2005/11/28

蜜蝋キャンドル  雑感

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 そろそろキャンドルの光が似合う季節になってきました。炎の揺らぎは、何故かしら心に語り掛ける力があるような気がします。

 木造の粗末な家でちっぽけな薪ストーブを囲んでいた幼い頃の記憶の灯火は、今も欠かさないキャンドル生活に繋がっているような気がします。
 
 キャンドルの明かりと共に過ごす空間には、自らの心との静かな対話が生まれるのかもしれません。それは燃えて輝き、やがて失われていくという単純なメッセージを伝えてくれます。

 わずかな隙間風にも、敏感に揺れ動く様は、あたかも心の過敏さに繋がっているようです。或いは、ひとたび間違えばすべてを焼き尽くす炎の源にもなるという危険性をも含んでいます。

 ひたむきに飛び回り、花々の間を巡って集めた豊かな蜜。その蜂たちの住処を作る蝋。その巣の精密な作りは、生命体の神秘を見事に知らせてくれます。その蝋から取られる蜜蝋キャンドルの輝きは、さらに深い問いかけをしてくれるように思います。

 目の前にあるもの全体が伝えてくれるメッセージを受け止めることに注意深くなることができれば、これまでにはない語り掛けに気付くかもしれません。

 それを蜜蝋キャンドルを通して考えてみるのはどうでしょう。

 輝く夏の季節、甘い花々の香り、輝く太陽、爽やかな風。
飛び交う小鳥やミツバチ。そこから生まれた蜜蝋キャンドルが、目の前で暖かく柔らかな炎となって周囲を静かに照らす。
 
 その光の中に見えるものに目を凝らし、過ぎ去った季節を思い起こし、今を見つめ、そっと未来を思いながら過ごす時間。

 一本のキャンドルは、一日の命の象徴、或いは一週間、一ヶ月、一年、さらには一生の象徴のように揺らめきます。

 殊更に人生を論じたり、誇張する必要はないように思います。ただ、何となくキャンドルを灯して、移ろう心の流れをたどってみる空間から、感じ取ることがたくさんあるように思います。

 最近は自分へのご褒美、プレゼントという言葉を時折耳にするのですが、それが何か品物だったり旅行だったりすることが多いようです。品物も思い出も良いと思うのですが、自分を見つめる今という時間を是非リストに入れてみて欲しいなと思います。

 かつてはキャンドル灯して、お茶を飲んで、読書か音楽鑑賞か詩や日記を綴るという生活だったのですが、ラブフルートと出会ってから少し変化しました。ラブフルートを吹く時間、もしくはラブフルートを傍らに置いてみたり、磨いてみたりする時間が加わりました。
 柔らかく静かな音色がキャンドルの光と交じり合う空間は、優しさや慰め、そして深い力強さで満たされていくように感じます。

 蜜蝋キャンドルは少し高価なので、普段は一般的なキャンドルを使っているのですが、ちょっとした記念日や特別な事があるときには蜜蝋キャンドルを灯すと雰囲気が変わっていいものです。

 なんと言っても、自分と向き合う時間を大切にすることが人生を豊かにする土台のように思っているのですが、それを助け促してくれる一つのアイテムがキャンドルやラブフルートではないかと思っています。

 なかなか言葉に出来ない思いを照らし出してくれるキャンドルの炎、その思いを静かに奏でるラブフルート。素朴な空間から、新たな力を見つけ出す貴重なサイクルを今年のクリスマスプレゼントにして自分に届けてみるのもいいかもしれませんね。メッセージカードもちゃんと付けて...

 キャンドルを灯すときは、周囲に燃えやすいものを置かないようにしてください。それと、灯したまま放置せず、必ず消してくださいね。キャンドルライフの基本を是非ご確認ください..

 
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2005/11/14

ラブフルート作り・その1  ラブフルート

ラブフルート作り その1
ホームページ・「レイバンの独り言」2003.11.11から転載

 ラブフルート製作は最初から意図していたことではありませんでした。
ワークショップのためにお借りしたインディアンドラムがラブフルートを呼んだのです。

 住職所有のインディアンドラムを借りるためにお寺を訪ねた時、そこに待っていたのはドラムと届いたばかりのインディアンクラフトの本でした。

 彼は届いたばかりの本を快く貸してくれました。そしてフルートの簡単な略図と説明書を見ることが出来たのです。

 そこには米赤杉(レッドシダー)と竹のフルートが紹介されていました。竹で作られている事を知ったときは不思議な気持ちでした。

 道具が何もないので作るのは難しいと思っていたのですが、竹ならばなんとかなりそうだと思い立ち、所有していたケーナの製作者の工房へ足を運びました。

 入るなり有無を言わせずケーナを一本自分で作ってみませんかということになりました。ほんの少し竹をお譲りいただこうと思っていただけでしたが、結局
1時間ほどで一本作り上げてしまいました。

 今になって考えると、それは来訪者に待ち受けているひとつの儀式みたいなものだったと思います。ケーナに惚れ込んだその方の情熱がしっかり伝わってきました。

 あれこれラブフルートにまつわる経緯を説明したところ、ベランダに使用不能で捨て場所に困っている竹があるからご自由にお持ちくださいとのことでした。

 一抱え貰ってきたその中から内径が近くて、調度よさそうな竹を一本選んでコツコツと作り始めました。試行錯誤しながらも楽しい時間をすごしたように思います。

 青年というにはやや無理があるなと思いつつも、愛の告白ためにフルートを作る青年もどきになりきって作っていきました。

 製作の途中でかなり真剣になっている自分に気づいて可笑しくなったことを思い出します。このとき初めて作ったラブフルートは今も健在です。 

 後にこの竹のラブフルートと購入して間もなく割れてしまったラブフルートを抱えてアメリカに行くことになりました。割れたラブフルートは買ったばかりということもあり交換してもらったのですが、製作者はさかんに首をかしげていました。
今では、私自身も彼と同じように製作者になっていますから、製作中に思わぬトラブルが起こって首をかしげながら試行錯誤しています。

 竹製フルートは予想外にバランスが良く繊細で美しい音色を響かせてくれました。そして、その音色に心を寄せるアメリカのフルートサークルの方たちとの出会いの準備が出来上がりました。

 こうしてフルート製作に関する手探りの旅が始まることになりました。なぜ割れたのかという問いを常に心にとめながら、ラブフルートの構造や音色の秘密を探る長い道程が始まったのです。

 手彫りのフルートで何度も失敗を重ねながら、何が駄目かを学び始めていきました。それは同時に、ラブフルートを吹くことの意味を根源から考え始めるきっかけでもあリました。


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2005/11/10

実ること、そして冬が来ること  雑感

 工房脇にシュガープルーンの木があります。今年は随分たくさんの実を付けてくれました。バケツに3個分も収穫できました。しかも美味しかったのです。生食するだけでは食べきれず、ジャムも作りました。パンに塗ったり、ヨーグルトに入れるのですが、その時さーっとプルーンの木の成長過程を思い起こします。
食べることもさることながら、この思い起こすわずかな時間が楽しみなのです。

 多すぎる枝を払い、根元に肥料をまいただけで、後は何にもしなかったのですが、秋を前に立派な実をつけてくれました。

 そしてつい少し前まで採りそこねた一粒のプルーンが枝に残っていました。その一粒を窓から眺めると言う楽しみのオマケが付いていたのです。今日もまだ残っているなと密かな確認をする毎日。最後のひと葉という物語なども思い出したり..どんな変化をするのだろうかとじっと見詰めたり、いつかは必ず落ちるんだよな..と思ったり。ひょっとしたら、この実だけは落ちないで残るのかもしれないと考えてみたり..

 同じように窓から覗いた時、一粒のプルーンの姿が見えなくなっていました。あっ、やっぱり落ちたんだ..どのあたりかなと思いつつも確かめることはしませんでした。

 あの実は、たいそう甘くて美味しかったんだろうな..。晩秋に残された一粒の実は、人生の流れと収穫の時期を密かに教えてくれたような気がしました。いろんなことがあって、もう残り少ないなと感じる少し前に熟した実になるのだろうなと思います。

 カチカチの青い実の時には、食べられない。様々な体験を経て、雨風に耐えた実だけが残され熟成のときを迎える。その実を与えられたものの命となり、喜びとなり、生かす。早く落ちた実もまた、地上の生き物の食べ物となり、自らを生みだした木の養分となる。

 こういう流れをみていると、人間はまだまだ未成熟なんだなと感じます。自分の人生を素朴に受け止めることができずに、随分と不平不満を漏らしたり、あれこれと不安を口にしたり、あまり意味の無い心配をしながら生きているな〜と感じます。思索し、論理を展開し、議論しながら、ようやく一粒のプルーンの実になれるか、なれないか..という状態かもしれません。

 尊敬され、評価されている人物がたどり着くのは、脈々と命を繋いできた自然の営みとの一体感なのかもしれません。生かされている意味も、答えも十分に与えられているけれど、自分がそれに気付くまでには、必要なプロセスがあるものだなと思います。

 せっかく命を与えられているのですから、せめてそこそこの味のプルーンになって誰かの口に入るか、虫の餌になるか、土の養分になれるかも知れないという希望を隠し持って冬を迎えられればと思います。
 
 そういえば、窓の手前にあったハナミズキの葉っぱが、申し合わせたようにハラハラと舞い降りていました。やがて降り積もる雪の重さも手伝って、残らず葉は落ちてしまうでしょう。プルーンの実の落ちるところを見たであろうハナミズキの葉も落ちて..さて,いずれは自分が落ちる時が来るのでしょう。

 
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2005/11/4

晩秋のオコタンペ湖  雑感

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 目の前にあるのに心が他の何かに捕らわれているのではないか..その自問を乗せ、日常の雑事を投げ出して郊外に車を走らせてみました。

 もう紅葉を楽しむには遅すぎるだろうと思いつつも支笏湖方面に向かいました。紅葉の残りを見つけるというちょっとした楽しみが出来ました。周囲全体に紅葉があるときには出来ない楽しみです。葉を落としてしまった樹木の中に美しい木の実や深紅のモミジを見つけるのは嬉しいものです。

 風がほとんどなく、柔らかな光と森の中の不思議な空気と一緒に甘い楓の香りが漂う世界はまさに別世界でした。身体の中に、森の精がやってきて解きほぐしてくれるのが肌で感じられました。

 冬を前に山を下りてくるカケスのカップルや小鳥の姿も見えました。気が向いたところで止まっては、木々の間を散歩する..しなければならないことから離れて、ただそこにいることで満たされる時間は、やはり必要なものでした。

 言葉や文字や価値観によって自分を動かそうとするのではなく、ただそこにいることで満たされるものがある。それを改めて感じられる一日になりました。

 雄大な支笏湖から少し離れて期待のオコタンペ湖に向かいました。そこに待っていたのは思いがけない大自然のプレゼントでした。何度となく訪れたその湖は、今まで見せたことの無い静けさと落ち着きを漂わせていました。秋と冬の間で出会った、時間のない秘密の世界に触れたような気がしました。

 風が止まっている..空気というものが私たちを包み込んでいてくれる..それは単なる空気ではなく、不思議な暖かさや穏やかさに満ちている。殊更な主張をすることなく、山奥に佇む湖が、これまでとは違う、新しい流れを指し示すために招きよせてくれたのではないか..密かな心の変化を予感させてくれる時間でした。

 一本だけ持っていったポプラフルート。湖を見下ろしながらほんの少し吹いたのですが、音色と景色が見事に同化していく感覚は新たな驚きとなり、感動と喜びが湧いてきました。全体を包み込む柔らかな空気とポプラフルートの音色は最初から一緒だったんだよと囁いてるようでした。

 同行者が数名いましたので、じっくりと自分の好きな空間にとどまるという贅沢は出来ませんでしたが、それぞれが自分の必要を満たしている姿もまたほほえましく感じました。

 数時間のちょい旅が、通り過ぎてきたあれこれと、これから待ち受けていることを受け止める心の助けになりました。

 真冬は閉鎖されてしまうオコタンペ湖への山道。まだ暫くは通行可能です。

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2005/11/1

落ち葉の演奏  ラブフルート

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 この29日にカトリーナやパキスタンのために出来ることがあれば..そんな思いの方々が色んなところから集まってくださいました。野幌公民館はラブフルートに関わる二人の旅人と交流した場所なので、記憶していたのですが、ホールに足を運んだことはありませんでした。

 主催者の方々は、会場の選択に苦慮されたのですが、最終的に野幌公民館のホールに決まりました。ステージからの音響があまり良くないのでどうしましょうか?とのことでしたが、とにかく場所を見てから検討しましょうということになりました。

 ホールに足を踏み入れてすぐ、直感的にステージとは反対側の大きなガラス窓をバックにするのがいい..と口にしてしまいました。ピアニストのMさんが、気さくに同意してくださったので、ごく自然に紅葉の舞台を背景にした演奏会の準備が始まりました。

 当日のスタートは、前面のガラス窓から見える紅葉と背後から流れてくるピアノが歌う「枯葉」でした。

 こういう豊かな時間、空間はめったに待ち受けてはいないだろうと思います。そこに居るだけで、充実した贅沢な気持ちになるのですから..晩秋を存分に満喫できる午後のひと時は、被災者たちからの感謝の印だったのかもしれません。

 異なる木々の音色と様々な木々の紅葉がおりなす世界。それは音と光の世界です。繊細で豊かな色彩が瞳から心に流れていく。木の笛が奏でる音色が心に届く神秘。その饗宴は、集われた方々の素朴で純粋な思いによって輝いていました。

 それは企画し、準備された方々にとっては、慌しいけれど嬉しい空間ではなかったかと思います。

 当日の直前まで選曲に気持ちを傾けたため、プログラムが出来ませんでした。こういうことはめったに無いのですが、後になってみれば、うつむいてプログラムに目をやることもなく景色と音色に集中できたのかもしれません。

 ひとつひとつの音色は微妙な呼吸から生まれてきます。それはあたかも一枚一枚の枯葉の色彩の変化のように繊細なものだと思います。

 今回は市内の図書館の近くの桜の紅葉の写真を掲載しましたが、春の桜の花びらの世界からは想像も付かないような鮮やかな世界が惜しげもなく広がっています。

 それは葉であることを忘れさせ、花のように見事に染まり、輝いています。新緑のまばゆさが、いつしか深い緑に変わり、さらに濃いピンクや赤になり、地に落ちて草の床に眠るのです。

 一本の紅葉の中にもぐりこむと、花の中に飛び込んだ蜂や蝶はこんな感じで生きてるのかなと想像してしまいます。

 風に飛ばされた枯葉が踊りながら、最後の歌を歌って地に落ちるのを見ると、自分の人生の最後にも風が吹いてくれるだろうか?と思います。

 表も裏も、シミや虫食いや破れも見せながら風に任せて舞い、残されたわずかな色彩で地を染める一人になれるだろうか..旅の途上で出会う被災者のために、わずかでも透明な水を運ぶことが出来るだろうか...そんな思いの人たちと出会うことができたような愛の笛コンサートでした。




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2005/11/1

樹のシルエット  雑感

クリックすると元のサイズで表示します夏から秋にかけて、一気に駆け抜けてきた気がします。勤め人だった頃は、郊外に車を走らせることもあり、いま思うとそれなりに季節を身近に感じていたのだと思います。自宅と工房の往復が大半で時折ライブのためにお出かけという生活には意外と季節感が乏しいことに気がつきます。

 たぶん何も考えずに何となくあたりを見回して、何かを感じる時間が乏しくなったからかなと思います。小さくとも庭はあるし、四季を感じさせる要素もあります。桃が実ったり、セージやフェンネルやラムズイヤーが花を咲かせ、ブラックベリーやプルーンをたっぷり収穫できた秋なのに..何故でしょう。

 それはそこにあるし、変化もしているし、それを見たり、触れたりしているのに..きっとそういうこと以上に、しなければならないことがあるという意識が強いからなのでしょう。しっかり、じゅうぶんに、よいものをという思いが皮肉にも、ゆとりを締め出しているのかもしれません。

 いわゆる自営業という状態は、生活全部が仕事という意識になりやすいので、上手く割り切ることが難しいように思います。生活のために必要な仕事だからという感覚が、生活全体を包み込んでしまうのだと思います。

 やすみなく仕事に専念している勤め人とは質の違った休みの無い状態に陥っているのです。そして次第に心のバランスが崩れていくのだと思います。怠慢よりは真面目なほうがいいのかとは思いますが、単なる働き者では人間が機械に近づくだけような気がします。

 思い切って休む知恵がないと、人生どこかで軋み出すのだと思います。ここのところ紅葉シリーズで書き込んでいますが、今回は葉の落ちきった樹のシルエットから思い切って休むことの知恵を受け取ってみることにしました。

 自然界には、休むことに徹する動物たちがいます。冬眠は生き延びる知恵のひとつでしょう。そして、葉を落としきる木々の姿もまた、生き延びる知恵に満ちているように思います。休むことが出来ないものは、生きることに支障が出てくるという単純な関係がそこにはあります。冬眠に失敗した熊は悲惨な冬に直面し死が忍び寄ってきます。

 休んでみて初めて、本当にしなければならないことが見えてくるのかもしれません。葉を茂らせた木々は、光や風や雨や虫や病気と関わりながら生き延びてきたのだと思います。時には心無い人たちに、葉をむしりとられたり、枝を折られることもあったでしょう。しかし、いまはすかっり葉を落として、新しい春のために芽生えの準備を始めています。葉を落としたからこそ、すっきりと次の準備が出来るのです。投げやりになったり、嘆いて葉を落としているわけではありません。

 葉っぱのダンスも風とのハーモニーも消え、極力シンプルになって時を待つ。その姿は心の流れを学んだ人の知恵と重なります。この時期を賢明に過ごすからこそ、驚きと喜びに満ちた新緑の眩しい笑顔に出会い、待ちかねた小鳥たちとの楽しい語らいのときがあるのです。

 自分は葉を握り締めて離さない樹のようではないか..潔く手放して大地に帰し養分として受け取ろうではないか..そんなことを考えながら眠っている過去の遺物を処分し、読み終えた書物を整理し、冷蔵庫の奥で眠ってる食べられなかったものたちも処分して、目的の無いお出かけをしてみる時間を過ごしてみようと目論んでいるところです。

 

 

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