上当たってると思うんだけどね(笑)。で、演奏家にならなかった場合には、音楽教師になっちゃうワケだから、音楽の授業が面白くないのはあたりまえ。

KI:そうですよねえ。で、僕はクラシックのドラムは1年くらいでやめちゃいました。もちろん、その時習った事が、今なんの役にも立ってない、とは思わないですけどね・・・高校二年生の時は、YAMAHAのEastWestのジュニア大会に出ました。1979年かな。

YF:シニア部門ではKODOMO BANDが優勝した年だね。決勝大会には?

KI:行けませんでした。でも、その後もずっとバンドは続けていて、武蔵大学1年生の時、4年生の先輩から「絶対勉強になるから」って言われて、生まれて初めて「お仕事」としてドラムを叩きました。米軍キャンプやお店をまわる、カントリーバンド。

YF:カントリーバンド!それはまた激しく「ロックじゃない経験」・・・

KI:そうですねー。まあ、要するにハコバンです。バンドメンバーは同じなんですが、日によってボーカリストがゲストで乗ったりする。この時は、「主役」であるボーカリストのパワーってすげえなあと思いましたね。けっこう威張ってるというか、ワンマンというか、そういう人が多くて、ワザと裏拍から歌いだしたりするんですよ。要するに、イントロのサイズ(註:長さ)なんか関係ない、俺が歌いだしたらそこが頭!みたいな・・・

YF:ひー、当時のカントリー業界とかってそういうオヤジ、いそう。やられたほうはたまらんなー。でもそれって、ワザと裏拍から歌ってるんじゃなくて、単にそうなっちゃってるだけじゃないの?(笑)

KI:かもしれないですけど(笑)。でもとにかく、今の自分のドラムに、あの時の「カントリービート」がどう役に立っているのかは分からないんですが、少なくとも、臨機応変さ、みたいなものは身につきましたね。

YF:確かに「勉強」にはなった、って事だね(笑)。経験値アップ。どのくらいの期間やってたの?

KI:1年半くらい。給料はちゃんともらってました。その後、大学4年の時、EastWest出身の「十二単」(じゅうにひとえ)っていうバンドに参加して、全国ライブハウスツアーに出ました。もちろん全部クルマ移動です。

YF:おー「十二単」!確かEastWest82出身じゃないかなあ。久保田利伸がベストボーカリスト賞取った年・・・それで覚えてる。キーボード、三国くん(註:三国義貴氏。ハードロック系キーボディストの第一人者。ちなみに華子のファースト、セカンドアルバムの作詞をした羽音さんは、三国氏の奥様)だよね。そうかあ、公太くん「十二単」で叩いてたんだ・・・あのバンドって、結局デビューは?

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■「十二単」時代の五十嵐公太(左後)。寝転がっているのが三国義貴氏■

KI:しなかったんです。出来なかった、というか。で、「十二単」での活動を経て強烈に思ったのが・・・「バンドで売れるっていうのはムリなんだ、不可能なんだ」という事で。

YF:キビしくも正しい認識を持ってしまいましたなー、若いのに(笑)。でも確かに、そうなんだよね。バンドで売れる、って事はホントに「奇跡」、普通、絶対ありえないんだ、と、俺は今でも思うもの。これって、この業界にいないとなかなか分からない。みんな「売れちゃった結果」しか見てないわけだからね。実際は屍累々、というか・・屍すら殆ど残らない。

KI:ですよね。で、僕は、最終的に「十二単」が解散したあとも、ドラマーとして仕事が続けたくて、ダディ竹千代さんの事務所にお世話になって、坂上忍のバックをやったりしてました。

YF:公太くんがダディさんと接点があったのは知らなかったなあ・・・業界、狭い。で、その後は?

KI:1986年に「TV」(ティヴィー)というバンドにドラマーとして正式加入しました。

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■「TV」時代の五十嵐公太(1987年撮影)■

YF:そうだ、「TV」!公太くんが「TV」にいたって話、前にちょっとだけ聞いて、俺、妙に盛り上がった事があったよね。あれは何故かと言うと・・・・「TV」って、もとはEastWest83のグランプリバンドの「幼稚マンco-Limited」でしょ、筑波大学のバンドで、ギターが葛城くん(註:葛城哲哉氏。TMN、浅倉大介などの名サポートギターとして名高い)。実はEastWest83の決勝大会って、俺、審査員やってたのね。で、「幼稚マンco-Limited」、すげえカッコいいんだけど、なんか出来すぎてて、場慣れもしてて、ちょっとムカつくから落とそうかって他の審査員と話してたんだけど(笑)、結局、ダントツにカッコいいからしょうがねーか、うん、しょーがねー!!ってことで、グランプリになったんだよ。

KI:そうだったんだ(爆笑)。

YF:そうそう、コンテストの審査なんてそんなもん(笑)。でも実際、面白いバンドだったよねえ、「TV」。1986年に公太くんが加入した時点では、「TV」はすでにセカンドアルバムを・・?

KI:そうですね。僕はセカンドミニ・アルバム(Charプロデュース)のレコーディングから参加しました。メーカーはポリスター・・このアルバムが最後のアナログレコード盤で、次からCDになって(註:1986年〜1987年は、アナログ盤からCDへの移行期)、その後何枚か作りましたけど、結局あまり売れずに、1989年に解散しました。で、またもや思ったわけです、「バンドってやっぱりダメだ、売れないんだ」って・・・。

つづく

2009/1/12

五十嵐公太ロングインタビュー05  インタビュー
KI:この時が26歳で、その後2年半、「ザ・ハート」というバンドのサポートドラムをしたり、「ジェラルド」っていうプログレバンドをやったり・・・いろいろやりました。で、29歳になった年に、それまでいろいろなところで顔見知りだったベーシストの恩ちゃん(註:恩田快人氏)から、彼のソロプロジェクトを手伝って欲しいって言う連絡があったんです。函館でいいボーカルの女の子を見つけたので、彼女をボーカルにしてバンドをやりたいと。

YF:それがJUDY AND MARY。

KI:そうです。でも、いざ始めてみると、全然僕のやりたい音楽じゃなかった。僕自身、もともとビートパンクとかパンクが大キラいだったんですよ。

YF:「ジョニー・ルイス&チャー」が好きだったんだものねえ・・それは分かる。俺はパンク、大好きだけど。ビートルズとピストルズ、どっちか選べって言われたら、迷わずピストルズ。

KI:(笑)初期のJUDY AND MARYは見事にビートパンク、こう、グシャーっというか、全部ダンゴな音。これは自分としてはとてもじゃないけど続けられない音楽なので、やめたい、と恩ちゃんに言ったんです。いったん彼は、それなら仕方がない、と納得してくれたんですが、しばらく経ってまた、いっしょにやらない?って。「バンドは売れないから!」って2回目も断ったんですが、最後はSMS(註:ソニー・ミュージック・スターズ)の社長さんまで引き連れて来て、是非頼みたい、と。仕事としてもちゃんと成立させるから、是非、と言う。最終的には押し切られる形で参加することにしました。1年くらいやって売れなくても自分の人生そんな変わらないだろう!って思って。デビュー前はホントに頼まれ仕事感覚だったので、なんかのアルバムでアニー・レノックスがやったみたいに、メイクで目を隠したりしてます。

YF:そうなんだ!

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■初期のJUDY AND MARYで「目隠し」した五十嵐公太(後ろ中央)■

KI:最初の頃はJUDY AND MARYの音を両親が全く認めてくれなかった事も辛かったですね。なんなんだ、あれは、みたいな感じで。そんな感じで悶々としながらライブをやっていたんですが・・・・ある日、ライブが終わった時、恩ちゃんがこう言ったんです。「公太クンはYUKIちゃんの後ろでドラムを叩いてるバックバンドの人じゃないんだから、もっと精神的にバンドに参加してくれないか。」って。その言葉は響きましたね。反省しました。自分の好きじゃない音なら、好きな音に近づければいいじゃないか・・って。そこから、積極的にバンドの音作りやアレンジにも参加するようになりました。

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■1992年当時■

YF:完全に「吹っ切れた」のはいつごろ?

KI:JUDY AND MARYを始めて3年経って、1996年に初めての武道館ライブが成功した時ですね。

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■1997年当時■

YF:不思議なもんだよねえ・・・ずっと「バンドなんて売れるワケがないんだ」と思ってやってきた人が、「これはとても続けられない」と思ったバンドで大成功。まさに「奇跡」のど真ん中に入ったわけだよね。これだから人生は面白い。で、そのあとはずっと飛ぶ鳥を落とし続けて・・・・客観的にはかなり突然の活動中止。

KI:2001年3月の東京ドームで解散でした。 実際はそのあともドームのDVDの編集はしてましたけど。(笑)

YF:「解散」の理由は?・・福田はいわゆる「発展的解消」だと理解はしてるんだけど・・・

KI:あの時点がまさに「限界」だったんです。アルバムを一枚作るごとにすり減っていった感じで・・・・とにかく休みたかった。1999年に活動を一旦休止したものの、実際にはゆっくりさせて貰えなかったし。最後は、「解散」をエネルギーにしていたかな・・・アルバム作るたびに、「もう解散、もう解散!」って言ってましたから(笑)。

つづく

2009/1/12

五十嵐公太 ロングインタビュー06  インタビュー
YF:武道館のAAA(Act Against AIDS)に始めて参加してくれたのが、確か1999年・・?JUDY AND MARY、いったん休止の年だよね。あの時は、ホントに助かったんですよ。いまさらのように大感謝!!あのイベント、それまでずっと爆風スランプでハウスバンドやってたのに、末吉(ファンキー末吉)が「福田さん、あとはヨロシク!」って北京に行っちゃって(笑)。ドラマーを探すところからはじまって・・ミキヤ(註:立井幹也。福田がサウンドプロデュースを手がけたバンド「SLAP STICKS」のドラマー。)にやらせようと思ったのはいいけど、なんせまだ若くて頼りない。まだ26歳だったしね。そこへ和佐はん(バーベQ和佐田)が、「ジュディマリの公太がやってくれるって言ってます」って・・・じゃあ、いっそミキヤとツインドラムでやってもらおう、と。自分の中ではけっこう芯食った企画だったんだけど、ドラマーとしては、ツインドラムでやる、と聞いたときはどんな気持ちでした?

KI:おもしろそう!ってすごく楽しみでしたね。 実際にやってみた時も、ミキヤとふたりでいろいろ分担して決め込んで、フレーズやアクションを合わせたりしてオモシロかったですよ。

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■1999年12/1 武道館AAAで立井幹也と。■

YF:実は、リハで2人で叩く姿を見るまではけっこうドキドキしてたんだよね。公太くんに「こんなヤツと一緒に叩けるかーい!」って言われたらどうしよう、みたいな。もちろんミキヤは決してヘタなドラマーじゃない・・って言うか、十分素晴らしいドラマーなんだけど、それでも公太くんに比べたらキャリアとレベルがまるで違うから。それが、すごく協力的にやってもらえて、うわー、五十嵐公太っていい人だー、と(笑)。

KI:(笑)最近、時間が無くて、アクションの決め込みとかがやれてないんですよ・・・残念だなあ。なんにせよ、最初は、ミキヤ、若い!って思った(笑)。初の武道館本番、オープニングの曲でクチビルかみしめすぎて血まみれになってたのは忘れられない(爆笑)。でも、年々上手くなっていくのには驚きです。 しかも、ビートが気持ちいい。

YF:あいつ、実際、いいドラマーなんですよ。音楽性がとても高い。今後もヨロシク面倒みてやってください。さて、ドラマー五十嵐公太の今後は。

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KI:そうですね・・・なんと言うか・・・まず、僕は「名刺の肩書き」みたいなアイデンティティがキライなんですよ。例えば、「ジュディマリのドラム」っていう「肩書き」・・・よく人に「公太さんは下積みが長かったですからね」って言われるんですけど、僕自身はそれまでやって来たことも「下積み」だなんて思ってなくて・・・・ずっと同じ「五十嵐公太」ありつづけてきただけ、と思ってるので。だけど、そこに例えば「ジュディマリのドラム」っていう「肩書き」がついたとたん、ジュディマリまでは「下積み」だった、みたいになっちゃうじゃないですか。これがイヤですね。とにかく僕はこれまでも、これからもずっと「ドラマー」で、自分の中の「ドラマー」と向き合っていきたい。今回のDVDを作ってみて、自分で見えてきたこと、がとてもたくさんありました。不明瞭だった部分がすごくはっきりしたと言うか。

YF:それはすごく分かる。こういう作品を作ることは、自分に対する強烈なフィードバックだもんね。俺はねえ、仁井山くんとのストリートセッションで、ストリート達人のワカゾー(笑)の仁井山くんに気おされて、バトルでフレーズが詰まっちゃう素直な公太くんがメッチャクチャ好きだなあ。あのシーンはほんと、最高。

KI:(笑)

YF:ああいう「不完全さ」、というか可愛さも、他のパートで見せる凄まじいテクニシャンぶりも全部ひっくるめて、五十嵐公太というドラマーだと。その自己確認作業の真摯さだよね、この作品のとても美しいところは。今後もこういう映像作品を?

KI:今、「全日本人ドラマー計画」という教則ビデオの企画を考えてます。ビ◯ー・ザ・ブート◯◯◯プみたいな作りにしたら面白いかな、と(笑)。

YF:それ面白い!!是非作ってください。ではそろそろクライマックスの質問へ(笑)。
食べ物の好き嫌いはありますか?

KI:美味しいものなら何でも好きです。 キライなものは美味しくないもの・・・これじゃわからないなあ。キライなもの・・・・キライなもの・・・・無いですね。ガッカリだなあ。 ひとつぐらいあってもいいのに・・・

YF:(笑)犬派、猫派? 

KI:時と場合によります。基本・・・・猫、かな。だから飼っているのは犬です。
犬を見ていてカワイイけれど、こうはなりたくない!って思います(笑)

YF:趣味は?

KI:クルマ好きです。とくにイギリスのクルマが。でも、最近はエコじゃないので電車に乗ってます(笑)。 あと、ここ何年か釣りにもハマってます。海で大きなサカナが釣りたい! まだ未体験なので・・・

YF:ではほんとうに最後の質問。音楽以外に好きな芸術ジャンルはありますか?
  
KI:役者には興味があります。どんだけ嘘つきなんだろう?って思います。
上手いウソツキになりたい。  


YF:なんか、それに関してはがんばってね、って言いにくい(笑)

おしまい

2008/12/20

五十嵐公太 ロングインタビュー Introduction  インタビュー
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YF=福田裕彦 KI=五十嵐公太

都内某所。喫茶店。

YF:今日はお忙しいところありがとう。わざわざインタビューをお願いしたのは、
ほんと、「ONE*NESS」に感動しちゃったので・・・

KI:そう言っていただけるとほんと嬉しいですね。

YF:ほんとうに、面白かった。こういうスタイルの「ドラマーのDVD」って、世界でも他に例がないんじゃないかなあ・・・。いわゆる教則ビデオじゃ全然なくて、DVD用に撮り下ろした、いろんなミュージシャンとのセッションの記録と、「ドラマーのドラマーに対するインタビュー」をてんこ盛りに収録した2枚組、トータル尺が3時間以上!すごくユニークだよね。そもそも、ミュージシャンとしてのソロプロジェクトが、CDじゃなくて映像作品、っていう事の意図は?

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KI:ぼくはもともとドラムっていう楽器は基本的に、非常にパフォーマンス的でビジュアル面が重要な要素を占める楽器だと思っていて。日本太鼓とかでもそうですけど、録音された音だけではその演奏の全体像というか、本当のよさが全然伝わらないじゃないですか。「叩く姿」を見てはじめて感動する、というか。

YF:うんうん、確かに。打楽器は、まず目で見て同時に耳で聞いてなんぼ、ってところがある。だから本当は、ライブがベスト。

KI:そうですね。

YF:で、ライブの次には、映像作品であるほうがいい、と・・・実に理論的だね。
こういう「ソロの映像作品」は初めて作ったんですか?

KI:ちょうど10年前、1997年末に、エピックソニーから「ジュディマリのドラムの人」っていう、まあ当時ですからVHSの「ビデオ」を出してます。

YF:そのタイトルいいなー(笑)。

KI:僕の実家は川崎なんですが、JUDY AND MARYをやってた頃、実家の住所がいろんなところからバレてまして。で、ある時、家の前の道路が川崎の花火大会の会場に向かって歩いていく人でごったがえしてて、何気に歩いてる若い子たちが、実家の前を通り過ぎる時、「ほらほら、これがジュディマリのドラムの人の家!」みたいな事を言ってたのが聞こえたんです(笑)。なんか、頭来るじゃないですか、その言われかたって(笑)。

YF:(笑)「俺はジュディマリのドラムのひと」じゃねーよ!五十嵐公太だよ!って!(笑)

KI:そうそう!頭にきたからビデオのタイトルにしちゃった(笑)

YF:オモロい!売れたでしょー、これは。

KI:ジュディマリ全盛期でしたから、おかげさまで。でも、今は廃盤です。
なので、ちょうどそれから10年だったタイミングで新作を、という感じですね。

YF:なるほどー。いや、「ONE*NESS」はね、内容も素晴らしかったんだけど、個人的に一番感動したのは、とにかく、まず、これはいい意味で言うんだけど、五十嵐公太っていう人は、自分をちゃんと愛せてるなあっていうこと。そうでなければこういう作品は絶対に作れない。で、その自己への確信と愛情の上に立ってなお、自分って何なのか、ドラマーって何なのか、音楽って何なのかっていう事を、物凄く真面目に、誠実に考えてるのがひしひしと伝わってくる。凄いですよ。これ、俺みたいにブレまくってる人間には絶対マネ出来ない。

KI:そうですか?(笑)

YF:うん。それだけは自信持って言える。そんな事自信持って言うなって感じだけど(笑)。このDVD作るの、時間かかったでしょ。

KI:そうですねー、1年半かかりました。2006年の10月に最初の、当時僕がサポートしてたバンド「Edo—REPORT」とのセッションを撮影して・・・・最後がラッパーの仁井山(仁井山☆征弘)くんとやったストリートセッション。2007年の6月。そのあと延々編集やらなんやらで・・・発売は今年の5月です。

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YF:とにかく、どの部分も物凄く丁寧に作られてるよね。セッションパートのドラムの音がすごくいいのはまあ当然としても、カメラの台数だってこれ何カメあるの?っていう感じだし、編集も緻密。26人のドラマーに対するインタビューパートも、ひとりひとり、全部違うシチエーションで撮ってるでしょ。ある人はスタジオで、ある人は野外で・・みたいに。下世話な言い方だけど、すごくお金かかってるよね。

KI:製作体制としてはあくまでインディーズなので、スタッフのみなさんにはけっこうボランティア的な事を強いてしまった部分があるんですが・・・それでも途中で予算が尽きて、仁井山くんとのストリートセッションは撮影できないかも、っていう状態でしたね。
インタビューのパートでは、僕が子供の頃からずっと好きなドラマー、ジョニー吉長さんのインタビューが撮れないかも、みたいなことになりかけました(笑)。

YF:あぶなかったねー(笑)。しかし、インタビューの企画、なんで五十嵐公太がインタビュアーなんだ?っていうのがまた面白くて。普通だったら、インタビューされる立場っていうか「地位」なのに。

KI:実は、インタビューの企画は、今回のDVDの映像ディレクターの横井さんというかたのアイディアで。ぼくは最初はけっこう否定的だったんです。インタビュアーなんてもちろん経験もなかったし。興味もなかった。

YF:そうなんだ!その横井さんっていう方は・・

KI:もともとはプロドラマ−を目指していて、挫折。一転してTV業界、しかも「電波少年」などのバラエティー制作に関わってて、V-DRUMS購入を機にまたドラム魂が復活して・・・今は「ドラマージャパン」というWEBサイトを運営されてます。「ドラマー」という存在に関するメディアってリットーミュージックの「ドラムマガジン」しかないんですよ。もっと「ドラマー」という存在についての情報を世の中に発信したい、広げたいっていうのが、このDVDの目的のひとつなので、そのためにはインタビューもやろうということになりました。

YF:なるほど。納得した。

KI:ドラマーって、存在が地味・・・・というか、世の中の普通の人たちには、
「具体的にどんな風に演奏しているか」があんまり理解されていないですよね。

YF:そうだね。どれがスネアでどれがハイハット、とかいう事すらも、実は結構知られてない。なんか、座っていろんなもの叩いてるぞ、っていうは誰が見ても分かるんだけど(笑)。

KI:だからこのDVDは、もちろんドラムを勉強してる人たちにも向けて作ってはいるけれど、最大の目標は、ドラムの演奏、というのがどういうものなのか、ドラマーという存在がどんな存在なのかを殆ど知らない人たちに見てもらって、ドラマーという存在自体を「底上げ」したい、というか。

YF:それはめちゃくちゃ成功してると思う。だって、このDVD見たら「ドラマー」がなんなのか、なにをしてるのか、が分かるだけじゃなくて、間違いなくみんな「ドラマー」っていう人種を見直すっていうか・・それどころか「ミュージシャン」っていう人種そのものを見直すんじゃないかな(笑)。なんかチャラチャラしたヤツらだと思ってたら、すげー真面目じゃん!って。

KI:チャラチャラした、っていうのは、確かによく言われますよね(笑)。

YF:でしょ(笑)。だいたいにおいて、我々はチャラチャラしてる、って思われてて、まあ、ある側面では事実チャラいんだけど(笑)、最近は、例のTKくんが追い討ちをかけてくれちゃったから、ミュージシャン、改めて相当イメージダウンしたと思うんだよ。TKくらい有名になっても、なんだ、根本的にはやっぱりすげえテキトーなんじゃないの、みたいな。でもこのDVDを見れば、とりあえず、ミュージシャンって基本は全然TKくんみたいな人種じゃないんだ、っていう事がめちゃくちゃよく分かってもらえるハズ。プロのドラマー26人が26人、みんな「自分がドラマーである事」に対してとにかく物凄く真面目で、でも、それぞれ全然違うこというのがまたメチャクチャ面白い(笑)。個人的には末吉(ファンキー末吉)と、トシオ:註1:(Soul toul)のインタビューが、知り合いだって事もあってすごく楽しめた。あと、つのださん(つのだ☆ひろ)ね。つのださんには、昔、よくオカルト話聞かされた:註2:んだけど、このDVDではすげえいいこと言ってるよね。思わず感動してしまった。

KI:実際にはひとり1時間半くらい撮影してるんですよ。そのうちのほんの数分、ここがいちばんその人らしい、というところを使ってます。

YF:なるほど、贅沢、というか、大変な労作だねえ・・・それにしてもどのインタビューも和気藹々としてる。公太くん、友達多いよね(笑)

KI:(笑)それは確かにそうなんですが・・かねがね思ってることなんですけど、ドラマー同士って基本、仲がいいんですよ。で、集まるのが好き。

YF:へえ、そうなんだ!

KI:そうなんですよ。つい先日も、元ミッシェルガン・エレファントのクハラカズユキくんが主催した「ドラマー飲み会」があって。誘われて行ってみたら、下高井戸の普通の居酒屋さんに、ドラマーが50人も集まってた。

YF:ごじゅうにん!?(笑)

KI:(笑)そう、50人。全部ドラマー。僕もビックリしました。なんかみんな、楽しそうに普通に酒飲んでるだけなんだけど。僕も実は明日、そういう飲み会の主催者をやります(笑)。<<<<

つづく!!

註1:Soul toul氏の本名。
註2:つのだ☆ひろ氏は、漫画家つのだじろう氏の兄弟で、霊感が強い(ほんとう)

2007/5/25

富永まい監督 ロングインタビュー Introduction  インタビュー
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今年2月に開催された「ゆうばり応援映画祭」で福田のツボを直撃した映画
「ウール100%」のDVDがいよいよクロックワークスから発売される。
この、文字通り「他に比較すべき作品がない」ユニークな傑作を応援するために、
(株)大頭ではDAIZ SHOPでの販売を企画、5/25の発売日から(きわめて少数ながら)販売を開始するが、そのプロモーションとして、富永まい監督に福田が直撃ロングインタビュー!
これを読めばおそらく、天才 富永まい監督の創作の秘密がだいたい11%くらいは分かる!
それ以上わかることは多分ない!でもひょっとしたらもうちょっと分かる(かも)!
そして、絶対「ウール100%」が観たくなる(はず)!
・・・なので、是非読んでね!!
(ちなみに、先だって掲載した小林未郁のインタビュー、島口哲朗のインタビューと同じく、各記事はページ頭から「下方向に」読んでいけばつながるように構成する)

〜日時 2007年5月8日   新宿某所〜

福田(以下、F):今日は、ほんとうにお忙しい中、ありがとうございます・・・
って、これ、ただのご挨拶用慣用句じゃなく、ほんとうにお忙しそうですね

富永(以下、T):そうですねー、暇な時は暇なんですが・・・
忙しい時はもうめちゃくちゃですね。でも、ひょっとしたら次はないかもしれない、と思って、
仕事が来るとついつい請けちゃいますね

F:クリエーターってみんなそうですよね(笑)。音楽関係も同じです。
それにしても、ご縁があってよかったです。ゆうばり(応援映画祭)の打ち上げの時、
僕が品田雄吉さんにお声がけしなかったら、こうはならなかったですから。

T:ほんとうですねえ

F:品田さんはそれこそ僕が中学校の頃、「スクリーン」とかを読み出して、その頃からばりばりに活躍されていた映画評論家の、まさに「重鎮」のかたですから・・・ゆうばりでお話できて凄く嬉しくて。そしたら品田さんが、今回の映画祭では何が面白かったですか、と尋ねてくださって。やっぱり「バベル」ですねー、とお答えして、そのあと、「ウール100%」がすごくよかった、と言ったら、「ほんとかい、実はあの作品は僕の生徒が撮ったんだよ!」と。富永さんは大学の時、品田さんの・・?

T:はい、多摩美で品田先生のゼミの生徒でした。このゼミは、みんなから「ごちそうゼミ」と言われてて、品田先生はほんとにお話が面白くて、で、案外下世話な話題も含めて、みんなでご飯食べながらハリウッド俳優の裏話を聞く、みたいな楽しいゼミだったんですけど(笑)

F:いいなあ、そういうゼミ、早稲田にはなかった(笑)。で、ゆうばりの打ち上げでは、富永さんが会場のどこかにいるはずだからって、ぐるぐる、会場をまわって探してくださったんですよ。5分以上も探してくださいました。いいかたですよねえ、品田さん。もう大感謝です・・・・というわけで、今日はいろいろとお話をお伺いしたいと思います。「ウール100%」みたいな面白い映画を作る人は、いったいどんなに面白い人間なのか、というのがテーマです(笑)。
どうぞよろしくお願いします。

T:こちらこそよろしくお願いします。


↓つづく


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