2014/7/31

ラブフルート・東西南北  ラブフルート

昨年の9月に福岡県と熊本県を訪ねる機会を得て、ライブやワークショップをさせていただきました。福岡県には10年ほど前からラブフルート繋がりがあり、今回ようやく現地を訪ねることができたのでした。

その時お会いした皆さんの中から先日、3人の方がKOCOMATSUを訪れて下さいました。3人のうちお二人の姉妹は、8年前に北海道を訪れ、工房にも来られたことがありました。

当時、地元の農場にご案内して、トウモロコシを生で食べ、その甘さに感動しておられた記憶があります。今回は初めてのお友達と一緒に懐かしい農園を訪ねました。露地物トウモロコシの収穫初日の訪問でした。

二日間の交流ではラブフルート談義をはじめとして、様々な会話が生まれました。夕食にジンギスカンを食べることにして、工房の敷地で野菜いっぱいの楽しい時間を過ごしました。

KOCOMATSUを訪れる様々な方々を思い起こして見ますと、随分と様々な所から来られています。KOCOMATSUが生まれる前から、様々な方々をお迎えしてきましたが、少しづつ変化も見られます。

ライブ活動が盛んで、メディアにも取り上げられた時期には、物珍しさや好奇心で来られる方も少なくありませんでした。いざ、訪ねてみればごく普通の、どちらかといえば古い住宅だけで、裏側に小さなプレハブのハウス(工房)らしきものがあるだけでした。

あれ?普通の住宅なんですね…とか、お店じゃ無いんですねという声を何度も耳にしてきました。それでも、沖縄やアメリカからの来客があったり、10名以上の方々をいちどにお迎えし、ラブフルート体験をしていただいたこともありました。

手探りで始めたラブフルート工房の存在は、ゆっくりと伝言ゲームのように伝わって来ました。製作から、レッスン、ワークショップ、ライブと繋がりながら静かに輪が生まれて来ました。

僕が何者であるかはさして意味はなく、木々の響きがもたらす人の心と大自然との繋がりを感じて欲しいと密かに願う旅が続いています。

北から南、東から西へ

囁くように静やかな愛の笛の響き

それを必要とする方々の手に手渡されるために

もう少し 作らせて頂けそうです

響きを感じるライブも もう少しさせて頂けそうです

ありがたいことですimage.jpg
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2014/7/5

樺太アイヌの音階を奏でる旅  ラブフルート

先日は、絵本屋ひだまりの青田さんの紹介もあって、札幌「ばらのおうち文庫」の定例読書会に参加して来ました。滅多に外出しないので、貴重なお出掛けになりました。

そもそもはアイヌ関連やインディアン関連の絵本のことで青田さんとお話しして行く中で、広げて行く難しさ、微妙な問題などを伺いながら、今後の流れを考えていたところでした。

東海岸の樺太アイヌのトンコリ音階に繋がるラブフルートは長年の思いを具体的な形にしたものでした。そこに、アイヌ文様を彫る水野氏との出会いが繋がって、アイヌ文様を彫り込んだインディアンのフルート・ラブフルートが生まれたのでした。たったこれだけのことに10年以上を費やして来たことになりますが、時を感じて行動することの大切さを確かめる事にもなりました。

そこに「アイヌの絵本」をテーマに、寮美千子による朗読とお話があると知らされ、珍しく動いて見ることにしました。もし、そういう場でラブフルートの音色をお届けできたらとお伝えし、聴いていただくことができました。

寮さんのストレートなお話が心地よく、楽しい時間を過ごすことができました。それと同時に、アイヌの世界と繋がることの難しさを改めて感じる時間でもありました。

アリゾナやホピの居留地のお話など、「父は空 母は大地」を読みながらの時間もありました。絵巻き絵本のお話も興味深く伺いました。そしてアイヌ関連の絵本『おおかみのこがはしってきて』『イオマンテ』と、アイヌ文化財団が今年出版した読み物『フキノトウになった女の子』も取り上げられました。

僕自身はアイヌという壁は意識せずに、人として繋がるという生き方をして来たのですが、どうもそう簡単にはいかないこともいろいろあるのだな…と思わせる言葉を耳にするようになって来ました。

それはどちらか一方に問題があるということではなく、それぞれが持っている認識が複雑に絡み合っている感じがしています。勿論、全てを良い方向になど出来るはずも無いのですが、僕なりに何か小さな種粒のようなものになることは出来るかもしれない…

その始まりは、アイヌであることを隠し、自己嫌悪を感じている人との出会いでした。何故だろう?素朴な疑問から始まって、もう何十年も気に掛かって来ました。
後に、ネイティブアメリカンとの関わりも生まれ、ここでも民族問題が浮かび上がって来ました。

こうした現実は民族問題というよりも、人間がうごめく至る所に見受けられる自我の現れのような気がします。優越意識が生まれ、蔑みが起こる。これはとても小さなコミュニティーでも起こりうる現象でしょう。

表面的には相互に尊重しているように見えながら、一つ壁の向こうでは辛辣な批判や嘲笑が潜んでいる。自らの知識や認識と特定の価値観を結び付け、その目線で他者を見るというあり方は、人間である以上誰もそこから自由になることは無いのかもしれません。

正し過ぎる人たちは、その正しいという認識によって、激しい批判や対立をもたらし、時に思いもよらぬ残虐さをも正当化して来たのではないだろうか…
正しいという認識と権力が結び付き、それ以外の存在が抑圧される。この原理、現象が様々な社会現象の根底にあるように思います。

僕が感じているのは、何事かの知識や認識や信条を口にする前に、黙って静まること。目の前に起こっている現象を急いで判別せず、よくよく見つめること。人間として存在していることを素朴に受け止めることの大切さです。

木を削り、自らの息吹を注ぎ込み、生まれてくる木々の響きに心を寄せること。自分自身の鼓動とドラムの鼓動が繋がる時に湧き上がるものに心を寄せること。言葉を駆使することを止めるとき、初めて心はその思いを現し始める…。

そのひとつの象徴として、アメリカ先住民が吹いて来た木の笛を北海道の大地で育まれた木々で作り、北海道に先住していたアイヌの人たちの大切な文様を彫り込み、東海岸の樺太アイヌが大切にして来たトンコリの音階をラブフルートで奏でる旅を始めました。

言葉のやり取りから何かを見出そうとするよりも、黙ってアイヌが愛した音の響きを奏で続けること。それと同時に、整えられた音階からは気付き得ない響きを持つラブフルートを作り、奏で続ける…その大切さを感じながらの旅が続いています。


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