2007/3/28

手書き文字  雑感

 マイ・パートナー展の会場で出展者のJさんと、筆記具自慢の時間がありました。太線から極細まで自在に表現できるボールペンやバラの香りのするラブレター用のインクなど、興味津々で見せてもらいました。お勧めのボールペンは、会場のお隣が大きな文房具店ということもあって、早速買い求めてしまいました。確かにいい...。ボールペンはあまり手にしないのですが、これはすぐに何か書きたくなる..。

 翌日は万年筆を持ち込んで、しばし談笑しました。内容別に使い分けている万年筆は、書き味もインクの色も別々です。定番の原稿用紙を買い込んで、気ままに書いています。しかし、ふと振り返るとキーボードに向かう時間の割合がいつしか増え,直接文字を手で書く機会が激減しています。

 言葉は、読むか聞くが中心で、書くことが少ない。書くといっても、キーボードに、向かって指の位置を換えるだけで文字が並んでいくのです。このままでは、自分の手で直接書くのは名前と住所に生年月日。これとて、個人情報が云々で書く機会が減っています。

 一列5文字とか10文字のパーソナルワープロから始まって、大きなディスプレイの本格ワープロ、パソコンまで随分と使いました。ということは、文章は書いても、自分の手で文字を書いてはいない状況が長いということです。

 これは書くことの意味を変えてしまうのではないか。確かに活字化された文章には、どこか自分との距離があるような気がします。或いは、自分と他人との区別が、文字そのものの印象からは起こらない。書き込んだ内容の特性での判別しかできない。活字だけが行き交うと、成りすましが可能になる。

 何を媒体にするかは、気づかないうちに自己と他者との関係を変質させていくような気がします。活字化された文字表現が独特の関係を作り出しているのかもしれません。こんなにも書くことを望む、もしくは好む人がいたのか!自己表現をする媒体として膨張しているブログは、簡単に消去、書き直しが出来る。それは利点であると同時に、生身のお互いを見えなくさせているのかもしれません。

 素早く鮮度のある書き込みと、敏速なレスポンス。数日反応がないと、無視か否定か誤動作かと気がかりになる。どうやらこの時代のキーボードを使った書くという行為は、会話の代わりのようでもあるようです。

 あれこれ思いつくことを書いてみましたが、フルートをお渡しした方の中に、丁寧な手紙で礼状を下さる方たちがおられることを思い出しました。単に言葉だけをやりとりするのではなく、自分の思いや心を伝える。人と人の触れ合い、繋がりが大切なのだと改めて感じます。手書き文字の個性。大切にしたいものの一つのような気がします。
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2007/3/19

絵と音楽  雑感

 絵と音楽。今回の展示会場で思い出しました。出展者のお一人が素敵なイラストを描いておられて、その雰囲気がいいな〜と思いながら一週間過ごしました。
 
 学生時代に吹奏楽の指揮をしていた教室の向かい側で絵画同好会が開かれていました。休憩時間には、何度も様子を見に行っていました。どこかで、いつか絵を描いてみようかなと思いながら過ごしてきましたが、結局音楽とのつながりのほうが中心になってきました。

 一度、絵を描いてみませんかと声をかけられ、油絵の道具一式をプレゼントしていただいたことがありました。描いたものは気に入ってくださった方にお分けしていましたが、その後の状況が大きく変化して描くことはなくなりました。

 それでも、時々スケッチブックを手に出かけたくなって車を走らせたこともあります。小さな旅に出ると上手くもないのに小さなスケッチブックを持ちます。振り返ったとき、文章を読むより、分かりやすくすぐに情景が浮かんでくるのです。写真もいいのですが、具体的な情景よりもメモ書きのようなイラストが面白いのです。おそらく、象徴的なイメージが記憶を豊かに蘇らせるのでしょう。

 とはいうものの、どうも絵を描くことに積極的になれない自分がいました。ヘタクソだなと自分でもわかるので、どうも取り組めない。でもやってみたいなという気持ちもある。そんな中で、今回の出会いは興味深いものになりました。

 それは、どうにもなじめない楽器に手をつけようとする方々と似たような体験だったように思います。上手い下手が気になって、手が出ない..。多少の憧れはある...。そんな時に、さらさら〜っとボールペンで線を描き、すーっと水彩絵の具を滑らせる様子を見て、感じるところがありました。ちゃんと描こうとし過ぎてたんだな...と。

 もっと直感的で、気軽に感じたまま手を動かしてみればいいのかなという気になり始めました。早速、お勧めのボールペンと絵の具とスケッチペンを教えていただき、まずは始めてはみようということになりました。気が楽になると、こんなにも違うものかと痛感しています。ヘタクソは変わらないけれど、楽しさがある。

 そういえば、あれこれ考えずに好きなように、音を出して楽しめれば、そこから先は自然と音の流れが生まれてきますとお伝えした方々が、笛を始めるときに似ています。だったら、やってみようかなというかたが身の回りにおられます。演じたり、聴かせることを意識すると動けないけれど、自分なりに楽しめれば十分と気づけば随分とこなれてくるものです。その歩みを見ているのは、楽しく嬉しいものです。気持ちの違いがどれほど大きな変化を生み出すものか...しみじみ感じます。行為そのものを楽しみ喜ぶ。この素朴な時間を大切に過ごしたいものです...。
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2007/3/12

終わりました・展示会  ラブフルート

 My Partner展が和やかな雰囲気の中で無事終わりました。いつものギャラリーではお目にかかれない不思議な展示会内容に戸惑いながらも楽しそうに過ごしておられる皆さんの姿が印象的でした。

 この展示会は、終わったというよりも始まったという感覚があります。今回は、新たなスタンスで製作したフルートを中心に出展したのですが、存在を知っていただくことが第一の役割だったと思います。出来上がりを楽しみにしておられた方々へのラブフルートのお渡し。すでに手にされている方々との交流や新たな製作依頼。初めて触れながら、マイフルート製作を希望される方々。そして、展示期間中にインターネットを通じて製作を希望される方々とのメールのやり取り。お電話での製作依頼。遠方からの工房への来訪者などなど。

 搬入も含めて調度一週間。毎日札幌へ出向きましたので、会社勤めの感覚がふとよみがえりました。なかなかハードな7日間でしたが、普段はまず接点がないと思われる方々との交流は新たな刺激になりました。

 展示期間中に、あの深い傷を負ったイチイフルートを吹く機会がありました。出来上がってから3月3日のライブまで数ヶ月黙々と吹き続けてきたフルートでした。一時間あまりのライブの中で一番印象に残った音色でしたとの感想が耳に届きました。

 単純に下から上に吹いてお聞かせしますと、なんとも調子はずれの笛になっていますから、大抵は奇怪な笛に魅せられた変なおじさんに出会ってしまったなという表情になります。壊れたリコーダーもどきの音を聞かされてがっかりしたといった感じです。

 これは日常的に耳にしている音の感覚とはかけ離れたものに対する当然の反応です。私たちは、それぞれにある前提に立って物事を見たり感じたり判断しながら生きていますから、その基準にそぐわないものを変だとかおかしいと感じるのだと思います。

 それをそれとして見る、受け止めるという素朴な反応がかなり難しいのだと思います。自分自身はこれまでにも現在ラブフルートの音程としてポピュラーな音階とオリジナルなものを持ち替えながら演奏してきましたので混乱はしないのですが、課題は常にあります。

 それをそれとして受け止めるとはいっても、その内面的な深さや実質性は常に吟味され続けるわけです。曖昧さを残さないようにと思い、しっかりと向き合うために一本の笛を数ヶ月毎日数時間吹き続けて来ました。それは確かに新しい流れを生み出したましたし、耳にされる方々も明らかに感じ取っておられました。

 しかし、課題はこれからなのだと思っています。ひとつの安全圏を見出せたことは収穫ですが、そこにとどまれば、価値観は固定してしまいます。そういえば、今回の展示会のサブタイトルは,トドマッテはいけない..でした。どうやら、傷を負ったイチイフルートの旅はまだまだ続きそうです。
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2007/3/8

小さな展示会場のメモ書き  ラブフルート

 リタイヤして年金生活しながら趣味で笛作りをしてる...そんな見方をされたことは一度や二度ではありませんでしたが、現在開催中の展示会場で、再びそんな質問がやってきました。また来たか..と思う反面、着実に年金生活に接近していることも確かだな〜と納得しそうな気配ではあります。

 実際には年金を手にするどころか、ラブフルートが旅立ち、演奏依頼がなければ生活は成り立たない傘貼り浪人の仲間です。工房の窓際にある、バードテーブルにリンゴを置くときなどは、ついつい自分が食べたほうがいいかなと思うこともあります。それでも、バードテーブルにやってくる野鳥たちを見て、あれこれ感じることのほうが幸せだと思いながら過ごしています。この冬やってきた小鳥を思い返すと、スズメ、ヒヨドリ、ヤマガラ、ハシブトガラ、ゴジュウカラ、シジュウカラ、シメ、カワラヒワ、ツグミ、キレンジャクなどなどでした。ちっぽけな餌台に良くぞやってきてくれましたと感謝しています。

 趣味の類と思われながらも、黙々とラブフルートを作り続けてきたのですが、生きるための必要性がほとんどない笛を作りながらどうやって生活していくのか。色々と気にしてくださったり、心配してくださる方もおられます。

 実際、生活の中心は、あくまでもラブフルートを作り、演奏し、交流しながら学んでいくことです。その流れを続けるために、時に内職仕事をし、アルバイトをし、会社勤めしていたころの仕事も少し取り入れている状況です。

 生きるために笛など必要なのか..と問われれば、返事が鈍る。日常生活には無用な笛。それを作りながら、吹きながら生きる。確かに、大丈夫なのかと心配していただくに十分な実態ではありますし、知人にそういう人がいれば、確かに気がかりだろうなと思います。

 どこかのお店に並べておくとか、楽器店と契約するとか、あの手この手を尽くしてあれこれ宣伝に明け暮れることもしていませんから、さほど売れるはずがない。確かにそうなのですが、それでも続けてこられたのは、人を生かし支えているものへの信頼を学んできたからだと思います。
 
 心を尽くして自分自身を注ぎだす生き方。そこに生まれる美しい響き、その時の只中で気づくもの。その純粋さと、普遍的な輝きに触れる時間。その必要性と必然性に引き寄せられる魂。彼らを呼び寄せる知恵がこの素朴な笛の中に潜んでいるような気がします。

 木で作られた単純な笛。その笛が存在する意義もさることながら、そこに潜む知恵の豊かさを受け取る心と知恵を持つ人たちとの密かな出会いの必然性と豊かさを感じています。人が笛の意義を判別するというよりも、むしろ笛が人の本質性を識別jする鍵なのかもしれません。愛の笛ラブフルートが人の手によって作られたものではないと伝える伝説の真意に触れるきっかっけを与えられた人々との出会いの場。今回のブログはその小さな展示会場でのメモ書きになりました。
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