2006/4/29

小さくて大きい人  ラブフルート

 「デウス・ウザーラ」黒澤明監督の映画の題名です。ラブフルート仲間のご夫人からこの映画の題名を知らされたのは一年近く前だったかと思います。それがつい最近ビデオショップで見つかり、早速見てみました。

 なぜ、これが黒澤映画なのかやや困惑させられましたが、内容を振り返ると、なるほど黒澤映画だな..と納得でした。単純といえば、あまりに単純なストーリーなのですが、何故か深く印象に残るものとなりました。

 これは映画関連のコミュニティーに書き込むほうが妥当なのかもしれませんが、日常生活の中にこういう映画がやってくることの不思議さ、新鮮さをお伝えするのも楽しくて良いかなと..

 このことと、最近嫁入りが多くなってきた「もっともっと短いラブフルート」のことが、何処かで繋がっているような感覚があるのです。このフルートに関しては、ホームページの「レイバンの独り言・音色考察その6」で、別の角度から書き込みましたので、あわせてお読みいただければ理解が深まるかと思っています。

 それは気軽に持ち歩ける本格的な音色のラブフルートとして嫁ぎ始めています。細身のものから、中肉中背、そしてやや太め、長めと個性的なスタイルをしていますが、長くても30cm。短いものは20cmていどです。

 先日、札幌のパーキングナインという所でレッスンを開いたのですが、その時この「もっともっと短いラブフルート」で参加された方がおられました。そしてそのすぐお隣に、長〜いナチュラル仕上げをお持ちの方が座られました。

 一巡り音を出したときのことです「あの短い笛と、長い笛がおんなじような音だった。どうしてなのかしら」と口にされた方がおられました。確かにそうなのです。太くて、長くて、70cmなければあの低くて心にしみる音色が出せない。持ち歩きが大変だし、価格も安くない..と思われてる方も少なくありませんでしたから、これは画期的な笛だということなるわけです。

 もちろん音の高さだけ同じでも、それで十分とは言えません。実は、このラブフルートに息を吹き込むと、なんとも不思議な感覚がやってくるのです。身体の内側に音がめぐってくる、或いは音が身体全体を包み込むような感覚になるのです。

 樹木と自分の呼吸が混ざり合って生み出される世界が、直ぐそばまで来てくれているな〜と。それが仰々しくない姿で、そばにいてくれるのが心地よいのです。

 もっともらしい姿をしていると、どことなく近寄りがたいものですが、これなら自分にもできそうだなと思えるし、実際やってみても難しい感じはしない。しかも決められた音階ではないので、自分で好きなように楽しめる。ちゃんとした呼吸が身に付けば、十分立派な声で歌ってくれるのです。

 私がラブフルートを作り、それを吹き、一緒に過ごす時間を持ちながら思っている事のひとつは、一人一人が自分が自分として生きていることの豊かさや喜びに触れて生きるということです。そのために出来ることがあればいいなと思っている中で生まれてきた可愛い子供たち。デウス・ウザーラ式に言えば「小さくて大きな人」ということになるのかもしれません。

 このラブフルートは、素敵なラブフルート達と見比べると「醜いアヒル」的な容姿かもしれませんが
その声をひとたび耳にすると、何故かそばにいてほしい人だな〜と感じています。ちびちゃんなので世界中にお供として連れて行けそうです。
 
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2006/4/26

いちい(おんこ)ラブフルート  ラブフルート

いちい(オンコ)のマイフルートとの付き合いが始まってまだ日が浅いのですが、色んなことを考えさせられています。いちいのマイフルートを作ろうという動きになるまでに8年半かかりました。死の象徴の木ということを何かの書物で読んだこともあり、尚更こだわりがあったのも確かです。ということは死の覚悟ができた、もしくは死期が近いことを予感してのことかもしれません。

 ラブフルートの製作が仕事なのですから、いつでも作れそうなものですが、むしろ逆でした。心の中には様々な動きが起こってきますので、落ち着いて取り組むまでに必要な内面的なプロセスがあるのだと思います。

 このラブフルートの伝承のひとつにシャーマンは、その人に必要な心のプロセスを辿るまで笛を与えたり、吹いたりすることを許さなかったと伝えられています。この話を聞いたときには、随分大げさなこだわりの世界だと感じたものでした。しかし、今になってみますと、私がマイフルートを手にすることを認められるまでにほぼ9年近くかかったことになります。

 さて、ここまで待って手にしたラブフルートなのですが、これまでにお渡ししたイチイ(おんこ)の音色や感触とまったく違った響きのものが出来上がりました。それは、どう吹いたらよいかわからなくなってしまうような笛でした。

 小さな扉を開けたら、目の前には広大な、あまりにも広くすべてを包み込むような世界が現れた。そんな感覚にさせられたのです。自分が何をしても、何もいわない、黙って受け入れる。何かしようとする動きが起こると、それが未成熟な自己主張に感じられるのです。抵抗感がなく、すーっと吸い込まれ包み込まれるようなやわらかく暖かい感覚になるのです。

 はてさて、私はこの笛から何を聞き取り、学ぶことになるのだろう。これまでのスタンスでは何もできないのです。

 この笛は何かを学びえたから、手渡された笛ではなく、これから必要な人生の歩み方を時に応じて伝えてくれる笛なのだろうと感じています。この笛に息を吹き込んだ最初の感覚。そしてこの笛にどのように息を吹き込んでいけばよいのか地道にたどろうとする心の姿勢が本物になるまで、手渡されずに来たのだろうと感じています。

 静かにこの笛が手渡された意味を考えると、なるほどそれは死を象徴するイチイ(オンコ)の木である必然性があったのだとうなずかざるを得ないように思います。この笛は今まで手にしたどの笛よりも自分の近くにあって息を吹き込む笛になっているように思います。

 それぞれの方にお渡ししたラブフルートが、いつしか思いがけずそれぞれの心にささやきかけるときが来るのだろうと思います。いつか、それぞれの心の旅路のお話を耳にするときを楽しみにつつ、笛つくりを続けて生きたいと思っています。
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2006/4/22

限られているからこそ..  ラブフルート

 つい先日、札幌市民大学講座で「愛の笛・ひそかな知」というテーマで講座を開く機会がありました。沢山の方々が集まられ、仕事帰りにたくさんの方々が学ぼうとしていることに感心しました。年齢も性別もさまざまで、本当に意欲のある方達の空間であることを強く感じました。

 素朴な笛を作ったり、演奏したりしながらの旅を続けている中で、待ち受けていた場所。さてそこでどんなことをお伝えしたらよいのだろうか、ゆっくりと思い巡らしながらの生活でした。十分な下準備と完全原稿というスタイルも面白そうでしたが、どうもラブフルートの音色と繋がらないと感じて、その路線は止めることにしました。1時間ほどの時間の中で、演奏もお話もとなると、何をどのようにすればよいかわからない状態でした。

 やがて限られた時間の意味を考え始めました。いつだって、どこだって、限られた中で生かされていることに変わりはないなと思うようになりました。逆に、1時間も与えられているんだという感覚がやってきて、目の前が開けてきました。

 そして何が必要かを考えました。情報や知識で受け取れることを、敢えて話せば単なる時間つぶしになってしまいかねない。その時、その時間、生きている人間だからこそ分かち合えるものは何だろうか。自分がラブフルートと関わっているのは何故なのか。それをどう感じながら生きているのか。そういう人間に出会うことの意味は、やがてどこかで感じてもらえるかなと..

 メンバーと何度か演奏の練習をしながら足を運んだのですが、予定の半分も演奏することはできませんでした。しかしだからこそ、音が流れる事と、言葉や思いをお伝えすることは、縦糸と横糸のように織り込まれて模様を描き、大切な布になっていくことをじっくり味わうことができたように思います。

 そこでお伝えしたことは、これから小分けしてブログに書くことになるかもしれませんが、お話で伝わることと文章でお伝えすることにはかなり違いがありますので、少し整理しながらになると思っています。

 後日、講座の感想を送っていただきまして、じっくりと受け止めてくださる方が随分おられたことを知り嬉しく思いました。日常の必需品とは程遠い一本の笛が、人生に必要な深い知恵に満ちていることに気付く可能性の場を与えられたことを感謝しています。
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2006/4/21

パーキングナイン  ラブフルート

 昨日札幌で開かれたラウンドレッスン。いつものことですが、集まられた方々から学ぶことが一杯あります。それぞれが、様々な状況の中から集われる。それも一本のラブフルートに息を吹き込むために..です。

 お仕事で疲れてるだろう..お腹も空いてるだろう..気にしながらドアを開けると部屋は一杯になっていました。小さな音量の笛なのに、みんなで息を吹き込むと部屋が音で溢れました。一人一人が個性的な木の笛を吹いている姿。なんとも素朴で、素直な時間です。

 どうしてこんな木の笛と出会って、こんな所で吹いているのか..それを思い巡らすだけでも不思議な気持ちになります。しかもなんの曲も吹きこなすわけじゃない..それは、いま自分が生かされている場の意味に触れる時間なのです。何事かを習得するための訓練の時間ではないのです。

 それを受け止め、知るために心の旅路を辿られた方々が集われるのです。あるいはまだそのことに気づいておられないかもしれませんが..いつか気づかれるだろうと思います。

 一人一人の音色に耳を傾けていると、笛の巧みさがどうであるかは、ほとんど関心事にはなりません。それぞれの音色、その存在の豊かさと尊さを感じるのです。

 こうしたレッスンの旅をしながら、ラブフルートの持つ音色とその知恵の豊かさを、これからもさらに味わい知る事になるのだと思いいます。それは知識としてというよりも、心で受け止めていくことの豊かさと喜びを感じながらの旅になるように思います。
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2006/4/17

ふきのとう  雑感

 今年の春のフキノトウを食べました。いつでもどこにでもあると思うと、なかなか動かない。そのうち季節が過ぎ去って、食べそこねる。それはまずいぞ〜と車をとめて、近くの土手で採って来て、味噌汁の具とふき味噌をほんの少し作って食べました。

 やっぱりほろ苦く懐かしい春の香りがいっぱいでした。天ぷらも美味しいんだよな〜と思い出したのですが、果たして今年は食べられるだろうか..

 食べられるかどうかは、時間がないとか、作れないとかではなく、気持ちが動くかどうかなのだと思います。身体が動かないわけではないのですから...気持ちと行動の組み合わせは生活のいろんなところで起こっているように思います。

 無理に動かせば、反動が来るし、動かないでいると別の反動が起こってきます。やること、やらなければならないことが多すぎるのかもしれません。あるいは、多すぎるのではなく、ちゃんと整理していないために選択ができずに終わるのかも知れません。

 そうこうしているうちに、動いてはいるものの身体と心が明らかに分離しているなと気づくことがあります。心がそこになくても動けるし、反応できるところが良くもあり、悪くもあるように思います。いつでも心が伴わなければ動けないとなると、社会の機能は麻痺するでしょう。かといって、心を伴わずに動き続ければ、これまた別の形で麻痺することになるのでしょう。

 こうした揺れ動きの中で自分なりの歩き方を受け止めていくのだと思うのですが、時として、ねばならない式の批判的意識が入り込むと自分をも他の人をも追い込むことになるだろうなと思います。
春にはフキノトウを食べなければならない!と叫ぶ人はいないでしょうが、フキノトウを別のものに置き換えて、かくあるべし、ねばならない式の意識に振り回されるままだと、人生もったいないなというところでしょうか。

 いたるところで顔を出しているフキノトウからのメッセージ。来年はどんな形で受け取るのかな..早くも来春の楽しみを土手に埋めてきました..。
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2006/4/14

さえずるヒヨドリ  ラブフルート

 工房の窓から手が届きそうなところにバードテーブルがあるのですが、もっぱら見慣れたヒヨドリがリンゴを食べにきています。どうやら春を先取りして、パートナーを求める「さえずり」が始まったようです。一体どんなかわいい小鳥がやってきたのだろう..と思って周囲を見渡すと、とっておきの声でさえずるヒヨドリの声でした!

 普段はピーピーがキーキーに聞こえるような鋭くて耳に刺さりそうな声で鳴いているのに..どうなっているのだろう..耳を疑うような美声で堂々とさえずっています。実に面白い現象です。この時期に限ってのとっておきの歌なのですから...。ということは彼らヒヨドリたちにも美の感覚があるということなのでしょうか?いい声とそうでもない声を歌い分ける、聞き分けるということでしょうか?

 考えてみると、鳥たちは声だけではなく、羽の美しさも見せるし踊りをするものも少なくありません。
美しさとは不思議なものです。いいな〜、かっこいい!素敵だ..という感覚は、どこから来るのでしょう。こうなると、必然的に鳥たちに限らず、生命体全体に共通した何かがあるとしか思えません。

 さえずり、歌声、言葉、着飾る、香り、所有物、化粧の類。履歴、実績、功績..どんどん広がって収拾がつかなくなりそうです。どうやら、生命体はなんとかして自分を魅力的な存在として意識してもらうためにエネルギーを注いでいるように思えます。それは同時に、自分に向けられる反応を気にして生きているとも言えそうです。

 全身を震わせて、力いっぱいさえずっているヒヨドリを見ながら、自分はあの小鳥ほど素朴で純真なさえずりをしたことがあるだろうかと自問が起こります。一緒に生きるためのパートナーを求めてさえずる。ヒヨドリの姿は、あたかも天に向かって願い求めているようにも見えてきます。

 導かれるままに、天に向かって矢を放ちながら捜し求めた若者が手にした愛の笛。その物語を思い起こしていると、あのヒヨドリの若者は備えられていた愛の笛を取り出して吹いているような気がしてきます。果たして結末はどうなのか。パートナーが無事見つかって、末永く仲良くできるのだろうか..何となく気になってしまいます。

 このヒヨドリの様子を見ていると、なんとも几帳面で、思わず偉いな〜と思うことがあります。餌台の上にはリンゴの切れ端が、いくつか乗っているのですが、一度口をつけたリンゴを最後まで見事に食べ尽くすのです。食べやすいところに、まだ他のリンゴがあるのに、食べにくくなった切れ端を隅々まで突付いて食べ尽くすのです。皮だけ、まーるくのこして、すっかり食べ終わってから、次のリンゴに向かうのです。

 このヒヨドリだけの性格なのか、ヒヨドリ全体の性質なのかわかりません。もし、この様子を見つけたヒヨドリ娘がいたとしたら、その姿に感動してそばに寄り添うのかもしれません。だとすれば、美しい声を持つ丁寧で忍耐強く、まじめな青年は、ふさわしい住処を見つけることができることでしょう。

 この春、愛する娘のために奏でる笛を見出す若者はいるのだろうか...それもまた気になるところではあります。とっておきのさえずりを心から注ぎだす若者が現れるといいですね..工房にはそれなりに用意された笛があるのですが..残念ながら、まだまだ手に取る男性はなかなか現れません..。
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2006/4/12

バードとプレート  ラブフルート

 ラブフルートのバードとプレートをどうするか。これは製作をはじめて以来ずっと考えてきたことでした。プレートを使用するか、しないか。これはひとつの分かれ道です。使用するとすれば、どんな素材を選択するか。樹脂、皮革、金属、樹木などがありますが、それぞれの特徴があります。
 
 自然の産物である木製のフルートに樹脂はふさわしくないと考える方もおられます。ただし、加工が容易なことと腐食しないという特性があります。アメリカには樹脂を採用している工房がいくつかあります。

 皮革のプレートは、水分を含むと使用できなくなるし、変形してしまうので消耗品になります。ただ、木製のフルートとのバランスは取れますし、やさしい感じがします。このスタイルは初めて出会ったアメリカのシルバームーン工房のフルートで使用しています。プレートのパーツが入手しにくいのが難点です。

 金属のプレートに関しては、かなり個人差があります。まったく気にしない人と、違和感を感じる人がおられます。金属プレートは一般的に真鍮を使用しますので錆の心配はありませんが空気に触れると黒くなってしまいます。厚さを容易に変更できるのでブレスとのバランス調整は容易です。これはコヨーテオールドマンの工房などで採用しているスタイルです。

 木製のプレートをアメリカの製作者が使用しているかどうかは今のところわかりませんが、ブルーレイバンクリエーションではエンジュ製のプレートを使用しているフルートもあります。ただし、扱いに注意が必要なのことと製作ロスが出やすいのが難点です。外観的には自然な印象になります。プレートはノイズが出るので好まないというかたもおられますが、しっかりと製作した上でフィッテイングをよくすればなくすことができます。プレートを使用し、さらにプレートを本体に固定してしまうスタイルのものもあります。これは音程の安定を考えて選択された方法です。これはアメリカのオロリンフルート工房で採用しているスタイルです。
 
 こうしたプレート式のフルートに対して、プレートを使用しない場合は、より自然で素朴な印象のフルートになります。この場合、主に二つの製作方法があります。

 ひとつはバード自体に溝を彫りこんで空気の流れを作る方法です。おそらく加工上はこの方法が最も容易かと思います。もちろんバードの形状によって音色はかなり変化します。

 もうひとつは、フルート本体に空気の流れる溝を製作する方法です。これはどちらかというと機械的な加工を取り入れることで可能になる方法です。本体への溝加工は、ロスが出たときに本体自体をあきらめる可能性が高いと思われます。勿論、安定した技術があれば問題はないと思います。これはクリス・ティ・クーム友の会が販売しているフルートの構造です。

 プレートなしのフルートは音色がソフトになる特徴があります。これを音の切れ、発音が弱いと捉えることもできます。また、樹種が硬いものはエッジの切れを良くすることが可能ですからプレートのあるものと比較しても遜色はないと思います。ただし、やわらかい樹木の場合は加工が難しく、エッジの切れが悪くなることもあります。素朴で柔らかな音色を好む場合はノンプレートがよいかと思います。ただ、長期的には樹木が痩せて劣化するのが比較的早いという難点はあるかと思います。それは難点ではなく、だからこそ良いのだとも言えるでしょう。

 少し専門的な事を書きましたが、もっとも気にしているのはフルートを手にされる方にとって、どれが適切だろうかということです。今の時点では、時間が経過した時点でメンテナンスが容易であることを考えてプレートとバードを分離できるスタイルを選択しています。それは同時に、ノンプレートで吹きたいときにも対応できるようにしているということでもあります。

 バードに溝を彫っているものは、水分による膨張収縮が激しくなると樹木がぼそぼそになりやすく
音色にかなり影響を与えるようになってきます。使用頻度にもよりますが、いずれは取り替えるか溝を彫りなおす必要があるかもしれません。勿論、水に強い樹木であれば長持ちするでしょうし、防水処理やオイルフィニシュなどで長持ちさせることもできると思います。

 本体への溝加工、もしくはプレートの固定という方法を選択することは、演奏者の負担、ストレスを軽減するために有効です。どのフルートであれ、バードを一定のポジションにして音程を調整していると思います。そのためにはバードのみの調整でベストポジションを見つけるほうが確実性、安全性が高いと思います。プレートもバードも動いてしまうと、ベストポジションを見つけることが難しくなるからです。

 こうした要素を考えて、何度もポジショニングのあり方を検討してきました。そしてそれは今も継続中です。それは生き方、考え方そのものと関係があると思います。手軽で、安全で安定することが必要なのか..とりわけこのラブフルートに関して..普及しやすいのでしょうが、失う要素もあるように思うのです。

 試行錯誤を重ねる必要はそれなりにあるのしょうが、物事の捉え方、価値観は容易に変化しますし多様な視点がありますから、その全てを満たすことはできないでしょう。最終的には自分はそれをどう考えるのかという選択、決断をすることになります。思想家は、思索することが求められているのですが、製作者は実際に作り出さなければなりません。
 現段階では、辛いけれどどちらも(バードもプレーとも)動いて、なかなかよい音が出にくいスタイルを続けようとしています。それは敢えて難しくしたいからではありません。不親切なつもりもありません。

 自分自身にとって必要な音の響きと触れ合うことの大切さを思っての選択です。その難しさが、かかわる仲間との触れ合い、助け合い、励ましあいにつながることの大切さを感じているのです。どうすれば心地よく、しかも自分らしい音色、心とつながる響きが生まれるのか、忍耐強く、楽しみながらの旅。注意深くなったり、時に気ままに動いてみる。立ち止まる..周囲を眺める。そんなこんなをしているうちに、実に心地よい響きに出会う瞬間が生まれてくるのです。

 ところが、そのすばらしい音色が翌日にはうまく出てこない。微妙にバードが動いたりプレートがずれるからです。或いは湿度や呼吸の微妙な変化(=心理的変化)があるからです。そこで再び、心地よい音色に出会うためにプロセスを辿ろうとするのも良し、またそのうち出会うだろうから待とうということもあるでしょう。

 本体とプレートとバード。たった3つの部品が、実に巧みに心に語りかけてくることに気づいたとき
ある瞬間に生まれる美しい響きの尊さを知り、人生の旅路に何が必要なのかを思い見るような気がします。少し時間がかかりますが、やがて自分なりの組み合わせの変化を楽しめるようになるかと思います。また、個々人の呼吸の状態に対応する時には、微妙なポジショニングができる事が大切な要素かとも思います。

 もっとも基本的なこと(本体とプレートとバードと皮紐)をしっかりと確認し、ポジションを定め、貴重な命の息を吹き込む時間。そこに生まれるマイフルートの響きは、まさに自らの心(息)の響きになるのだと思います。

 こうした取り組みと同時に、今までに考えなかった、気づかなかったパーツの組み合わせがあるかもしれないな〜という密かな楽しみも残してあります..。
 
 
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2006/4/8

古い平屋の裏の工房  雑感

 さりげなく、格別な気負いもなく、こつこつと作り続けているラブフルート...それはどうということもない普通の住宅の片隅での作業です。林の中のおしゃれな木造の工房とささやかな家が似合うのでしょうが,残念ながらそういう風情はありません。

 古い平屋の住宅の居間に少しラブフルートを並べて、ちょっとした鳴り物のカリンバ、ジャンベ、ハープ、ウドゥ、ハンドドラム、インディアンドラムなどがあるだけ。建物の素朴な概観を見て、ここでラブフルートが誕生しているとは思えないかもしれません。入り口に小さなラブフルート工房という看板はあるのですが..。

 工房もおしゃれなログではなく、味気ない錆止め用のシルバーに赤の工事現場
にあるような狭いスーパーハウスで木屑だらけになりながら大切な樹木を切ったり、削ったり、穴をあけたりしながらすごしています。工房の脇にプルーンの木があって、毎年忠実に実を付けて季節を知らせてくれます。工房の窓と住宅の窓の両方から見えるバードテーブルがあって自然の生き物たちとの密かな出会いを楽しんでいます。もっとも、小鳥たちを狙う猫たちもうろちょろしているのですが..作業の疲れを癒すお風呂はいまどき珍しい石炭ストーブ。つぎつぎと熱いお湯が沸きあがってくる感覚はなかなか心地よいものです。
いずれ石炭ストーブも使わなくなるときがくるだろうな〜と思い、惜しみつつ使っています。

 ここまで書いてみると、どうやら道すがら見かける独居老人のふるーい住まいで、年金暮らしのじいさんが趣味で先住民の笛を作ってる..ちょっと変わった家というイメージが浮かんできます。実際そう思っている方もおられるようです。中には後継者のことまで心配される方も..

 そんな家の中に、インディアン関連の絵本や書籍や写真集なんかが少しあって、ぱらぱらとめくる方もおられますし、借りていって読みたいという方もおられます。ちょっとしたネイティブのお友達紹介の場になっているかもしれません。ラブフルート吹いて、お話して、お茶やお茶菓子を楽しんで帰られる方々。レッスンという名前はついていますが、あれこれ指図して伝統的な曲を吹きこなしましょうというハードな場ではありません。笛を吹くことと自分の心がつながることを感じとって、それぞれの人生の旅仕度をする空間です。山小屋のオヤジみたいな感覚かもしれません。ただ、実際の山は身体的な制約が多いので、比較的交通の便のよい小さな家ということでいいかなと..田舎の懐かしくてあったかい親戚を訪ねるような感覚で足を運ばれる方がときおりやってきます。

 昨年人気だった近所のグランドキャニオン(残響の心地よいただの小さなトンネル)に足を運ばれる方がおられるかな.と思いつつ、小さな工房で少したまったラブフルートの嫁入りしたくを続けています。
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2006/4/5

まじ、やばいっす  ラブフルート

 「マジデスカ..やばいっす!」こういう言葉をまじかに耳にした私もヤバかったかも知れません。話に聞いたり知識としては知っていましたが直接耳にすると新鮮なものです。つい先日からラブフルートを求めて工房に来られた若者たちとの会話のひとこまです。

 それは工房でラブフルートの音色を聴いてもらったときの彼らの感想の言葉でした。おそらくラブフルートがなかったら決して会話することのなかっただろう人たちとの出会いと会話でした。ですから、いよいよ伝説のラブフルートを手にして求愛する青年たちが現れたぞ!と密かに楽しんでいるところです。ジャンベやディジュを吹いていた彼らが、何故笛を吹きたくなったのか..それもラブフルートを..

 その意味は、いずれ知ることになるのでしょう。気がつけば、ここのところラブフルートの旅を始められる方の平均年齢が下がってきました。そして単なる楽器として何か趣味程度にという考え方ではなく、自分自身の大切なものとして手にしたいという方が多くなってきたように思います。

 知名度も低く、需要も乏しく、販売のルートもない。それを承知で凍えながら真冬の車庫で作り始めたラブフルート。誰かから手ほどきを受けることもなく、手探りでのスタートでした。それからそれなりに時間は過ぎましたが、相変わらず知名度は低く、需要も乏しく、販売のルートもありません。

 製作のときは、一本一本、一人一人、ゼロからスタートして取り組みます。決められた構造パターンを繰り返せば安定するのでしょうが、それでは可能性を阻んでしまうと思っているからです。

 手にした素材と向き合い、求める人とのつながりを思い返しながら削り出し、バードの構造を模索する。ラブフルートの構造と音色の多様性がこうした取り組みを可能にしてくれるのだと思います。同じ樹木でも、切り出された部分によって密度が異なりますから、当然共鳴も違いますし、削り方やデザインによっても本体の振動は変わります。ですから、その選ばれた素材にふさわしい形状を探らなければならないのです。強引に自分が必要としている形にしてしまうのではなく、樹木そのものと触れ合いながら、何度も手にしたり眺めたりします。

 形を作り上げ、自分の好ましい音色を作り出すのではありません。その樹木が持っている響きを受け取るのです。さらには、それを求める人のことを考えながら手も心も動かすのです。それは、この出会いから作業の全体、その後の見えない係わり全体の中に生かされている自分を受け止める時間です。

 ですから、単純にお金を出して買い求める民族楽器とは少し違います。人と人とのつながり、思いが大自然の中ではぐくまれた樹木全体と触れ合うこと。自分の思いと、作り手の思い、そして選ばれた樹木がラブフルートを生み出すのです。それらを繋ぐのは、目には見えない命の息吹(風)です。心の深さ、純粋な思いが、お互いの人生を豊かにしてくれるのだと思います。ですから、作り手は可能な限り心を込め、出会った人を大切にしながら作ることで、その笛は「愛の笛」として生まれるのだろうと思います。そして、それを受け取り、旅に出る人もまた、つながりを大切にしていくことで素朴な笛を愛の笛にしていくのだろうと思います。

 さて、そのラブフルートの音色ですが、確かに「マジで、やばい」響きとなって若者たちの心にも伝わっていくことがわかりましたので、いずれ彼らのラブフルートが完成したあかつきには、ライブハウスに出向いてみようかと、目論んでいるところです。
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2006/4/1

白無垢のポプラフルートたちの旅立ち  ラブフルート

 半年以上過ぎてようやくポプラのラブフルートの旅立ちが始まりました。自分の中でポプラフルートとどう関われば良いのか、気持ちがまとまることと素材が落ち着くこと。その両方が必要でした。
倒されたポプラ。再び生きる道を見出したポプラ。ましてやそれが人の心と命の息と一つになって響く音色になるのです。

 この繋がりを思うと、どんな風にまとめていけば良いか、何度も考えながらすごしてきました。これを単なる素材として扱うこともできるのでしょう。しかし、その時点で人とポプラとの繋がりは途切れてしまうのです。限られた人生の時間の中で起こっていること。その全体の流れや意味を受け止めることが、何よりも大切な事だと思うのです。

 これは人が人として生きていること、生かされていることを知る大切なプロセスではないかと感じています。単なる物との関わり、素材、道具、作業、楽器を求める人といった分離した何かではなく、その全てと繋がりながら存在する自分。その全体の流れの中で与えられている自己の行為の意味を大切にすること。それは、限られた命の時間の尊さを思うと自然に起こってくる感覚かと思います。それは人生を豊かに、喜びや感謝を伴って生きていく原点でもあるかと...感じています。

 自らの息を吹き込むとき、そのわずかな息に倒されたポプラが応えて身体を震わせるのです。そしてそこにポプラ独特の響きが生まれるのです。そして、人は、そこで思いもよらぬささやきを耳にするのです。人の心と樹木の繋がりが、美しい響きとなって全身を包み込む時間..

 そのささやきは、その人が捜し求めてきたものかもしれません。あるいは予期せぬ、しかし大切なささやきとなるのかもしれません。さらには、いまだ知ることのない未知の人生に必要なささやきとなるのかもしれません。

 そしていつしか、自らが何故、そのときポプラのラブフルートを手にすることになったかを感じ取るときが来るのだろうと思うのです。それは、私たちがラブフルートを今日の世界、この時代の中で受け取ることになった知恵と繋がっているのでしょう。その秘められた意味は、それぞれが与えられた人生の時間の中で味わっていくことになるのだろうと思います。

 数本の真新しい白いラブフルートの旅が始まりました..彼らは、時に応じて手にした人たちを支え、促し、慰めてくれるでしょう。あるいはその音色に触れる人たちとの豊かな繋がりを作るでしょう。そして、周囲の人たちにもラブフルートの秘密の響きに潜む知恵を分け与えてくれるだろうと思います。

 北大の倒木ポプラを巡る一連の物語は、旅立った数本のラブフルートの物語となって、それぞれの場で展開していくことと思います。そして、ポプラ達の旅立ちを見守る他のラブフルートと出会った人たちとの新たな物語も始まっています。
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