2015/1/2

東北訪問ほうこく・2014・12・10〜16  ラブフルート

昨年末は相馬保育園の希望日程を中心に東北訪問交流と演奏の旅に出掛けました。
その詳細はFBに掲載していますが、いずれこのブログにも転載したいと思っています。今回同行してくださった石戸谷氏が、ご自身のブログで僕とは少し違った視点からの報告していますので、よろしければご覧ください。→川風便り http://www.st-glass.jp/blog

今回は4度目の訪問交流となり、同行者も4人目になりました。この間に現地の状況は当然のように変化し、支援を続けようという人々の意識も変化して来ました。

こうした変化は、被災地との関係に限られたものではなく、誰もが少なからず変化し続けているわけです。

今回の訪問は変化の先にあるものに目を向け、新たなスタンスで現実と向き合うための確認作業といった意味を含んだものになりました。

これまでは、予定された活動を実践するというスタンスであり、演奏などの間の限られた時間の中でやや落ち着かなく慌ただしい交流もありました。

今回は演奏や交流を基本としながらも、より個人的な領域での交流が実現しました。
積み上げてきた交流が、時を経て、新しい関係を生み出しているようにもおもいます。

逆の視点に立つと、支援という繋がりは薄れ、それぞれの場でよりよく生きていくための基本的な繋がりが始まっているように思います。

勿論、そこには放射能汚染の課題も具体的に関わってはいますが、じっくりと状況を見極める視点が必要だと感じます。現実に対する認識が多様であるのは、いつの時代、どんな世界でも変わらないでしょうから、自分自身がどんな視点に立つかは慎重でありたいと思っています。

具体的な変化は、時間の経過とともに、個々の状況に大きな差異が生じていること。ボランティアの受け入れに関しても、受け入れ態勢が十分ではなくなり始めています。生きて働かなくてはならないという現実に直面し、仮設住宅で依存的な状況に留まり続けることは出来なくなって来たのです。

動き出すしかないと考え始めれば、ボランティアの活動に合わせて待ち受ける余裕は無くなり、むしろボランティアの受け入れが負担になり始めています。

これはむしろ良い流れだと思います。ただし、動けない方々、先の見通しが立たない方々がおられる現実もあります。この点は、新たに考えていかなければならないのだと思います。

震災で止む無く作られた共同体は、被災体験とその後の変化によって、これまでの特殊な状況の中での繋がりが途切れ、新しいコミュニティーが始まるための過渡期を迎えているような気がします。

現地との繋がりを大切にしながら、これからの必要を感じ、新たなスタンスで動き出す必要を感じています。2015年に何が待ち受けているか、未知の要素がいっぱいですが、ひとまず現地訪問の報告でスタートを切りました。

ラブフルートを携えて続ける旅を今しばらく続けたいと思っています。これからもどうぞよろしくお願いします。

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2014/12/6

きらり コンサート  ラブフルート

この週末のコンサートは重度の障がいのある方々が集い、交流する「きらり」さんで開かれます。

最初はKOCOMATSUにおいで頂き、いろいろと交流させて頂きました。その後、こちらから「きらり」さんを訪ねました。

最初にお電話を頂いてから、KOCOMATSUでの交流、きらりさん訪問。この1ヶ月ほど、ずっと心の中を巡るものがありました。

知識を得て、能力を生かして社会の中で自分の場を得、経済的な基盤を得て生きる。一般的には、この素朴で平凡なパターンの中で自分の居場所を見つけて行くのだろう。

だが、それを全く望めない状況の中で生きて行く道もある。自立の可能性が低いばかりか、日常生活に介護を必要とする道を辿る。生まれ落ちたときから、片時も目を離せない。全ての営みに介助を必要とする。

そんな方々が少しでも安心して過ごせる場を提供するために開かれた場の一つが今回演奏させていただく「きらり」さんです。

代表の石黒さんはご子息との繋がりを広げながら「きらり」を開設されたとのことでした。木の笛を吹いているというだけで、声をかけてくださり、足を運んでくださり、「きらり」にもお招き頂きました。

僕は石黒さんのエネルギーを心地よく受け止めることが出来ました。一緒に笛を吹くことにしました。生命ある限り、寄り添い、手を差し出し、食事もトイレもお風呂も一緒。何処へも行けませんと口にする言葉の影には沢山の困惑や涙もあったことだろう。

果たして僕はどんな心を携えて「きらり」 に向かうのだろう。彼らの存在と介護するご家族は僕の心のどこに居てくれるのだろう。ぐるぐると思い巡らす時間がどれほど貴重なものだったか、改めて感じている。

呼吸という風で響く木の笛と鼓動と繋がるドラムたちを携え、心臓と脳の間にある喉という笛を通して、それぞれが辿る道の歌を歌う。そんな時間になりそうだ。

生命あるもの、呼吸と鼓動で繋がる存在。呼吸と鼓動が届けてくれるメッセージを感じ、共有するコンサートは6日の午前11:00〜

お互いが与えられている生命を生きる時間。存在することの絶大な恩恵と知恵を新たな時間と出会いの中で感じることになりそうだ。

出かける僕たち、迎えるみなさん。それぞれが楽しみ、喜び、次の一歩を感謝で迎えられますように…

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2014/11/27

変化し続ける ・ 存在の本質  ラブフルート

特定の事象を意味あるものとして強調すること。

それは様々な領域で見受けられるように思う。ここでは音の世界に関して考えてみたいと思う。

特定の周波数や音程と意識との関係性を分析し、その有用性を示すといったスタンス。

今回参加したウォータサウンドイメージの集いの中でも、さまざまな周波数の特性が提示されていた。

その有用性を示す説明も多種多様。愛の周波数、惑星の周波数、DNAを修復する周波数などなど。

どことなく、食べ物の栄養素や身体に良い食べ物といった世界にも似ている。
分析して特定の要素を強調する。それが情報として流れる。一時的な話題になる。なんらかの経済効果が生まれる。

そういうパターンが様々な世界で展開しているように感じる。この限られた時代の、特定の媒体が引き起こしている現象であると同時に、これまでも、これからも人間集団がもたらすパターンでもあるのだろう。その只中で、どう生きるかが問われているように思う。

あるものを強調することでうまれる意義と失うもののバランスは難しい。あれもよし、これもよしの連続で、最後にはどれもが良いとされるなら、ことさらに何事かを誇張する意味は失われるようにも思う。あるいは、良いものを取り上げれば、悪いものが生まれ相対的な世界が生まれる。

価値観は時の流れとともに変化し続ける。音の世界、音楽の世界も様々な波が生起する。

国際基準音が決められた経緯。およそ民族音楽の世界を除いて、大半がこれに準じてチューニングしている。

次々と基準音に準じる音楽が増え、そこから逸脱するのが難しくなる。かと思えば、特定の周波数が持ち上げられる。

統一された世界のイメージ、音楽は世界を繋ぐといった標語もある。

だが、どうだろう。誤解を覚悟で言うと、特定の音や音階が基準になり、あるいは特定の周波数が強調される世界にはどことなく不気味さもある。これは音の世界に限らず、メディアがもたらす価値観の固定化にも見られる現象だろう。

僕自身は、誰もが同じ音程を基準に一致する方向性ではなく、音の原点に帰る素朴な世界の必要を感じている。

とはいえ、実際の場では、基準音にチューニングした音楽家の中で、遠慮気味にお願いして、ダメダメで不安定な僕に合わせていただく感じになっている。

基準を立ち上げる権威への追従は、常に危険性をはらんでいる。自由であると歌う音楽が、実は自由に見えながら、危うさがあり本質を失いかねない。そんなことを漠然と感じることもある。

合わないもの、そぐわないものは否定され、退けられる世界。それがほとんど問題意識を感じないほど当たり前になっている。では、阻害されることを恐れて迎合するのか…

幸か不幸かラブフルートは、そういう基準的な音の世界には馴染みにくい。アウトサイダーな位置づけだろう。

ラブフルートの構造自体が、厳密な音程の保持が難しい。合わせられない訳ではないが、合わせようとすると無理が生じる。勿論、出来ないとか、合わせられないということではない。だが、合わせようとすると、どこかに大切な何かを諦めている感覚が残る。

不安定で揺らぎ続ける笛。音域も限られている。ある意味、現代の音楽の流れの中では軽視され、時に使い物にならない笛と言われるかもしれない。

とりわけ、厳密なチューニングを必要とする音楽の世界ではほとんど通用しないと決めつけられそうだ。

注意深く演奏することで合わせることは可能だが、失うものの大きさが気になる。ちゃんと合わせられますよというパフォーマンスにはなるのだが、それ以上ではなさそうな気もする。

比較的初期の頃、ラブフルート製作に関するNHKテレビ局の取材があり放映されたことがある。このとき音の数が少なく、音程が不安定で制約の多い笛であると説明した。

それは今も変わらない。それどころか、基準音に合わせたチューニングから離れて、感性だけで作った笛も製作している。また、そういう笛を求める人との出会いもゆっくりと広がっている。

音程とは別に、音量のこともある。ボリュームの大きさは、それがパフォーマンスのためなのかどうかとも関係がある。

人前で聴かせるのが音楽だと考えれば、ボリュームが求められるのは当然かもしれない。だが、何事かを伝えるためにボリュームを上げて行くと、さらにさらにと音量が増してくる。

ともすれば、音楽といいつつ騒音に近い空間になりかねない。

僕はどちらかと言えば静かな響きの笛を作っている。勿論、様々なニュアンスのものも要望に応じて作っている。

ただ、微細で微かな響きに心を寄せることを忘れれば、小さく弱い存在を軽視する生き方に慣れてしまい、いつしか自分自身をも失いかねないだろう。

人は、言葉や認識や価値観とは違うところに心を置き去りにしやすい。そんなことも考えたりする。

一見不安定で、頼りげなく、揺らぎながら響く笛の音の中には、これこそと強調される類の周波数も含めて、様々な心と繋がる不思議な響きの世界が潜んでいる。

時の流れとともに刻々と変化し続ける心を特定の領域にとどめることなく、流れ続け変化し続けること。

それが音楽の著しい特徴のように思う。音楽を媒体として人々と関わるときの土台もそのあたりあるのかもしれない。
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2014/11/1

人生いろいろ 音階いろいろ  ラブフルート

これまで手元に届いたトンコリに関する音階。それは全て異なっている。最初に聞いたのはN氏が用いている音階。次はM氏から聞いた樺太東海岸の音階。さらにF氏から伝え聞いた音階。どれも異なる。

手元にある文献に記載されているものは、先に知らされた3人のものとは異なるものが5種ほど。少なくとも8種ある事になる。1オクターブという捉え方がなく、かなり平坦で変化の少ない音階もある。

これらの音階は、平均律の音階に当てはめて分類したものだが、実際にはかなり自由に感覚的に奏でられていたと思われる。こうした音階の多用さは、トンコリに限られたものではなく三味線なども地域特有の音階が用いられていたことが知られている。

では、ネイティブアメリカンの笛はどうだろう。現在はマイナーペンタトニックが代表的なものとして普及している。これはネイティブの音階というよりも、白人たちが関わることで広がったことと関係がありそうだ。いわば西洋音階を基準に音階を作り、ギターやピアノといった楽器とのアンサンブルを前提に演奏し始めた事と関連がありそうだ。

僕の手元にある、いわゆるネイティブアメリカンたちのフルート演奏には、基準とされる音階にとらわれず、自由に奏でられているものがある。一般的に普及している音楽のイメージからすれば、調子っぱずれで、音楽性が無視されていると感じるようなものがある。固定された音階はなく、個々の音があり響きがある。

統一された価値観ではなく、個々の存在と結びついた音。それが笛という形になり、何らかの音の変化を伴うものであるならば、僕たちの時代とは全く異なる音が流れる世界があったのだろう。

音の世界が近代的価値観や認識と同調するのも、ひとつの流れだとは思う。ただ、音がもたらす個々の存在との関係性が、画一的になることで失われるものも少なくないだろう。

自分であることを知ることよりも、みんなと合わせることにエネルギーが使われる。価値観が固定化され、統一的方向に向かうことで、個としての存在感が希薄になり、自分を見失うのは、有る意味必然だろう。

統一された価値観が個々の安心安全満足を生み出すと考え、個々の特殊性が抑圧される世界。逆に個々の価値の肯定感が良しとされ、統一された価値観に危険性や不安を感じる。二極化され対立的に捉えれば、人間関係は自ずと二分化されて行くだろう。

どちらでもあり、どちらでもない、漂う感じ。どちらにも加担せず、自由に生きながら、この世界の豊かさを感じるコウモリスタイルが良さそうだ。

手狭で自己満足的な価値観に囚われて、あれは違う、これが本当だなどとジャンルやセクトに固執して短い人生を終わらせるのは残念な気がする。

はてさて、どんな人が現れて、どんなスタイルのラブフルートを求めて旅を始めるのか…。固定化したペンタトニックの音階を求めるのもよし、オリジナルの音階を選択するもよし、アイヌ音階や古代の音階を手にするもよし。

応じられる範囲で、多様なラブフルートを製作し、演奏して行くスタンスを楽しむのが良さそうだ。

鼓動があり、呼吸がある。大地に生きる。この素朴な原点に立って生きながら、生まれて来る思いが響きになる…。笛の音はいのちの証のひとつなのだろう。

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2014/10/16

アイヌ伝統音楽と愛の笛  ラブフルート

アイヌ伝統音楽の中に興味深い一文がある。それを
少し抜粋してみる。

トンコリに関する記述の中に「 それが独奏楽器として使用されるようになると固有の曲が生まれることになる。その曲は個人が独創した固有の曲節というものではなく、多くは自然界の音響の模倣であり、それを説明する言葉が曲の名前となる」 出典 「アイヌ伝統音楽」日本放送協会編
P520

この記述は「愛の笛」の物語の一節と酷似している。鹿人間から愛の笛を手渡された青年は生き物たちの真似をしながら笛の扱いを覚え、自分の心の思いを現すことを知って行く。自然と一体になることから始めたのだ。

それは存在の原点から始める行為。ひとつの原点回帰とも言えるだろう。

音楽の原点は、耳を澄ませ、心を傾け、よくこの世界を知り、感じ、学ぶ事なのだ。

昨年開いた、風を全身で感じるワークショップは、その一つの試みだった。風とは一体なんなのか...

ラブフルートのワークショップで、大切なのはフルートを吹く技術よりも、メンタルなことなのだ。

ラブフルートの存在。深くその意味を知り、自ずとラブフルートを吹きたくなる。この流れがポイントなのだ。

その構造の意味を知り、そこからどんな風が巻き起こり、心をどんな風に動かすのか。

木々が生み出す固有の響きが心にどのように働きかけるのか。

特定の周波数や響きを誇張するのではなく、複雑に変化し続ける揺らぎの中に隠された響きの不思議を感じ取る意識の重要性。

個々の響きと音程の変化がもたらす心との繋がり。認識や判断をこえた不可思議な響きが呼び起こすもの。

個性豊かな木々たちから届けられる固有のメッセージ。

言葉ではなく、なぜ木々の響きが心を現すのか。そんなひとつひとつの事を伝えるワークショップ。身体と呼吸と心のつながり。

これらはラブフルートの製作と並行して初めてバランスを保てるだろう。

ラブフルートを手に入れることの意味を深く受け取り、地道に伝えて行く数少ない出会い。

それが自分に残された時間の意味なのかもしれない。

ひとりでも木々の響きに耳を傾けたいと願う人がいれば、お招きし、あるいは出向いて行く...

今回は、長年高価で入手出来なかった「アイヌ伝統音楽」をようやく手に入れその一部を紹介してみた。
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2014/10/3

ほどよく混じり合う  ラブフルート

ラブフルートの響きに関して、その即興性や既存の音楽意識から自由になることを、幾分強調してみた。だが、そこにはバランスも必要になる。自在に楽しむ要素と、基本的な関わり方を知ること。この両面のバランスが取れると一層楽しみも喜びも豊かになるだろう。

レッスンでは、呼吸と笛との関わり方や笛と身体の一体感を大切な要素としてお伝えしている。循環する呼吸や血流、身体全体と笛が違和感なく無理のない形で保持できることを大切にしている。笛と指との関係も、有る程度基本的な要素を知っている方が良いかもしれない。

とはいえクラシック音楽を演奏するような厳密なものではなく、全員が一様のスタンスで取り組むようなものでもない。工房で作られているラブフルートは様々な形状をしているので、個々に創意工夫が必要になる。

一貫しているのは、可能な限り自然体で笛と繋がることだ。歌口の形状も、より無理のない感覚で笛と接するために、有る程度の選択肢を用意している。

呼吸の大切さをラブフルートの構造的な特徴と合わせてお伝えしているのだが、そこに若干思い込みが起こる可能性がある。循環性の意味を感じ取ることの大切さに意識が向きすぎると、物静かに吹かなければならないと受け止めやすい。逆に言えば、強く吹いたらダメといった意識が強くなる。

せっかくのラブフルート独自の構造を大切にしながら、自分ができるだけ自然な状態で笛の響きと繋がるためのアドバイスと考えていただければと思う。

基本的なスタンスを受け止めながら自由性を失わない。自由性を持ちながら、基本的なスタンスを大切にする。それは、より自由で自然な呼吸、無理のない状態で木の笛と繋がるためのプロセスとなる。

これは旋律的なものと自由自在なものとの関係にも言えることだ。旋律で有ることが悪いわけではない。旋律にこだわりすぎたり、旋律だけに意識が傾かないこと。既成の音楽に拘束されない自由さがバランスを生み出してくれるだろう。

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2014/10/2

ラブフルートで遊ぶココペリたち  ラブフルート

5穴もしくは6穴のラブフルート。その指穴を単純に開け閉めして、決められた音を出す。後は、音の並びをあれこれ変化させながらメロディーを奏でる。もし、それだけであれば、ラブフルートを手にした豊かさをの大半を押入れにしまいこむことになるだろう。

ラブフルートを旋律的な表現の手段と考え、ごく一般的な笛の使い方で終わらせネイティブ的な音の動きを模倣する単純作業になりかねない。

ラブフルートを手に入れることは情報が豊かな社会では比較的容易だろう。ただ、どのように自分自身と繋がる笛になって行くかを知る知恵がなければ、いずれ吹くことを忘れ去るだろう。

仮に、有る程度の楽曲を吹けるように習い事を始めたとしても、ネイティブたちが何故この笛を吹き続けてきたかを知るのは難しいだろう。

多分、笛と自由に戯れるときのアイデアをお伝えした後は、自分自身の心の流れとラブフルートが自在に繋がる瞬間を感じる地道な継続があるだけだろう。自分自身がどれほどユニークな存在として命を与えられているか、それを楽しみ喜ぶ笛。

その構造がもたらす意味については、これまでにも何度か視点を変えて掲載してきたが、いずれまとまった形で改めて掲載するつもりだ。

さて、基本の指の動きは、ごく単純に下穴から順番に開け閉めし、全開させ、今度は上穴から順番に開け閉めする。そのバリエーションで様々な音の流れが生まれる。これに様々なリズムが加わり、指の動きの変化が始まる。

だが、何よりも大切なのは、こうしたセオリーを完全に無視して、自分勝手に音を出したり、指を動かして見ることだ。幼子のように笛と戯れる。少々乱暴なようだが、そんな感覚で触れてみるのがいい。心の自由さが鍵になる。

「愛の笛」に登場する若者は動物たちの真似をしながら笛との関わりを感じ取って行った。だが真似るのは、動物に限らない。風も光も水も雲も虹も雪も太陽も月も星も…。まあ、思い付くもの出会うもの、内面の様々な変化も…。

呻くように、泣くように、笑うように、楽しみながら奏でる。その自由自在な表現力を知らないのはもったいない。

書道のお手本を見ながら筆を持つのではなく、新しくやってきた広大な半紙にのびのびと思うがままに筆を動かす。或いは、透明で立体的なキャンバスに、好きな色を使って思うがままに絵を描くといった感覚。呼吸という絵筆で描く感じです。

笛が持っている指穴を、単に開け閉めするのではなく、穴を分割して開けたり閉めたりする。指穴の開け閉めは、穴のサイズを変えるもよし、穴の上部に指をかざして風の流れを微細に変化させる。開け閉めの速度を微妙に変える。びっくり箱のように開けて見たり、急速に閉じてみる。穴に対する様々なアプローチに呼吸の強さの変化が加わる。

そんなこんなで戯れているうちに、自分独自の響きの世界が現れて来るだろう。多分、そんな笛を知ったら、聴いて見たいな〜というお友達も現れ、楽しい繋がりが生まれるだろう。

ラブフルートが人生の旅を豊かにし、自分自身の内面や周囲のあらゆる存在や事象をよくよく知り、感じる楽しみが響きになる。心の流れが歌になり、響きになる。

今回は、無料公開レッスン風の日記になった。こうした自由自在な笛吹きココペリがあちこちに現れたら、さぞ旅も楽しかろうと夢見つつ…。

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2014/10/1

今日は今日の歌を歌う  ラブフルート

ラブフルートの演奏がほぼ画一的にメロディーを奏で、一つのテーマを表現するスタイルを取り、実践するとしたらどうだろう。

ネイティブの世界との繋がりをもたらす笛が、近代的な価値観を継承することで維持されるという考え方もあるだろう。オーケストラの基準音に合わせ、近代音楽の音階やスタイルに習い楽曲を展開する。

そこでは、いわゆるインディアン風とされるメロディーや演奏スタイルが生み出され、次々とそれを模倣する流れが起こる。後は、ほぼ決まったように、様々なスタイルの音楽形態との組み合わせを展開する。結果的に個性は失われ、ネイティブの笛と言う象徴だけが残る。

フルートの形状も音の世界も、いつしか白人の描くインディアンイメージで形成されている気配があります。いわゆる曲を奏でるというスタイルは、必ずしもネイティブのものとは言えないだろう。

美しいメロディーを巧みに構成して起承転結をまとめ上げるのは、一つの価値観であり、是非を問うものではないだろう。ここでは価値観を対立させたいわけではない。個々人が自分自身のスタンスを求めるきっかけになれば十分だと思う。

工房を直接訪ねてくださる方には、こうした一連の視点や認識の断片をお伝えしてきたけれど、これはフルートを手にする事以上に重要な基盤と言えるだろう。

僕自身は、ごく普通に表現されている周辺の音楽とぶつかったり、単純にわけがわからないといった感覚にならないよう注意しながら演奏を続けてきた。取り分け初期の頃は、徐々に音色の世界を感じてもらい、歌謡やフォークに近いニュアンスの曲の比率を多くしてきた。その中に、時折ラブフルート固有の響きと即興で生まれたものを挟み込んできた。

数年前に、ラブフルートの響きだけのCDを製作し、一歩踏み込んで見た。即興性、瞬間の感性をダイレクトに表現するスタイルを中心にしたのだが、一般の音楽に慣れている方には物足りないとかよく分からない感覚が生じるだろうことを承知で製作した。また、フルート以外の音を全く取り入れないことで、一人の人間が一人で笛を吹く感覚を少し感じてもらえればと考えた。

それでも、そのCDはひとつのステップに過ぎない。音楽が、奏でて聞かせることを前提としているというスタンスから、ゆっくり変化し、自由度と個性の尊厳が豊かに形成されるものになって行けばと思っている。

単純にメロディーを反復し、再現性を大切にするスタイルとは別に、人生の全体が響きとなり、絶えず変化し続ける雲や風や水たちと繋がる世界。小鳥や獣たち、木々や花々、命ある世界の呼吸や鼓動と繋がる息吹が木々の響きとなって現れる。そんな瞬間の連なりの中で笛を吹く。

僕の工房でコツコツと続けられてきた小さなレッスン。かれこれ10年以上通い続けておられる方が、歌を詠み、メロディーを作って吹いていた時期を過ぎた頃、ポツリとひとこと「先生、作った曲を吹くよりも、その時その時の音を吹くのがいいですよね…」と。

長文ついでに、もうひとつ手短にマイフルートをお持ちの方向けに書いてみます。
いわゆる、曲として生真面目に吹くのもそれなりに楽しめるのですが、どうぞ学校教育や世間の音楽から離れて、自由気ままに生まれてくる音、響きを楽しんでみてください。それこそ自由自在に…。この詳細については、追って書き留めることにします。
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2014/9/29

繊細な心が微細な響きと繋がる  雑感

「ウォーター・サウンド・イメージ」の翻訳者のお話を伺うために急遽東京の神楽坂に出向いてから、しばらくあれこれと考える事があり、ブログへの書き込みは控えていた。

 話を聞きながら、音という現象が生み出すもの。その原点を探り、さまざまな事物、事象との関係性を認識する場に集中できたのは良かったと思う。

 現象を分析し、事例を多岐に渡って明示するパターンは貴重ではあるが、どこまでも多様な事例が羅列されるだけでは、進展性がないようにも思う。

 また、個々の現象が強調され、周波数と特定の領域との連関性を説明し、この先にはまだまだ未知の領域が隠されているという流れには、ある種の疑念も浮かんだ。

 個々の要素が強調され、お金の流れが起こる。それは、今回の集まり以外にも見られる時代の特性なのかもしれない。特定の栄養素が強調されたり、特定のアイテムが持ち上げられ、一時的に意識が集中する現象は、それが医学であれ、心理学であれ、様々な領域に見受けられるある種のムーブメントとも言えそうだ。

 そこにはメディアと呼ばれる媒体の特性が現れているとも言えそうだ。テーマを誇張し、食い付きのよさそうな文言を並べ立てる。それに釣られて、一時的に人が群がる。それが心理的誘導と必須アイテムとの組み合わせともなれば、一気にお金が集まる。

 自己陶酔タイプの群れが、流れ込む。どんな事象であれ、誇張され強調されれば、なるほどと頷きたくもなる。大半はイメージの拡張によって引き起こされる、一時的な反応の場合が少なくない。

 とりわけ、科学的とか、神秘的とか、体験的、医学的、歴史的、本質的などと表現される類。或いは、何々学的な視点と特定のアイテムとが結びつくと最強?これと併せて、情報や知識を本の受け売り状態で伝達するパターンもなくなりません。伝達手段が飽和状態になり個々人のオリジナリティーを失わせ、どこか一様な価値観の集団が一気に生まれる。

 10年経過したら、跡形もないようなことにつられてしまう。支払われたお金たちは、どこに行くのだろう。

 その辺りの事をあれこれ考えながら過ごしていた。自分を動かしている真の動機と方向性をじっくり見つめる作業を継続する事。その土台を確かめているうちに、1ケ月以上経過した。

 結果的に、その会場で勧められたアイテムの類は何一つ手に入れなかった。しかし、今回の上京ではアイテム入手以上に確実な成果があった。

 響きが引き起こす微細な変化との繋がりだ。工房に戻り、水や粒子と響き(周波数)との関係を視覚化する事で、視覚を超えた微細な現象と精神との緊密な関係を具体的に感じ取る事になった。

 ミリ単位で捕えていた世界を100分の1ミリ、もしくは1000分の1ミリ単位で感じるようになった。現象的には1000分の1ミリ程度しか感知できないが、心はそれを遥かに超えた繊細さで感じ取っているのだと思う。

 ラブフルートのレッスンでは、吹く事より聴いて感じることの大切さをお伝えしてきたが、これからはさらにその重要性をお伝えすることになるだろう。ミクロの視点が、僕たちの世界観を変えたように、響きの微細な世界を知ることは、存在する世界と心の繋がりの意味を変える事になるだろう。 クリックすると元のサイズで表示します
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2014/8/19

響きと形象の秘密を辿って東京日帰り  ラブフルート

ウォーター・サウンド・イメージという書籍が届いた。音の響きと造形の関係は長い間気になってきた。その類の書籍との出会いは幾つかあった。それと同時に、音の世界を視覚的に表現できる可能性を静かに模索してきた。

様々なアプローチをしている人たちがいることを知ってはいたが、装置が複雑で大掛かり、当然ハイコストのため手を出せる世界では無かった。音の振動と形象の不思議は微生物から天体を包括する根源的な要素であること。

今回入手した書籍は、その本質的な要素を様々な角度からまとめ上げている点で興味を引いた。久しぶりに好奇心と楽しみが湧く書籍に出会った。

監訳者 増川いづみ 氏の序文の中に(p1)「生命の根本原理、宇宙の根本原理として振動(音)により全てが形づくられているという、日本で昔から使われている“形霊”(かただま)という言葉をイメージさせます。」という記述があり、形霊についてゆっくり考察して見たいと思っている。

もう一つは、同じく監訳者序文の中に(p2)「様々な植物のいのちは水によって支えられ、その形は、ある特定の周波数帯を吸収するように長い歴史の中でプログラムされてきているので、それぞれの形は、ある特定の周波数を水に放ったときとほぼ同じような形になります。特に木などは一つ一つの植物の幹や種に、根本のいのちの中心にプログラムされた、「ある特定の周波数を捉えたい」という意思が働いていることをすごく感じます。」と記載されている。この認識に関してもう少し詳細を知りたいと思う。

実は、書籍が手元に届いた一週間間後に、監訳・解説者の増川いづみ氏の発刊記念イベントが開かれるとの告知が印刷されていた。定員70名、東京の中心街での開催となれば、参加は難しいかもしれないと思いつつも、ほぼ直感的に参加申請の申し込みをした。お盆休暇と重なっており、航空券入手のタイミングが怪しかった。

結果的に参加可能となり急遽東京日帰りで出向くことになった。書籍の解説というプランが、「出版契約上のこともあり、それはまた別の形で」ということになっていますという案内文があり、書籍以外のあれこれを知るチャンスに期待している。

科学と哲学と芸術の融合が、音と水と形象の事実から知る楽しみ。音と音楽、呼吸と木の響きの関係を原点から見詰める機会になればと思っている。

「ウォーター・サウンド・イメージ 」生命、物質、意識までもー
宇宙万物を象る《クリエイティブ・ミュージック》のすべて
アレクサンダー・R 著 増川いづみ 監訳・解説
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2014/8/14

北限の石笛  ラブフルート

すべての人に石が必要 というネイティブアメリカンの世界と繋がる絵本がある。北山耕平氏が翻訳されたが、久しく絶版になっていた。それが何年か前に、復刊希望が集まりサイズは異なるものの再版された。

石への好奇心は、かなり前からあった。ラブフルートのことで北アメリカのポートランドでホームステイさせていただいた時、家主のボブと石を巡る会話を楽しんだ。彼は石をコレクションにしており、専用の棚に思いでいっぱいの石を並べていた。カヌーでチンした時、川底に手を伸ばして拾い上げた石を嬉しそうに見せてくれた。

アメリカを発つ時、空港でお別れのハグをしたとき、彼は僕のポケットに何かを入れた。それは、彼が大切にしていた濃い緑の石だった。車の中に置いてあり、いつでも一緒にいた石だった。彼と僕のシンボルアニマルが一緒だった。その石にはスネークがブラストされていた。

今年になって、神道系の皆さんから演奏の依頼があり、打ち合わせに伺った際、神の言葉を読み始める前に石笛を吹くのだと教えていただいた。

古い記憶で、一度手のひらに収まるような小さな石笛を手渡され、吹いたことがあった。初めて口に当てたのだが、不思議とすんなり音が出た。

今回は石笛との繋がりが随分と接近した感じだった。石笛のレプリカを持って打ち合わせに来られた信者さんを見て、試しに僕も探してみようという気になった。

これまでにも、何気なく気に入った石ころを見つけて、机に並べたりして来たので、多分石好きなのだろう。ただし、キラキラした目立つ石は、綺麗だとは思うけれど、僕には似合わない気がしている。

何となく川原を探してみると、ものの15分ほどで3ヶ所穴のある石笛が見つかった。いしぶえ と書いて、いわぶえと呼ぶようだが、何故かは分からない。

初めて見つけた石笛は僕が住んでいる町の中心を流れる川の中流で出会った。そして、2個目の石笛はようやく訪れた利尻の海岸で出会った。石笛が見つかればいい思い出になるな…と思いつつ何気に足元から少し離れたところに目をやった。

すると、まさに目をやった最初のところに「ワタシハ イワブエ デス」と呼びかける石笛がいた。あまりに見事な、それそのものといった感じで、ちょっとびっくりするような石笛が待っていた。神の声を聞くために吹く石笛との印象的な出会いだった。出来過ぎ(笑)

空を切り裂くような鋭い響きにもなれば、小鳥のさえずりのようにも響く石笛。

どうやら僕は、心の思いを自由に現す力をくれるラブフルートと天の声に心を寄せる石笛を手に、与えられた息吹を注ぎながら新たな旅に向かうことになりそうだ。

実は、少し調子に乗って、今度は南の果て沖縄で石笛との出会いが会ったらいいななどと勝手に空想して楽しんでいる。

クリックすると元のサイズで表示します 地元の川の中流で出会った石笛

クリックすると元のサイズで表示します 利尻富士の裾野・海岸で出会った石笛
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2014/8/12

りしり・れぶん  雑感

利尻島 北の果て

玉響の夏も過ぎ去り

冬長い島


この歌は忘れかけたころ 何気なく心を吹き抜けて来た

初めて耳にしてから45年ほどの時が流れ

僕は 初めて 利尻島に会いに行った

20年ほど前 微かに浮かぶ利尻富士を 遥か遠くから眺めた記憶がある

今までに何度も訪れたいと思いながら

いくつもの夏が過ぎ去り

ゆるやかに 訪ねるときを待っていた

ある日 ふと風が吹き抜け 僕は礼文島に向かう船に乗った

利尻島がゆっくり 確実に 近づき くっきりと姿を見せてくれた

利尻富士はなかなかすっきりと姿を見せてくれないんですよ

そんな 島の人の声を聞きながら

利尻富士を見ながら過ごした 3日間

訪れる前日まで雨 戻った翌日から大荒れ

45年待っていた僕を 利尻は惜しげなく迎え入れてくれた

礼文の花たちが 言葉にならない 思いを歌ってくれた


海に浮かぶ山

しずやかに伸びる裾野が 人々を受け入れてくれる

山頂は鋭く険しいけれど 美しい

空と大地と海

天体の動きとひとつになった島

長く思い描いていた利尻は 新たな憧れの地になった

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初めて訪れた利尻を見ながら3000回ほどシャッターを切りましたが、堂々と聳え立つ利尻富士を見上げているうちに、写真に残す行為がつまらなくなりました。

何も記憶にとどめる手段を持たず、そこにある山そのものをそのものとして感じる瞬間の大切さを強く感じたのです。

長く憧れていた利尻は、イメージ以上に豊かでした。父は空 母は大地の朗読音楽ライブから一週間後のことでした。広大な海に浮かぶ山 利尻富士のシンプルさが空と海と大地、月と太陽と星々との一体感を凝縮して浮かび上がらせてくれました。

ありがちな観光地の匂いがほとんどなく 自然そのものの中で 素朴に生きる島の人々の姿も心地よく 何も無いのが嬉しい島でした。

他に見るものは何もない 山があるだけ…
北海道に生まれ育ったけれど、この二つの島に来て北海道に惚れてしまった気がします。

最初に書いた歌詞は、学生時代の先輩が作った曲の断片です。素朴で印象的で今でもメロディーを覚えています。誰も知らない、彼の歌を僕はなんとなく好きでした。

あの時から今日まで、思いがけないことが次々とやって来て、こんな所で生きている。一喜一憂のあれこれを、ことさらに言葉や文字にすることもなく、天空から滴るひとしずくのように落ちて終わるのがいい。大地に浸み込むもよし、海の一部になるのもいい。この世界に降り落ちて 世界とつながるいのちの楽しみ。

絵を描いたり 詩を書いたり 歌を歌ったり 笛を奏でたり ドラムを叩いたり
しばらく そんな風に 利尻で過ごして見たい

宗谷の山火事から必死に逃れたヒグマが泳いで 利尻に渡った…その足跡を見つけた島民達が山狩りをしてヒグマを追い立て海に出たところを船で追いかけて殴り殺したと聞いた。恐怖心からの事だろう。

アイヌの痕跡が至る所にある島だが、今現在はアイヌの血を引くものはいないと言う。ある時 疫病が流行り 医療的な処置の知識が無かったアイヌは次々と亡くなって行ったのだと言う。カムイが起こしていることだからと、受け入れて亡くなって行ったと聞いた。

利尻の事を中心的に書いたが、礼文島は利尻とは対照的で目立った山もなく、おとなしい地形が印象的だった。樹木は あっても背が低く 大半は低木と草原、草花で覆われていた。海風が激しすぎて樹木がそだたないのだという。異国の風情がする礼文。そこから遠くに見える利尻富士。この組み合わせが心憎い。

戻ってすぐに、今度はどんな季節に行こうかと楽しんでいる。出来れば人の少ない時がいいような気がしている。


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2014/7/31

ラブフルート・東西南北  ラブフルート

昨年の9月に福岡県と熊本県を訪ねる機会を得て、ライブやワークショップをさせていただきました。福岡県には10年ほど前からラブフルート繋がりがあり、今回ようやく現地を訪ねることができたのでした。

その時お会いした皆さんの中から先日、3人の方がKOCOMATSUを訪れて下さいました。3人のうちお二人の姉妹は、8年前に北海道を訪れ、工房にも来られたことがありました。

当時、地元の農場にご案内して、トウモロコシを生で食べ、その甘さに感動しておられた記憶があります。今回は初めてのお友達と一緒に懐かしい農園を訪ねました。露地物トウモロコシの収穫初日の訪問でした。

二日間の交流ではラブフルート談義をはじめとして、様々な会話が生まれました。夕食にジンギスカンを食べることにして、工房の敷地で野菜いっぱいの楽しい時間を過ごしました。

KOCOMATSUを訪れる様々な方々を思い起こして見ますと、随分と様々な所から来られています。KOCOMATSUが生まれる前から、様々な方々をお迎えしてきましたが、少しづつ変化も見られます。

ライブ活動が盛んで、メディアにも取り上げられた時期には、物珍しさや好奇心で来られる方も少なくありませんでした。いざ、訪ねてみればごく普通の、どちらかといえば古い住宅だけで、裏側に小さなプレハブのハウス(工房)らしきものがあるだけでした。

あれ?普通の住宅なんですね…とか、お店じゃ無いんですねという声を何度も耳にしてきました。それでも、沖縄やアメリカからの来客があったり、10名以上の方々をいちどにお迎えし、ラブフルート体験をしていただいたこともありました。

手探りで始めたラブフルート工房の存在は、ゆっくりと伝言ゲームのように伝わって来ました。製作から、レッスン、ワークショップ、ライブと繋がりながら静かに輪が生まれて来ました。

僕が何者であるかはさして意味はなく、木々の響きがもたらす人の心と大自然との繋がりを感じて欲しいと密かに願う旅が続いています。

北から南、東から西へ

囁くように静やかな愛の笛の響き

それを必要とする方々の手に手渡されるために

もう少し 作らせて頂けそうです

響きを感じるライブも もう少しさせて頂けそうです

ありがたいことですimage.jpg
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2014/7/5

樺太アイヌの音階を奏でる旅  ラブフルート

先日は、絵本屋ひだまりの青田さんの紹介もあって、札幌「ばらのおうち文庫」の定例読書会に参加して来ました。滅多に外出しないので、貴重なお出掛けになりました。

そもそもはアイヌ関連やインディアン関連の絵本のことで青田さんとお話しして行く中で、広げて行く難しさ、微妙な問題などを伺いながら、今後の流れを考えていたところでした。

東海岸の樺太アイヌのトンコリ音階に繋がるラブフルートは長年の思いを具体的な形にしたものでした。そこに、アイヌ文様を彫る水野氏との出会いが繋がって、アイヌ文様を彫り込んだインディアンのフルート・ラブフルートが生まれたのでした。たったこれだけのことに10年以上を費やして来たことになりますが、時を感じて行動することの大切さを確かめる事にもなりました。

そこに「アイヌの絵本」をテーマに、寮美千子による朗読とお話があると知らされ、珍しく動いて見ることにしました。もし、そういう場でラブフルートの音色をお届けできたらとお伝えし、聴いていただくことができました。

寮さんのストレートなお話が心地よく、楽しい時間を過ごすことができました。それと同時に、アイヌの世界と繋がることの難しさを改めて感じる時間でもありました。

アリゾナやホピの居留地のお話など、「父は空 母は大地」を読みながらの時間もありました。絵巻き絵本のお話も興味深く伺いました。そしてアイヌ関連の絵本『おおかみのこがはしってきて』『イオマンテ』と、アイヌ文化財団が今年出版した読み物『フキノトウになった女の子』も取り上げられました。

僕自身はアイヌという壁は意識せずに、人として繋がるという生き方をして来たのですが、どうもそう簡単にはいかないこともいろいろあるのだな…と思わせる言葉を耳にするようになって来ました。

それはどちらか一方に問題があるということではなく、それぞれが持っている認識が複雑に絡み合っている感じがしています。勿論、全てを良い方向になど出来るはずも無いのですが、僕なりに何か小さな種粒のようなものになることは出来るかもしれない…

その始まりは、アイヌであることを隠し、自己嫌悪を感じている人との出会いでした。何故だろう?素朴な疑問から始まって、もう何十年も気に掛かって来ました。
後に、ネイティブアメリカンとの関わりも生まれ、ここでも民族問題が浮かび上がって来ました。

こうした現実は民族問題というよりも、人間がうごめく至る所に見受けられる自我の現れのような気がします。優越意識が生まれ、蔑みが起こる。これはとても小さなコミュニティーでも起こりうる現象でしょう。

表面的には相互に尊重しているように見えながら、一つ壁の向こうでは辛辣な批判や嘲笑が潜んでいる。自らの知識や認識と特定の価値観を結び付け、その目線で他者を見るというあり方は、人間である以上誰もそこから自由になることは無いのかもしれません。

正し過ぎる人たちは、その正しいという認識によって、激しい批判や対立をもたらし、時に思いもよらぬ残虐さをも正当化して来たのではないだろうか…
正しいという認識と権力が結び付き、それ以外の存在が抑圧される。この原理、現象が様々な社会現象の根底にあるように思います。

僕が感じているのは、何事かの知識や認識や信条を口にする前に、黙って静まること。目の前に起こっている現象を急いで判別せず、よくよく見つめること。人間として存在していることを素朴に受け止めることの大切さです。

木を削り、自らの息吹を注ぎ込み、生まれてくる木々の響きに心を寄せること。自分自身の鼓動とドラムの鼓動が繋がる時に湧き上がるものに心を寄せること。言葉を駆使することを止めるとき、初めて心はその思いを現し始める…。

そのひとつの象徴として、アメリカ先住民が吹いて来た木の笛を北海道の大地で育まれた木々で作り、北海道に先住していたアイヌの人たちの大切な文様を彫り込み、東海岸の樺太アイヌが大切にして来たトンコリの音階をラブフルートで奏でる旅を始めました。

言葉のやり取りから何かを見出そうとするよりも、黙ってアイヌが愛した音の響きを奏で続けること。それと同時に、整えられた音階からは気付き得ない響きを持つラブフルートを作り、奏で続ける…その大切さを感じながらの旅が続いています。


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2014/5/31

蝦夷鹿の角とラブフルート  ラブフルート

展示会のこともあり、新しい試みとして、鹿の角を組み込んだラブフルートを2本製作しました。

ラブフルートに組み込まれる小さな部品ですから、鹿の角をつけたからと言ってさして大きな影響はないように思いますが、実際にはなかなか興味深いものがあります。

ラブフルートがエルク(鹿)人間から渡されたという物語と照らし合わせて見ると、さらに興味深いかと思います。

そもそも角のある生き物には不思議な力が潜んでいるように感じます。実際目の前で角と向き合うときに感じる独特のエネルギーは印象深いものです。

鹿の角の一部がラブフルートに組み込まれると不思議に獣の感覚、野生と繋がる感覚が生まれて来ます。仮面とか被り物に似ているのかもしれません。

別の表現をするなら、自分の中の動物的領域が刺激されるとも言えそうです。木と動物を皮紐で結ぶ笛。そこに自身の息を注ぐ時に浮かび上がる響き。そんな空間が生まれます。

生まれも育ちも北海道の桑の木とイタヤカエデに蝦夷鹿の角が組み込まれたラブフルートは鎌倉に旅立つことになりました。ペンタトニックスケールとは全くイメージの異なるオリジナルスケールのラブフルートは、どんな風を運んでくれるのでしょう。

いつか何処かで再会できるかもしれない楽しみを乗せた素朴な木の笛。もう少しで求める方のお手元にお届けする予定です。

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