2005/12/8

交通事故死  ラブフルート

 人が必要のために移動する。この単純な行動が死を招く。その生々しい状況に直面しました。決して珍しいことではないのかも知れません。でも、それが自分の限られた生活の中に飛び込んでくるとき、自分でも予想のつかない微妙な心の動きに戸惑いを感じます。

 このラブフルート日記に、何故交通事故死なのか..その唐突さが不可解だと感じるように、突然の死が目の前に起こったのです。多分、事故直後数分のところを通り掛かったのですが、白いジャンパーで血を流して倒れている女性と跳ね飛ばされた自転車。深刻な表情で携帯電話を掛けている青年。こなごなのフロントガラスなどが残像として焼きついています。

 その光景が妙に気になりながら過ごした、その深夜、テレビニュースで事故の事が報じられ、女性が亡くなられたと知りました。

 何気ない日常に突然やってくる死。或いは、人を殺してしまうという状況。それは一般に教訓として語られる言葉とは明らかに違っていました。あまりにも当たり前の空間に、それは突如として起こるのだという現実。それを肌身で感じたのだと思います。それが自分自身に起こるのだと痛感したとき、あれこれと並べられる知識も思考も経験も消え去り、重たい空白だけが目の前にあるのです。

 悲しさでもなく、空しさでもなく、憤りや抵抗でもない。妙に冷静な感覚でもなければ、客観的な認識の表明でもないのです。死が云々、死後が云々、前世がどうで来世がどうかでもない..

 予め予測のつく死ではないからこそ、その事実が示すことは鮮烈なのだろうと思います。生きていて、呼吸が出来ればラブフルートは吹けますと何度かレッスンでお話してきたのですが..

 何故、今このときに、こうした死に直面したのだろうか..自分へのメッセージはどこにあるのだろうと思いめぐらし続けています。一つだけ、強く感じているのは、生きている、生かされている現実が、どれほど豊かさに溢れているかと言うことでした。生きていると言う事実の凄さでした。

 あまりにも多くの恩恵を与えられている自分がいることを鮮明に照らし出してくれたのです。動ける、感じる、表現できる..見える、聞こえる、触れられる、作れる、話せる、食べられる..この当然と思い込んでいる人生の恩恵をひとつひとつかみ締め、喜び、感謝して生きる。そういうものとして命が与えられている。

 そこには存在しているという事実そのものに、十分喜びや幸せが満ちているのだという確かめが起こるように思います。

 何の曲を吹くのでもないけれど、ラブフルートを吹いているということ、息を注ぎ込んでいる瞬間を感じるだけで十分満足していますという言葉が、時折レッスンの中でささやかれます。

 それは私が分かち合いたい、大切にしたいと思っていることの一つです。あれができる、これができるといった、できることが途絶えたとき気付くことがあるのだと思います。

 ある意味で、愛の中に生かされていることに気付いて、死を迎えるために備えられた秘密の笛、神秘の旅を支える杖として、ラブフルートが用意されていたのかもしれないと感じるときがあります。

 ネイティブ・アメリカンの棺の中から取り出された笛は、その人の人生が愛の旅路をたどったのだという印だったのかもしれないな...そんなことを思いながら冬の夜にキャンドルを灯してみました..。

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