2014/5/31

蝦夷鹿の角とラブフルート  ラブフルート

展示会のこともあり、新しい試みとして、鹿の角を組み込んだラブフルートを2本製作しました。

ラブフルートに組み込まれる小さな部品ですから、鹿の角をつけたからと言ってさして大きな影響はないように思いますが、実際にはなかなか興味深いものがあります。

ラブフルートがエルク(鹿)人間から渡されたという物語と照らし合わせて見ると、さらに興味深いかと思います。

そもそも角のある生き物には不思議な力が潜んでいるように感じます。実際目の前で角と向き合うときに感じる独特のエネルギーは印象深いものです。

鹿の角の一部がラブフルートに組み込まれると不思議に獣の感覚、野生と繋がる感覚が生まれて来ます。仮面とか被り物に似ているのかもしれません。

別の表現をするなら、自分の中の動物的領域が刺激されるとも言えそうです。木と動物を皮紐で結ぶ笛。そこに自身の息を注ぐ時に浮かび上がる響き。そんな空間が生まれます。

生まれも育ちも北海道の桑の木とイタヤカエデに蝦夷鹿の角が組み込まれたラブフルートは鎌倉に旅立つことになりました。ペンタトニックスケールとは全くイメージの異なるオリジナルスケールのラブフルートは、どんな風を運んでくれるのでしょう。

いつか何処かで再会できるかもしれない楽しみを乗せた素朴な木の笛。もう少しで求める方のお手元にお届けする予定です。

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2014/5/20

A(ラ)からA(ラ)  雑感

「生まれたばかりの赤ちゃんは平均すると440サイクルのラで泣く。その後変声期までは、体の成長につれてラ音を中心に上下へ声域が広がる。

変声期を過ぎると、女性の方はそれまでの声域がやや上下に広がるだけあるのに対し、男性の方は声域全体が1オクターヴほど急降下する。

そして老いると、女性は声域が下がり男性は逆に上がる。この経緯を乱暴にまとめると、人間はみな、同じ高さの声で生まれ、途中で性差によって1オクターヴ以上も声域が離れるものの、、結局はほぼ同じ高さの声(赤ちゃんの時よりは約1オクターヴ近く下がった高さ)で死ぬということになる。」

引用-楽器からのメッセージ【音と楽器の人類学】 西岡信雄・著 音楽之友社 46頁

声の高さの経緯から幾つか興味深いことが思い浮かびます。かつてふとした切っ掛けで宝塚歌劇団の楽屋裏にお邪魔してラブフルートの個人レッスンをさせて頂いたことがありました。

この時、最初に美しい男装の女性とお姫様のような女性から挨拶を受けたのですが、立ち居振る舞いも身なりも男性なのに、声は無理して低くしているのでやや不自然というか、無理してるな…と感じた記憶があります。

男の子の産声が女の子より1オクターブ低かったら、ちょっと怖い?!引用した著書では、楽器の長さや大きさと音の高低を論じる部分なのですが、人間は成長した(長くなった)から音程が低くなるわけではないと言いたいところ、その導入部の記述です。

僕のところでボイスレッスンを受けられる方は、どちらかというと女性が多いのですが、音がどのように生まれてくるのか、呼吸と声帯との基本的な関係を重要なポイントとしてお伝えしています。産声は、文字通り呼吸と声が一緒に始まる瞬間です。この原点に可能な限り近いところでご自分の声の響きに出会う。

これは様々な道を辿って来られた個々人にとって、多様で複雑なプロセスから形成されている自己を根気良く解きほぐして行く地道な作業を意味します。言葉や知識に依存するタイプの場合、認識と現実(ご自分の実質)とのズレに直面し、さらに言葉を使って現状を打開しようとして行き詰まりを感じるというパターンを繰り返します。自分自身の体の中にある、小さな声帯が明らかに心のあり方、生き方と直結していること。この気付きと率直に向き合うことが、ボイスワークの始まりです。

発声はその人そのまんまなので、一人ひとり愛おしく感じます。無意識に力を入れたり、主張したり、特定の価値観を強調したり、客観性を維持しようとしたり、実に様々です。僕のポジションは、それぞれの響きが原初的な状態に接近するためのサポートです。

面白いことに、原初的な発声に近付くと、女性の声が男性的な声域と重なり始めるのです。自分の声って、こんな声だったのか…そんな印象を持たれることが多いようです。自分の奥にある響きは、身を守る様々な要素から解放された老年期を予見させるものかもしれません。

最初と最後は同じようなところに存在する声。なかなか興味深いことです。
声、言葉がどこから生まれているのか、自己の中心から生まれる呼吸と言葉が一体化する。心と言葉が一つになっている状態と言葉と内実が遊離している状態には、明らかな違いがあります。

人は誰しも、自己確信の中で自分の道を辿ろうとするのですが、知識や認識は容易に自己確信の状態を作り上げ、自己満足させるのが得意です。だからこそ、時折、自分自身はどこから言葉を生み出しているのか確かめる時間と場を持つ必要があるのだと思います。

並べたてられる言葉ではなく、その言葉がどこまで自分自身の内奥の響きと一つであるのかを丁寧に確かめて生きる事実を持っていることが大切だろうと思います。

ラブフルートのレッスンもボイスワークも、人生に組み込まれた大切な場であり、出会いなのでしょう。

同じ産声から始まったお互いが、いつしかそれぞれの人生の終結点に向かっている。知識と努力だけでは見出せない心と体の在り方そのものを素直に受け取る生き方。

どれほど知識が豊かで、雄弁であったとしても、心の奢りを支えにしている人が自分の姿に気付く切っ掛け…素直に心の扉を開き、声の響きの源に辿り着く魂そんな方々との出会いを楽しみにもう少し旅を続けて見たいと思っています。
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2014/5/9

愛の笛に携わる真意のカケラ  ラブフルート

愛の笛が手渡される時、そこに起こったこと。それはとても重要なことなのですが、単なるエピソードとして読み過ごされることが多いように思います。

小さな愛の笛にまつわる伝説に、それほど注意を寄せ、真剣に捉える人は少ないでしょう。神話学、あるいは心理学的な視点の有る方は、それなりに捉えることもあるかとは思います。

若者は聖なる輪の中心にある鏡の光に当たって気を失います。これはとても大切なイニシエーションなのですが、それは特定の年齢になればかならず通過する類のものではなく、個々の人生の特定のプロセスの中で待ち受けているものです。

自分の本質的な実態を浮かび上がらせる聖なる鏡。聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた時、到底目を開けていることなどできず、気を失うほどの衝撃を受ける。

その後に初めて愛の笛が手渡されるのです。そも意味は、一人一人が自分自身の事として真摯に受け止める時まで封印されているのです。人を愛すること、心の思いを表すこと。そこに開かれた道を歩むこと…。

ラブフルートは、様々な形で、それを求める方々の手に渡されるのだと思います。必ずしも、一様なプロセスを辿って手渡されるわけではなく、その心の歩みに相応しい流れとともに愛の笛が手渡された真意を知らされるのだと思います。

僕がラブフルートを作り続けている本来の意図は、笛の製作で生計を支えることではありません。そこに隠されている魂に必要なメッセージを、必要とする方にお伝えすることです。それは、僕自身にとってとても重要であり、存在を支える大きな力だからです。

あえて手作りで、時間をかけて、ひとりひとりの愛の笛を作る真意は、殆ど口にしたことはありませんし、流れ去るデジタル文字で伝わるとも思っていません。

仮に生活のためというだけであれば、フルートのバイヤーになったり、人を使って量産すれば済むことです。巧みに宣伝して広げるためにエネルギーを注げば良いのです。

しかし、そういう生き方は既に意味をなさないのです。何が自分という存在を生かし、支え、その道が示されるのか…。なぜ、いま自分がラブフルートとの関わりの中で生かされているのか…。

それはデジタル文字で書き記すものでもなく、仮に真摯に自らの道を歩こうとする人が求めるならば愛の笛と共にそっとお伝え出来ることがあるかもしれません。自分自身の心の内側の事実として、最期のときまで見詰め続け、死の扉の向こうで確かめることになるのでしょう。

僕が生かされている間に、どんな風に聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた方々の手に愛の笛を手渡せるのかは分らないのですが、そこに秘められた生命の知恵を巡って存分に語り合える出会いがあれば心は歓喜の中で震えるのでしょう。

そんな出会いがあろうとなかろうと、降り注ぐ光のように僕たちを包み込んでいる恩恵の中で、許される限り作らせていただけたなら幸いだと思っています。クリックすると元のサイズで表示します
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2014/5/2

アイヌの響きのラブフルート  ラブフルート

この春の展示会で初めて見て、聴いて、感じてもらえるアイヌ文様と東海岸の樺太アイヌに伝わる音階と北米インディアンのラブフルートを展示したのか。

その真意は言葉で伝えるのは難しいのですが、書き記すことで最低限のことは感じて頂ければ幸いです。世界先住民族会議といった動きがありましたが、およそ文化の継承や社会的課題などが取り上げられ、相互の強調と協力を願うものだったように思います。

有る特定の民族の強調は結果的に、社会との融合よりも、微妙な区別の主張になり微妙な対立や差別意識を広げて行く可能性を孕んでいるような気がするのです。

アイヌの方々が差別的な対応を受けて複雑な思いになる事も有るのですが、逆にアイヌの人たちから差別を受けたという声も聞こえて来ます。その根元には、個々の人間の心の問題が有るように思います。

民族が同じでも内部の差別や対立は起こりますし、民族が違っていても友情や協調も出来るでしょう。心臓の鼓動と呼吸で繋がっている人間としてどう生きるか。
昨年は鼓動を感じ、生命を感じる集い「月夜の宴」を開きましたが、今回製作したラブフルートは、その延長線上にあります。

言葉のやりとりが始まれば、結局何処か釈然としない要素が残ることが多いかもしれません。遠慮と気遣いが行き交って、なかなか深いところで一つになることが難しいのです。それが、言葉の特質であり、限界とも言えるような気がします。

あっちの楽器や歌と、こっちの楽器や歌でコラボするというパターンは、むしろ違いが強調され、何処かに違和感がありながらも、なんとか一緒にやるという感覚があります。

かつてスミソニアンの博物館で、インディアンの生活を描いた図を見たとき、アイヌの資料館にいるような錯覚を覚えました。それほど両者のライフスタイルは似ていたのです。

このときの体験を長く暖めていて、今回初めてアメリカ先住民の笛とアイヌの伝統音階を体現することになったのです。ですから出来上がって音を響かせるまでの間、ずっとワクワクしていました。頭で考えたことと、実際に浮かび上がる響きとは全く違います。まして、トンコリという弦楽器の表現と笛の表現には明らかな違いがあります。

先住民のアイヌの方々が生活する以前から、この大地は厳然と存在し、自然そのものが世界そのものだった。そこに繋がる響きが、未成熟な人間たちの心に語りかけるものは何なのか…僕はその響きに心を傾けながら、残りの旅路を全うしたいと思っています。

今回の展示会は、その小さな歩みの始まりかもしれません。この笛の響きが何をもたらすのか分かりませんが、いずれ何処かで、誰かが、一人の若者のように不思議な笛と出会い旅を始めるかもしれない…そんな密やかな楽しみを抱きながら、僕に与えられた命の呼吸を木の笛に巡らせ、そこから響いてくる囁きに心を寄せて行きたいと思っています。クリックすると元のサイズで表示します
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