2010/10/27

トンコリがやってきた  雑感

  カントリーバーンのN氏に依頼していたオリジナルトンコリ。ライブの時に皆さんへの紹介を含めて届けていただきました。スプルースで作られたシンプルなトンコリはなかなか存在感があります。

 その音色は素朴で、殊更何かを演奏しようという気持ちになるよりは、ただそっとつま弾いて居たい感じです。これはKOCOMATSUに来られた方が、好きに弾けるようにと思っています。

 素朴で独特の音の並びは、焚き火を眺めながら、それとなくつま弾くのが似合っているように思います。月がきれいだな..とか、流れる雲が心をよぎる思いに似ているな...とつぶやくように歌うのも良い感じです。

 短いフレーズをゆっくり繰り返しながら、浮かび上がってくる心の思いを見つめるのも良さそうです。特定の誰かが特別な何かをするというのも一つのありかたではあるのでしょうが、上手なもの、素晴らしいものが並び続けると、距離感を感じたり、感覚がマヒしてくる.......。

 へたっぴでも、自分が自分らしく存在している事を感じたくなる。そのうち、自分らしくというやり方にも疲れたり飽きが来ることがあるでしょう。やがて、ただただ、河辺の石ころの一つになって、水の流れや風を感じ、流れる雲や草花の揺らぎや小鳥たちの鳴き交わしの中でそっと過ごしたくなる。そういう感覚に似たものが生まれてくる。そんなときに似合いそうなトンコリがやってきました。

 ラブフルートのレッスンでお伝えすることの一つに、自分が吹き抜ける風になるというアプローチがあります。自分が流れ去る風そのものであり、実際に風を感じ始める時、心の安らぎや幸せに気づき始めるかも知れません。それはフルートを手にしたり吹き始めればすぐに現実になるものではないでしょう。少し時間が必要かもしれませんし、心の柔軟さ素朴さも必要になるでしょう。そんな話を聞いたことも忘れ、様々な道を通り過ぎた頃に、ふと心が安らぎの中に居ることに気づき始めるかもしれません。

 このお話をレッスン始めた頃に聴かれた方が、足掛け6年目で少し分かるようになってきましたと先日伝えてくださいました。ラブフルートを吹く。その真意に気づかれる方は、決して多くはないのかもしれません。自分の人生に何故、ラブフルートとの出会いがあるのか、それを素朴に問いかけ、自分のペースで根気よく吹き続けていく中でゆっくりと届けられるメッセージがあるように思います。

 素朴で、音域もせまく、音程の揺らぎも大きく、あれこれと技巧をこらすことができない。およそ楽器としては、隅っこで肩身が狭くて、ほんの少し仲間に入れてもらえればいい.....。トンコリもどちらかというと、似たような存在かもしれません。(バリバリに色んな音楽と演奏して居る方々もおられますので、ここでは一般的な意味で表現しています事をご了承ください。)

 KOCOMATSUで待っているラブフルートとトンコリ。この二人。素朴で、限られているからこそ、人があれもこれも出来なくなった時こそ、そばにいて心に寄り添ってくれるような気がします。
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2010/10/25

ディジュ&ラブフルートライブ  雑感

 3人のディジュ奏者が次々と吹き交わす響き。うねるように、渦巻きのように、寄せては返す波のように、降りしきる雨、鳴りやまぬ雷、吠えたける獣たち、深い森をどこまでも分け入るように...。

 アボリジニの歌を聴き、それぞれのオーストラリアのエピソードを交え、笑いが止まらない。感心したり、驚いたりして頷く、新鮮なアボリジニたちの神話。

 小さなスペースがアボリジニワールドに引き込まれ、全身が大きな木の笛のひびきに包まれる。後半は和の響き三味線とディジュが混じり合い、それぞれが大地で繋がっていることを肌身で感じる。

 最後はディジュ3本が響き合う中にラブフルート(インディアンフルート)とインディアンドラム、人の歌声が響き一つになる。

 そんなライブが、昼と夜に分けて過ぎ去って行きました。響きを届ける人たちと、それを受け取り感じる人たちの輪が出来ました。

 その瞬間の世界を言葉で伝えることは愚かな試みだと感じます。そのときそこにしかないもの。それが人生の核になって、次の時間に繋がって行く。どこまでもいつまでも孤独でありながら、いつでもどこでも大地に繋がっている。人生の出来事は、そのすべてを通して深い輝きと歓喜に向かっている。

 秋の静けさの中に、一瞬浮かび上がった叫び、祈り、歓喜の瞬間。それは、集まったそれぞれのこころの中に吹きぬけた風。その風の中に、次の歩みに向かう力が満ちていました。

 それぞれの演奏家にとっても意義深いライブになったのだと思います。いつかまた、再び顔を合わせ響き合うことができるのか、これが最初で最後の場なのか、誰も知ることはできません。与えられた一日、その出会いがどれほど大切なものか、そっと確かめるライブになりました。

 この日のライブの別の視点からの日記はKOCOMATSUのブログをご覧ください。
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2010/10/15

寄り道砂時計  雑感

 つい最近レッスン帰りに立ち寄った書店で、作業用に良い感じの手ぬぐいを探して、さんま柄とイチョウ柄の二枚を買い求めました。以前なら、何も考えずに興味のあるジャンルの本棚に向かうのですが、今回は手ぬぐいとシンプルな砂時計を求めて戻りました。

 久々の書店立ち寄り。レッスンやライブがなければ、ほとんど工房から離れることのない生活ですから、貴重な時間でした。ですが、買い求めたのは書籍ではなく砂時計でした。店頭で砂が落ちるのを眺めているうちに、心の中から色んな思いが浮かび上がってくるのを楽しんでいました。

 15分ゆっくりさらさらと流れる砂を見ていると、時間という言葉や概念じゃない時間を感じるのです。視点によって、それを早いと感じたり、ゆっくりだなと感じる。自分はこの状態をどう受け取るのだろうか...。

 紅茶用の3分計や5分計はあるのですが、15分という長さがなんとも丁度いい。何のためにちょうどいいのか具体的に浮かぶわけではないけれど、短すぎず長すぎず.....。紅茶のための砂時計ではなく、紅茶を飲んで、ちょっとゆったりする時にあったらいいな。そういう砂時計が、自分の心の内側を眺めるにも、誰かのことを思い返したり、心を寄せるにも、なかなか良さそう。

 KOCOMATSUでちょっと一息、ラブフルートを吹いてみるのにも、ステンドに映し出される光を眺めて過ごすのにも....静かで、自分のその時の状態を映し出してくれそうなのです。

 あまりに早く砂が落ちてしまうので、ついひっくりかえしてしまうのですが、そうなるともう30分が過ぎ去っているのです。細かい砂粒が落ちているのを眺めていると、人生に与えられているあれこれが、ひとつひとつ、とっても新鮮で大切なんだよな〜と、改めて思ったりするのです。

 砂時計を巡って、何篇もの短編小説が生まれそうだけど、そうした言葉や物語も、すーっと砂に埋もれていくだろう。儚さと尊さと美しさがあって、落ち切った時、ちょっと間をおいてひっくり返す。うっかりしてやり過ごした時間もみんなひとつになって、次のタイミングで逆さまにしてみると、新しい流れが始まる。

 砂時計って、こんなに色んなことをささやいていたんだな〜。今回は、寄り道して出会った砂時計のことを書いてみました。
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2010/10/13

川岸の鮭  雑感

  心地よい秋の一日が終わりました。今週末からはストーブが必要になるんだとか..。祝日の朝はいそいそと工房作業にとりかかりました。しばらくする、少し汗ばむほどでした。まじめに働いて、ひと段落したら、午後から少しだけ気分転換にラブフルートを持って外に出ることにしました。

 ほんとに気持ちの良い秋の空を見あげて、ガチガチに固まっていた身体を解放させてあげました。千歳川まで辿り着き、鮭が飛び跳ねるのを見たり、遡上している姿を見たり、水鳥たちの様子を眺めてのんびり過ごしました。

 一匹の鮭が岸辺に打ち上げられており、カラスたちが次々とやってきました。そこにカモメがやってきて、カラスを追い払うと、今度は人間たちが寄ってきてカモメは逃げ出す。この繰り返しでした。一匹の鮭が何羽ものカラスやカモメの命を繋いでいるのでした。

 愛用の双眼鏡でその様子を眺めていると、カラスたちの嘴の威力に圧倒されます。目と鼻の先で、カラスの鋭いくちばしが鮭を突いているのです。そのカラスたちにも縄張りがあり、優劣があり、激しい争いもあります。話し合って、みんなで仲良く分けましょうなんていうことはありません。ですが、うまい具合にそれなりに分け前にあずかれるように流れているのが面白くて、しばし眺めていました。

 食べられている鮭たちにだって争いはあるでしょう。闘いながら、争いながら、命をつないでいくわけです。もうすぐ厳しい冬がやってきます。景色は変わり、気温は下がり、雲も空も変化し始めています。

 美しい秋色の自然が素早く消え去る時、あれほど暑かった状況がマイナスの世界になっていくのですが、鮭にありつけなくなったカラスたちは何を食べて生き抜くのでしょう。勿論、様々な小鳥たちや獣や虫たちも、どうやって生き延び春に姿を現すのでしょう。

 自分も冬を生き抜くために懸命ですから、正直他の生き物たちのことに十分気を使ってはいられませんが、きっと春には再会できるのでしょう。それぞれに冬を生き延びる...それはなかなかすごいことだな..と思います。

 実りの秋の収穫物を頂きながら、冬に備えるというのは、楽しくて美味しくてすごく素敵なサイクルですね。
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2010/10/7

残されたメロディー  ラブフルート

  Oさんの棺に納められたクリのラブフルート。その経緯をKOCOMATSUを訪ねて来られたご主人から伺いました。病室でのレッスンをとても喜んでおられたOさん。フルートを吹いている姿や素敵な笑顔を鮮明に記憶しています。それから数週間後に亡くなられたのでした。

 ご主人は、フルートと一緒に見送る、手元に残しておくかどうか、随分と悩まれたと聞きました。結果的に一緒に見送られたそうです。これまでにも何人かの方々がラブフルートと一緒に旅立たれましたが、お一人お一人を顧みると様々な思いが心をよぎります。

 Oさんのご主人は、小さなラジカセを持ってこられました。KOCOMATSUで聴いてほしいと思って持ってきましたと云いながらテープをかけてくださいました。そこには闘病中の奥さまがラブフルートを手にした嬉しさと喜びがいっぱいの明るく軽やかな自作のラブフルートのメロディーが録音されていました。

 正直、長い闘病生活に加え、放射線治療の後遺症と闘っている日々に生まれたとは信じられませんでした。メロディーを聴いていると嬉しそうな笑顔が浮かんできます。こんなに、伸び伸びと、軽やかにフルートを楽しんでおられたことをテープを聴いて初めて知りました。

 全身に転移し、脳にまで進行していたOさんが、ベッドに横たわりながらも、明るいメロディーを楽しそうに吹いておられた背景には、体力や体調が許す限りフルートを楽もうとする時間があったのだと思います。帰宅したご主人にギターで伴奏してほしいと声を掛けられて驚いたそうです。その時、Oさんは二人の演奏を録音しており、病室でも聴き返していたようです。そのカセットテープを持ってきてくださったのでした。
 
 Oさんのフルートの音色を聴かれたご主人は、こういいました「もう少し生きたい」ではなく「私は生きる!」という響きでしたと。

 Oさんが弱り切って吹けなくなった時、ベットのそばでご主人がたどたどしいけれどラブフルートを吹いて過ごしましたと話してくださいました。

 最愛の奥さまを亡くされ、ラブフルートと一緒に見送ったご主人にかける言葉は限られていました。看病のために仕事を退職されたと云いますが、それは当然のことですし、そうすることに十分意味のある女性でしたと口にしておられました。

 そういう女性との出会いと人生の豊かさを感謝して受け止めながら、ご主人の道を堂々と歩んで行けるようにと密かに願っています。奥さまの手にされたクリと同じ素材のラブフルートにこだわらず、ご自分に相応しく必要な響きを求められることをお勧めしました。

 奥さまの仏壇の前で吹くためのフルートではなく、自分自身のために吹くマイフルートを選びたいと望まれたご主人。色んな響きを確かめながら4〜5時間過ごされてミズナラのクローズドタイプのラブフルートを選ばれました。フルートが完成してお渡しできる頃には、少し悲しみや寂しさが和らいでいますように...。
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