2014/11/27

変化し続ける ・ 存在の本質  ラブフルート

特定の事象を意味あるものとして強調すること。

それは様々な領域で見受けられるように思う。ここでは音の世界に関して考えてみたいと思う。

特定の周波数や音程と意識との関係性を分析し、その有用性を示すといったスタンス。

今回参加したウォータサウンドイメージの集いの中でも、さまざまな周波数の特性が提示されていた。

その有用性を示す説明も多種多様。愛の周波数、惑星の周波数、DNAを修復する周波数などなど。

どことなく、食べ物の栄養素や身体に良い食べ物といった世界にも似ている。
分析して特定の要素を強調する。それが情報として流れる。一時的な話題になる。なんらかの経済効果が生まれる。

そういうパターンが様々な世界で展開しているように感じる。この限られた時代の、特定の媒体が引き起こしている現象であると同時に、これまでも、これからも人間集団がもたらすパターンでもあるのだろう。その只中で、どう生きるかが問われているように思う。

あるものを強調することでうまれる意義と失うもののバランスは難しい。あれもよし、これもよしの連続で、最後にはどれもが良いとされるなら、ことさらに何事かを誇張する意味は失われるようにも思う。あるいは、良いものを取り上げれば、悪いものが生まれ相対的な世界が生まれる。

価値観は時の流れとともに変化し続ける。音の世界、音楽の世界も様々な波が生起する。

国際基準音が決められた経緯。およそ民族音楽の世界を除いて、大半がこれに準じてチューニングしている。

次々と基準音に準じる音楽が増え、そこから逸脱するのが難しくなる。かと思えば、特定の周波数が持ち上げられる。

統一された世界のイメージ、音楽は世界を繋ぐといった標語もある。

だが、どうだろう。誤解を覚悟で言うと、特定の音や音階が基準になり、あるいは特定の周波数が強調される世界にはどことなく不気味さもある。これは音の世界に限らず、メディアがもたらす価値観の固定化にも見られる現象だろう。

僕自身は、誰もが同じ音程を基準に一致する方向性ではなく、音の原点に帰る素朴な世界の必要を感じている。

とはいえ、実際の場では、基準音にチューニングした音楽家の中で、遠慮気味にお願いして、ダメダメで不安定な僕に合わせていただく感じになっている。

基準を立ち上げる権威への追従は、常に危険性をはらんでいる。自由であると歌う音楽が、実は自由に見えながら、危うさがあり本質を失いかねない。そんなことを漠然と感じることもある。

合わないもの、そぐわないものは否定され、退けられる世界。それがほとんど問題意識を感じないほど当たり前になっている。では、阻害されることを恐れて迎合するのか…

幸か不幸かラブフルートは、そういう基準的な音の世界には馴染みにくい。アウトサイダーな位置づけだろう。

ラブフルートの構造自体が、厳密な音程の保持が難しい。合わせられない訳ではないが、合わせようとすると無理が生じる。勿論、出来ないとか、合わせられないということではない。だが、合わせようとすると、どこかに大切な何かを諦めている感覚が残る。

不安定で揺らぎ続ける笛。音域も限られている。ある意味、現代の音楽の流れの中では軽視され、時に使い物にならない笛と言われるかもしれない。

とりわけ、厳密なチューニングを必要とする音楽の世界ではほとんど通用しないと決めつけられそうだ。

注意深く演奏することで合わせることは可能だが、失うものの大きさが気になる。ちゃんと合わせられますよというパフォーマンスにはなるのだが、それ以上ではなさそうな気もする。

比較的初期の頃、ラブフルート製作に関するNHKテレビ局の取材があり放映されたことがある。このとき音の数が少なく、音程が不安定で制約の多い笛であると説明した。

それは今も変わらない。それどころか、基準音に合わせたチューニングから離れて、感性だけで作った笛も製作している。また、そういう笛を求める人との出会いもゆっくりと広がっている。

音程とは別に、音量のこともある。ボリュームの大きさは、それがパフォーマンスのためなのかどうかとも関係がある。

人前で聴かせるのが音楽だと考えれば、ボリュームが求められるのは当然かもしれない。だが、何事かを伝えるためにボリュームを上げて行くと、さらにさらにと音量が増してくる。

ともすれば、音楽といいつつ騒音に近い空間になりかねない。

僕はどちらかと言えば静かな響きの笛を作っている。勿論、様々なニュアンスのものも要望に応じて作っている。

ただ、微細で微かな響きに心を寄せることを忘れれば、小さく弱い存在を軽視する生き方に慣れてしまい、いつしか自分自身をも失いかねないだろう。

人は、言葉や認識や価値観とは違うところに心を置き去りにしやすい。そんなことも考えたりする。

一見不安定で、頼りげなく、揺らぎながら響く笛の音の中には、これこそと強調される類の周波数も含めて、様々な心と繋がる不思議な響きの世界が潜んでいる。

時の流れとともに刻々と変化し続ける心を特定の領域にとどめることなく、流れ続け変化し続けること。

それが音楽の著しい特徴のように思う。音楽を媒体として人々と関わるときの土台もそのあたりあるのかもしれない。
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2014/11/1

人生いろいろ 音階いろいろ  ラブフルート

これまで手元に届いたトンコリに関する音階。それは全て異なっている。最初に聞いたのはN氏が用いている音階。次はM氏から聞いた樺太東海岸の音階。さらにF氏から伝え聞いた音階。どれも異なる。

手元にある文献に記載されているものは、先に知らされた3人のものとは異なるものが5種ほど。少なくとも8種ある事になる。1オクターブという捉え方がなく、かなり平坦で変化の少ない音階もある。

これらの音階は、平均律の音階に当てはめて分類したものだが、実際にはかなり自由に感覚的に奏でられていたと思われる。こうした音階の多用さは、トンコリに限られたものではなく三味線なども地域特有の音階が用いられていたことが知られている。

では、ネイティブアメリカンの笛はどうだろう。現在はマイナーペンタトニックが代表的なものとして普及している。これはネイティブの音階というよりも、白人たちが関わることで広がったことと関係がありそうだ。いわば西洋音階を基準に音階を作り、ギターやピアノといった楽器とのアンサンブルを前提に演奏し始めた事と関連がありそうだ。

僕の手元にある、いわゆるネイティブアメリカンたちのフルート演奏には、基準とされる音階にとらわれず、自由に奏でられているものがある。一般的に普及している音楽のイメージからすれば、調子っぱずれで、音楽性が無視されていると感じるようなものがある。固定された音階はなく、個々の音があり響きがある。

統一された価値観ではなく、個々の存在と結びついた音。それが笛という形になり、何らかの音の変化を伴うものであるならば、僕たちの時代とは全く異なる音が流れる世界があったのだろう。

音の世界が近代的価値観や認識と同調するのも、ひとつの流れだとは思う。ただ、音がもたらす個々の存在との関係性が、画一的になることで失われるものも少なくないだろう。

自分であることを知ることよりも、みんなと合わせることにエネルギーが使われる。価値観が固定化され、統一的方向に向かうことで、個としての存在感が希薄になり、自分を見失うのは、有る意味必然だろう。

統一された価値観が個々の安心安全満足を生み出すと考え、個々の特殊性が抑圧される世界。逆に個々の価値の肯定感が良しとされ、統一された価値観に危険性や不安を感じる。二極化され対立的に捉えれば、人間関係は自ずと二分化されて行くだろう。

どちらでもあり、どちらでもない、漂う感じ。どちらにも加担せず、自由に生きながら、この世界の豊かさを感じるコウモリスタイルが良さそうだ。

手狭で自己満足的な価値観に囚われて、あれは違う、これが本当だなどとジャンルやセクトに固執して短い人生を終わらせるのは残念な気がする。

はてさて、どんな人が現れて、どんなスタイルのラブフルートを求めて旅を始めるのか…。固定化したペンタトニックの音階を求めるのもよし、オリジナルの音階を選択するもよし、アイヌ音階や古代の音階を手にするもよし。

応じられる範囲で、多様なラブフルートを製作し、演奏して行くスタンスを楽しむのが良さそうだ。

鼓動があり、呼吸がある。大地に生きる。この素朴な原点に立って生きながら、生まれて来る思いが響きになる…。笛の音はいのちの証のひとつなのだろう。

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