2014/11/1

人生いろいろ 音階いろいろ  ラブフルート

これまで手元に届いたトンコリに関する音階。それは全て異なっている。最初に聞いたのはN氏が用いている音階。次はM氏から聞いた樺太東海岸の音階。さらにF氏から伝え聞いた音階。どれも異なる。

手元にある文献に記載されているものは、先に知らされた3人のものとは異なるものが5種ほど。少なくとも8種ある事になる。1オクターブという捉え方がなく、かなり平坦で変化の少ない音階もある。

これらの音階は、平均律の音階に当てはめて分類したものだが、実際にはかなり自由に感覚的に奏でられていたと思われる。こうした音階の多用さは、トンコリに限られたものではなく三味線なども地域特有の音階が用いられていたことが知られている。

では、ネイティブアメリカンの笛はどうだろう。現在はマイナーペンタトニックが代表的なものとして普及している。これはネイティブの音階というよりも、白人たちが関わることで広がったことと関係がありそうだ。いわば西洋音階を基準に音階を作り、ギターやピアノといった楽器とのアンサンブルを前提に演奏し始めた事と関連がありそうだ。

僕の手元にある、いわゆるネイティブアメリカンたちのフルート演奏には、基準とされる音階にとらわれず、自由に奏でられているものがある。一般的に普及している音楽のイメージからすれば、調子っぱずれで、音楽性が無視されていると感じるようなものがある。固定された音階はなく、個々の音があり響きがある。

統一された価値観ではなく、個々の存在と結びついた音。それが笛という形になり、何らかの音の変化を伴うものであるならば、僕たちの時代とは全く異なる音が流れる世界があったのだろう。

音の世界が近代的価値観や認識と同調するのも、ひとつの流れだとは思う。ただ、音がもたらす個々の存在との関係性が、画一的になることで失われるものも少なくないだろう。

自分であることを知ることよりも、みんなと合わせることにエネルギーが使われる。価値観が固定化され、統一的方向に向かうことで、個としての存在感が希薄になり、自分を見失うのは、有る意味必然だろう。

統一された価値観が個々の安心安全満足を生み出すと考え、個々の特殊性が抑圧される世界。逆に個々の価値の肯定感が良しとされ、統一された価値観に危険性や不安を感じる。二極化され対立的に捉えれば、人間関係は自ずと二分化されて行くだろう。

どちらでもあり、どちらでもない、漂う感じ。どちらにも加担せず、自由に生きながら、この世界の豊かさを感じるコウモリスタイルが良さそうだ。

手狭で自己満足的な価値観に囚われて、あれは違う、これが本当だなどとジャンルやセクトに固執して短い人生を終わらせるのは残念な気がする。

はてさて、どんな人が現れて、どんなスタイルのラブフルートを求めて旅を始めるのか…。固定化したペンタトニックの音階を求めるのもよし、オリジナルの音階を選択するもよし、アイヌ音階や古代の音階を手にするもよし。

応じられる範囲で、多様なラブフルートを製作し、演奏して行くスタンスを楽しむのが良さそうだ。

鼓動があり、呼吸がある。大地に生きる。この素朴な原点に立って生きながら、生まれて来る思いが響きになる…。笛の音はいのちの証のひとつなのだろう。

クリックすると元のサイズで表示します
5

2014/10/16

アイヌ伝統音楽と愛の笛  ラブフルート

アイヌ伝統音楽の中に興味深い一文がある。それを
少し抜粋してみる。

トンコリに関する記述の中に「 それが独奏楽器として使用されるようになると固有の曲が生まれることになる。その曲は個人が独創した固有の曲節というものではなく、多くは自然界の音響の模倣であり、それを説明する言葉が曲の名前となる」 出典 「アイヌ伝統音楽」日本放送協会編
P520

この記述は「愛の笛」の物語の一節と酷似している。鹿人間から愛の笛を手渡された青年は生き物たちの真似をしながら笛の扱いを覚え、自分の心の思いを現すことを知って行く。自然と一体になることから始めたのだ。

それは存在の原点から始める行為。ひとつの原点回帰とも言えるだろう。

音楽の原点は、耳を澄ませ、心を傾け、よくこの世界を知り、感じ、学ぶ事なのだ。

昨年開いた、風を全身で感じるワークショップは、その一つの試みだった。風とは一体なんなのか...

ラブフルートのワークショップで、大切なのはフルートを吹く技術よりも、メンタルなことなのだ。

ラブフルートの存在。深くその意味を知り、自ずとラブフルートを吹きたくなる。この流れがポイントなのだ。

その構造の意味を知り、そこからどんな風が巻き起こり、心をどんな風に動かすのか。

木々が生み出す固有の響きが心にどのように働きかけるのか。

特定の周波数や響きを誇張するのではなく、複雑に変化し続ける揺らぎの中に隠された響きの不思議を感じ取る意識の重要性。

個々の響きと音程の変化がもたらす心との繋がり。認識や判断をこえた不可思議な響きが呼び起こすもの。

個性豊かな木々たちから届けられる固有のメッセージ。

言葉ではなく、なぜ木々の響きが心を現すのか。そんなひとつひとつの事を伝えるワークショップ。身体と呼吸と心のつながり。

これらはラブフルートの製作と並行して初めてバランスを保てるだろう。

ラブフルートを手に入れることの意味を深く受け取り、地道に伝えて行く数少ない出会い。

それが自分に残された時間の意味なのかもしれない。

ひとりでも木々の響きに耳を傾けたいと願う人がいれば、お招きし、あるいは出向いて行く...

今回は、長年高価で入手出来なかった「アイヌ伝統音楽」をようやく手に入れその一部を紹介してみた。
3

2014/10/3

ほどよく混じり合う  ラブフルート

ラブフルートの響きに関して、その即興性や既存の音楽意識から自由になることを、幾分強調してみた。だが、そこにはバランスも必要になる。自在に楽しむ要素と、基本的な関わり方を知ること。この両面のバランスが取れると一層楽しみも喜びも豊かになるだろう。

レッスンでは、呼吸と笛との関わり方や笛と身体の一体感を大切な要素としてお伝えしている。循環する呼吸や血流、身体全体と笛が違和感なく無理のない形で保持できることを大切にしている。笛と指との関係も、有る程度基本的な要素を知っている方が良いかもしれない。

とはいえクラシック音楽を演奏するような厳密なものではなく、全員が一様のスタンスで取り組むようなものでもない。工房で作られているラブフルートは様々な形状をしているので、個々に創意工夫が必要になる。

一貫しているのは、可能な限り自然体で笛と繋がることだ。歌口の形状も、より無理のない感覚で笛と接するために、有る程度の選択肢を用意している。

呼吸の大切さをラブフルートの構造的な特徴と合わせてお伝えしているのだが、そこに若干思い込みが起こる可能性がある。循環性の意味を感じ取ることの大切さに意識が向きすぎると、物静かに吹かなければならないと受け止めやすい。逆に言えば、強く吹いたらダメといった意識が強くなる。

せっかくのラブフルート独自の構造を大切にしながら、自分ができるだけ自然な状態で笛の響きと繋がるためのアドバイスと考えていただければと思う。

基本的なスタンスを受け止めながら自由性を失わない。自由性を持ちながら、基本的なスタンスを大切にする。それは、より自由で自然な呼吸、無理のない状態で木の笛と繋がるためのプロセスとなる。

これは旋律的なものと自由自在なものとの関係にも言えることだ。旋律で有ることが悪いわけではない。旋律にこだわりすぎたり、旋律だけに意識が傾かないこと。既成の音楽に拘束されない自由さがバランスを生み出してくれるだろう。

クリックすると元のサイズで表示します
3

2014/10/2

ラブフルートで遊ぶココペリたち  ラブフルート

5穴もしくは6穴のラブフルート。その指穴を単純に開け閉めして、決められた音を出す。後は、音の並びをあれこれ変化させながらメロディーを奏でる。もし、それだけであれば、ラブフルートを手にした豊かさをの大半を押入れにしまいこむことになるだろう。

ラブフルートを旋律的な表現の手段と考え、ごく一般的な笛の使い方で終わらせネイティブ的な音の動きを模倣する単純作業になりかねない。

ラブフルートを手に入れることは情報が豊かな社会では比較的容易だろう。ただ、どのように自分自身と繋がる笛になって行くかを知る知恵がなければ、いずれ吹くことを忘れ去るだろう。

仮に、有る程度の楽曲を吹けるように習い事を始めたとしても、ネイティブたちが何故この笛を吹き続けてきたかを知るのは難しいだろう。

多分、笛と自由に戯れるときのアイデアをお伝えした後は、自分自身の心の流れとラブフルートが自在に繋がる瞬間を感じる地道な継続があるだけだろう。自分自身がどれほどユニークな存在として命を与えられているか、それを楽しみ喜ぶ笛。

その構造がもたらす意味については、これまでにも何度か視点を変えて掲載してきたが、いずれまとまった形で改めて掲載するつもりだ。

さて、基本の指の動きは、ごく単純に下穴から順番に開け閉めし、全開させ、今度は上穴から順番に開け閉めする。そのバリエーションで様々な音の流れが生まれる。これに様々なリズムが加わり、指の動きの変化が始まる。

だが、何よりも大切なのは、こうしたセオリーを完全に無視して、自分勝手に音を出したり、指を動かして見ることだ。幼子のように笛と戯れる。少々乱暴なようだが、そんな感覚で触れてみるのがいい。心の自由さが鍵になる。

「愛の笛」に登場する若者は動物たちの真似をしながら笛との関わりを感じ取って行った。だが真似るのは、動物に限らない。風も光も水も雲も虹も雪も太陽も月も星も…。まあ、思い付くもの出会うもの、内面の様々な変化も…。

呻くように、泣くように、笑うように、楽しみながら奏でる。その自由自在な表現力を知らないのはもったいない。

書道のお手本を見ながら筆を持つのではなく、新しくやってきた広大な半紙にのびのびと思うがままに筆を動かす。或いは、透明で立体的なキャンバスに、好きな色を使って思うがままに絵を描くといった感覚。呼吸という絵筆で描く感じです。

笛が持っている指穴を、単に開け閉めするのではなく、穴を分割して開けたり閉めたりする。指穴の開け閉めは、穴のサイズを変えるもよし、穴の上部に指をかざして風の流れを微細に変化させる。開け閉めの速度を微妙に変える。びっくり箱のように開けて見たり、急速に閉じてみる。穴に対する様々なアプローチに呼吸の強さの変化が加わる。

そんなこんなで戯れているうちに、自分独自の響きの世界が現れて来るだろう。多分、そんな笛を知ったら、聴いて見たいな〜というお友達も現れ、楽しい繋がりが生まれるだろう。

ラブフルートが人生の旅を豊かにし、自分自身の内面や周囲のあらゆる存在や事象をよくよく知り、感じる楽しみが響きになる。心の流れが歌になり、響きになる。

今回は、無料公開レッスン風の日記になった。こうした自由自在な笛吹きココペリがあちこちに現れたら、さぞ旅も楽しかろうと夢見つつ…。

クリックすると元のサイズで表示します
3

2014/10/1

今日は今日の歌を歌う  ラブフルート

ラブフルートの演奏がほぼ画一的にメロディーを奏で、一つのテーマを表現するスタイルを取り、実践するとしたらどうだろう。

ネイティブの世界との繋がりをもたらす笛が、近代的な価値観を継承することで維持されるという考え方もあるだろう。オーケストラの基準音に合わせ、近代音楽の音階やスタイルに習い楽曲を展開する。

そこでは、いわゆるインディアン風とされるメロディーや演奏スタイルが生み出され、次々とそれを模倣する流れが起こる。後は、ほぼ決まったように、様々なスタイルの音楽形態との組み合わせを展開する。結果的に個性は失われ、ネイティブの笛と言う象徴だけが残る。

フルートの形状も音の世界も、いつしか白人の描くインディアンイメージで形成されている気配があります。いわゆる曲を奏でるというスタイルは、必ずしもネイティブのものとは言えないだろう。

美しいメロディーを巧みに構成して起承転結をまとめ上げるのは、一つの価値観であり、是非を問うものではないだろう。ここでは価値観を対立させたいわけではない。個々人が自分自身のスタンスを求めるきっかけになれば十分だと思う。

工房を直接訪ねてくださる方には、こうした一連の視点や認識の断片をお伝えしてきたけれど、これはフルートを手にする事以上に重要な基盤と言えるだろう。

僕自身は、ごく普通に表現されている周辺の音楽とぶつかったり、単純にわけがわからないといった感覚にならないよう注意しながら演奏を続けてきた。取り分け初期の頃は、徐々に音色の世界を感じてもらい、歌謡やフォークに近いニュアンスの曲の比率を多くしてきた。その中に、時折ラブフルート固有の響きと即興で生まれたものを挟み込んできた。

数年前に、ラブフルートの響きだけのCDを製作し、一歩踏み込んで見た。即興性、瞬間の感性をダイレクトに表現するスタイルを中心にしたのだが、一般の音楽に慣れている方には物足りないとかよく分からない感覚が生じるだろうことを承知で製作した。また、フルート以外の音を全く取り入れないことで、一人の人間が一人で笛を吹く感覚を少し感じてもらえればと考えた。

それでも、そのCDはひとつのステップに過ぎない。音楽が、奏でて聞かせることを前提としているというスタンスから、ゆっくり変化し、自由度と個性の尊厳が豊かに形成されるものになって行けばと思っている。

単純にメロディーを反復し、再現性を大切にするスタイルとは別に、人生の全体が響きとなり、絶えず変化し続ける雲や風や水たちと繋がる世界。小鳥や獣たち、木々や花々、命ある世界の呼吸や鼓動と繋がる息吹が木々の響きとなって現れる。そんな瞬間の連なりの中で笛を吹く。

僕の工房でコツコツと続けられてきた小さなレッスン。かれこれ10年以上通い続けておられる方が、歌を詠み、メロディーを作って吹いていた時期を過ぎた頃、ポツリとひとこと「先生、作った曲を吹くよりも、その時その時の音を吹くのがいいですよね…」と。

長文ついでに、もうひとつ手短にマイフルートをお持ちの方向けに書いてみます。
いわゆる、曲として生真面目に吹くのもそれなりに楽しめるのですが、どうぞ学校教育や世間の音楽から離れて、自由気ままに生まれてくる音、響きを楽しんでみてください。それこそ自由自在に…。この詳細については、追って書き留めることにします。
クリックすると元のサイズで表示します
3

2014/8/19

響きと形象の秘密を辿って東京日帰り  ラブフルート

ウォーター・サウンド・イメージという書籍が届いた。音の響きと造形の関係は長い間気になってきた。その類の書籍との出会いは幾つかあった。それと同時に、音の世界を視覚的に表現できる可能性を静かに模索してきた。

様々なアプローチをしている人たちがいることを知ってはいたが、装置が複雑で大掛かり、当然ハイコストのため手を出せる世界では無かった。音の振動と形象の不思議は微生物から天体を包括する根源的な要素であること。

今回入手した書籍は、その本質的な要素を様々な角度からまとめ上げている点で興味を引いた。久しぶりに好奇心と楽しみが湧く書籍に出会った。

監訳者 増川いづみ 氏の序文の中に(p1)「生命の根本原理、宇宙の根本原理として振動(音)により全てが形づくられているという、日本で昔から使われている“形霊”(かただま)という言葉をイメージさせます。」という記述があり、形霊についてゆっくり考察して見たいと思っている。

もう一つは、同じく監訳者序文の中に(p2)「様々な植物のいのちは水によって支えられ、その形は、ある特定の周波数帯を吸収するように長い歴史の中でプログラムされてきているので、それぞれの形は、ある特定の周波数を水に放ったときとほぼ同じような形になります。特に木などは一つ一つの植物の幹や種に、根本のいのちの中心にプログラムされた、「ある特定の周波数を捉えたい」という意思が働いていることをすごく感じます。」と記載されている。この認識に関してもう少し詳細を知りたいと思う。

実は、書籍が手元に届いた一週間間後に、監訳・解説者の増川いづみ氏の発刊記念イベントが開かれるとの告知が印刷されていた。定員70名、東京の中心街での開催となれば、参加は難しいかもしれないと思いつつも、ほぼ直感的に参加申請の申し込みをした。お盆休暇と重なっており、航空券入手のタイミングが怪しかった。

結果的に参加可能となり急遽東京日帰りで出向くことになった。書籍の解説というプランが、「出版契約上のこともあり、それはまた別の形で」ということになっていますという案内文があり、書籍以外のあれこれを知るチャンスに期待している。

科学と哲学と芸術の融合が、音と水と形象の事実から知る楽しみ。音と音楽、呼吸と木の響きの関係を原点から見詰める機会になればと思っている。

「ウォーター・サウンド・イメージ 」生命、物質、意識までもー
宇宙万物を象る《クリエイティブ・ミュージック》のすべて
アレクサンダー・R 著 増川いづみ 監訳・解説
クリックすると元のサイズで表示します
0

2014/8/14

北限の石笛  ラブフルート

すべての人に石が必要 というネイティブアメリカンの世界と繋がる絵本がある。北山耕平氏が翻訳されたが、久しく絶版になっていた。それが何年か前に、復刊希望が集まりサイズは異なるものの再版された。

石への好奇心は、かなり前からあった。ラブフルートのことで北アメリカのポートランドでホームステイさせていただいた時、家主のボブと石を巡る会話を楽しんだ。彼は石をコレクションにしており、専用の棚に思いでいっぱいの石を並べていた。カヌーでチンした時、川底に手を伸ばして拾い上げた石を嬉しそうに見せてくれた。

アメリカを発つ時、空港でお別れのハグをしたとき、彼は僕のポケットに何かを入れた。それは、彼が大切にしていた濃い緑の石だった。車の中に置いてあり、いつでも一緒にいた石だった。彼と僕のシンボルアニマルが一緒だった。その石にはスネークがブラストされていた。

今年になって、神道系の皆さんから演奏の依頼があり、打ち合わせに伺った際、神の言葉を読み始める前に石笛を吹くのだと教えていただいた。

古い記憶で、一度手のひらに収まるような小さな石笛を手渡され、吹いたことがあった。初めて口に当てたのだが、不思議とすんなり音が出た。

今回は石笛との繋がりが随分と接近した感じだった。石笛のレプリカを持って打ち合わせに来られた信者さんを見て、試しに僕も探してみようという気になった。

これまでにも、何気なく気に入った石ころを見つけて、机に並べたりして来たので、多分石好きなのだろう。ただし、キラキラした目立つ石は、綺麗だとは思うけれど、僕には似合わない気がしている。

何となく川原を探してみると、ものの15分ほどで3ヶ所穴のある石笛が見つかった。いしぶえ と書いて、いわぶえと呼ぶようだが、何故かは分からない。

初めて見つけた石笛は僕が住んでいる町の中心を流れる川の中流で出会った。そして、2個目の石笛はようやく訪れた利尻の海岸で出会った。石笛が見つかればいい思い出になるな…と思いつつ何気に足元から少し離れたところに目をやった。

すると、まさに目をやった最初のところに「ワタシハ イワブエ デス」と呼びかける石笛がいた。あまりに見事な、それそのものといった感じで、ちょっとびっくりするような石笛が待っていた。神の声を聞くために吹く石笛との印象的な出会いだった。出来過ぎ(笑)

空を切り裂くような鋭い響きにもなれば、小鳥のさえずりのようにも響く石笛。

どうやら僕は、心の思いを自由に現す力をくれるラブフルートと天の声に心を寄せる石笛を手に、与えられた息吹を注ぎながら新たな旅に向かうことになりそうだ。

実は、少し調子に乗って、今度は南の果て沖縄で石笛との出会いが会ったらいいななどと勝手に空想して楽しんでいる。

クリックすると元のサイズで表示します 地元の川の中流で出会った石笛

クリックすると元のサイズで表示します 利尻富士の裾野・海岸で出会った石笛
1

2014/7/31

ラブフルート・東西南北  ラブフルート

昨年の9月に福岡県と熊本県を訪ねる機会を得て、ライブやワークショップをさせていただきました。福岡県には10年ほど前からラブフルート繋がりがあり、今回ようやく現地を訪ねることができたのでした。

その時お会いした皆さんの中から先日、3人の方がKOCOMATSUを訪れて下さいました。3人のうちお二人の姉妹は、8年前に北海道を訪れ、工房にも来られたことがありました。

当時、地元の農場にご案内して、トウモロコシを生で食べ、その甘さに感動しておられた記憶があります。今回は初めてのお友達と一緒に懐かしい農園を訪ねました。露地物トウモロコシの収穫初日の訪問でした。

二日間の交流ではラブフルート談義をはじめとして、様々な会話が生まれました。夕食にジンギスカンを食べることにして、工房の敷地で野菜いっぱいの楽しい時間を過ごしました。

KOCOMATSUを訪れる様々な方々を思い起こして見ますと、随分と様々な所から来られています。KOCOMATSUが生まれる前から、様々な方々をお迎えしてきましたが、少しづつ変化も見られます。

ライブ活動が盛んで、メディアにも取り上げられた時期には、物珍しさや好奇心で来られる方も少なくありませんでした。いざ、訪ねてみればごく普通の、どちらかといえば古い住宅だけで、裏側に小さなプレハブのハウス(工房)らしきものがあるだけでした。

あれ?普通の住宅なんですね…とか、お店じゃ無いんですねという声を何度も耳にしてきました。それでも、沖縄やアメリカからの来客があったり、10名以上の方々をいちどにお迎えし、ラブフルート体験をしていただいたこともありました。

手探りで始めたラブフルート工房の存在は、ゆっくりと伝言ゲームのように伝わって来ました。製作から、レッスン、ワークショップ、ライブと繋がりながら静かに輪が生まれて来ました。

僕が何者であるかはさして意味はなく、木々の響きがもたらす人の心と大自然との繋がりを感じて欲しいと密かに願う旅が続いています。

北から南、東から西へ

囁くように静やかな愛の笛の響き

それを必要とする方々の手に手渡されるために

もう少し 作らせて頂けそうです

響きを感じるライブも もう少しさせて頂けそうです

ありがたいことですimage.jpg
5

2014/7/5

樺太アイヌの音階を奏でる旅  ラブフルート

先日は、絵本屋ひだまりの青田さんの紹介もあって、札幌「ばらのおうち文庫」の定例読書会に参加して来ました。滅多に外出しないので、貴重なお出掛けになりました。

そもそもはアイヌ関連やインディアン関連の絵本のことで青田さんとお話しして行く中で、広げて行く難しさ、微妙な問題などを伺いながら、今後の流れを考えていたところでした。

東海岸の樺太アイヌのトンコリ音階に繋がるラブフルートは長年の思いを具体的な形にしたものでした。そこに、アイヌ文様を彫る水野氏との出会いが繋がって、アイヌ文様を彫り込んだインディアンのフルート・ラブフルートが生まれたのでした。たったこれだけのことに10年以上を費やして来たことになりますが、時を感じて行動することの大切さを確かめる事にもなりました。

そこに「アイヌの絵本」をテーマに、寮美千子による朗読とお話があると知らされ、珍しく動いて見ることにしました。もし、そういう場でラブフルートの音色をお届けできたらとお伝えし、聴いていただくことができました。

寮さんのストレートなお話が心地よく、楽しい時間を過ごすことができました。それと同時に、アイヌの世界と繋がることの難しさを改めて感じる時間でもありました。

アリゾナやホピの居留地のお話など、「父は空 母は大地」を読みながらの時間もありました。絵巻き絵本のお話も興味深く伺いました。そしてアイヌ関連の絵本『おおかみのこがはしってきて』『イオマンテ』と、アイヌ文化財団が今年出版した読み物『フキノトウになった女の子』も取り上げられました。

僕自身はアイヌという壁は意識せずに、人として繋がるという生き方をして来たのですが、どうもそう簡単にはいかないこともいろいろあるのだな…と思わせる言葉を耳にするようになって来ました。

それはどちらか一方に問題があるということではなく、それぞれが持っている認識が複雑に絡み合っている感じがしています。勿論、全てを良い方向になど出来るはずも無いのですが、僕なりに何か小さな種粒のようなものになることは出来るかもしれない…

その始まりは、アイヌであることを隠し、自己嫌悪を感じている人との出会いでした。何故だろう?素朴な疑問から始まって、もう何十年も気に掛かって来ました。
後に、ネイティブアメリカンとの関わりも生まれ、ここでも民族問題が浮かび上がって来ました。

こうした現実は民族問題というよりも、人間がうごめく至る所に見受けられる自我の現れのような気がします。優越意識が生まれ、蔑みが起こる。これはとても小さなコミュニティーでも起こりうる現象でしょう。

表面的には相互に尊重しているように見えながら、一つ壁の向こうでは辛辣な批判や嘲笑が潜んでいる。自らの知識や認識と特定の価値観を結び付け、その目線で他者を見るというあり方は、人間である以上誰もそこから自由になることは無いのかもしれません。

正し過ぎる人たちは、その正しいという認識によって、激しい批判や対立をもたらし、時に思いもよらぬ残虐さをも正当化して来たのではないだろうか…
正しいという認識と権力が結び付き、それ以外の存在が抑圧される。この原理、現象が様々な社会現象の根底にあるように思います。

僕が感じているのは、何事かの知識や認識や信条を口にする前に、黙って静まること。目の前に起こっている現象を急いで判別せず、よくよく見つめること。人間として存在していることを素朴に受け止めることの大切さです。

木を削り、自らの息吹を注ぎ込み、生まれてくる木々の響きに心を寄せること。自分自身の鼓動とドラムの鼓動が繋がる時に湧き上がるものに心を寄せること。言葉を駆使することを止めるとき、初めて心はその思いを現し始める…。

そのひとつの象徴として、アメリカ先住民が吹いて来た木の笛を北海道の大地で育まれた木々で作り、北海道に先住していたアイヌの人たちの大切な文様を彫り込み、東海岸の樺太アイヌが大切にして来たトンコリの音階をラブフルートで奏でる旅を始めました。

言葉のやり取りから何かを見出そうとするよりも、黙ってアイヌが愛した音の響きを奏で続けること。それと同時に、整えられた音階からは気付き得ない響きを持つラブフルートを作り、奏で続ける…その大切さを感じながらの旅が続いています。


クリックすると元のサイズで表示します
3

2014/5/31

蝦夷鹿の角とラブフルート  ラブフルート

展示会のこともあり、新しい試みとして、鹿の角を組み込んだラブフルートを2本製作しました。

ラブフルートに組み込まれる小さな部品ですから、鹿の角をつけたからと言ってさして大きな影響はないように思いますが、実際にはなかなか興味深いものがあります。

ラブフルートがエルク(鹿)人間から渡されたという物語と照らし合わせて見ると、さらに興味深いかと思います。

そもそも角のある生き物には不思議な力が潜んでいるように感じます。実際目の前で角と向き合うときに感じる独特のエネルギーは印象深いものです。

鹿の角の一部がラブフルートに組み込まれると不思議に獣の感覚、野生と繋がる感覚が生まれて来ます。仮面とか被り物に似ているのかもしれません。

別の表現をするなら、自分の中の動物的領域が刺激されるとも言えそうです。木と動物を皮紐で結ぶ笛。そこに自身の息を注ぐ時に浮かび上がる響き。そんな空間が生まれます。

生まれも育ちも北海道の桑の木とイタヤカエデに蝦夷鹿の角が組み込まれたラブフルートは鎌倉に旅立つことになりました。ペンタトニックスケールとは全くイメージの異なるオリジナルスケールのラブフルートは、どんな風を運んでくれるのでしょう。

いつか何処かで再会できるかもしれない楽しみを乗せた素朴な木の笛。もう少しで求める方のお手元にお届けする予定です。

クリックすると元のサイズで表示します
2

2014/5/9

愛の笛に携わる真意のカケラ  ラブフルート

愛の笛が手渡される時、そこに起こったこと。それはとても重要なことなのですが、単なるエピソードとして読み過ごされることが多いように思います。

小さな愛の笛にまつわる伝説に、それほど注意を寄せ、真剣に捉える人は少ないでしょう。神話学、あるいは心理学的な視点の有る方は、それなりに捉えることもあるかとは思います。

若者は聖なる輪の中心にある鏡の光に当たって気を失います。これはとても大切なイニシエーションなのですが、それは特定の年齢になればかならず通過する類のものではなく、個々の人生の特定のプロセスの中で待ち受けているものです。

自分の本質的な実態を浮かび上がらせる聖なる鏡。聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた時、到底目を開けていることなどできず、気を失うほどの衝撃を受ける。

その後に初めて愛の笛が手渡されるのです。そも意味は、一人一人が自分自身の事として真摯に受け止める時まで封印されているのです。人を愛すること、心の思いを表すこと。そこに開かれた道を歩むこと…。

ラブフルートは、様々な形で、それを求める方々の手に渡されるのだと思います。必ずしも、一様なプロセスを辿って手渡されるわけではなく、その心の歩みに相応しい流れとともに愛の笛が手渡された真意を知らされるのだと思います。

僕がラブフルートを作り続けている本来の意図は、笛の製作で生計を支えることではありません。そこに隠されている魂に必要なメッセージを、必要とする方にお伝えすることです。それは、僕自身にとってとても重要であり、存在を支える大きな力だからです。

あえて手作りで、時間をかけて、ひとりひとりの愛の笛を作る真意は、殆ど口にしたことはありませんし、流れ去るデジタル文字で伝わるとも思っていません。

仮に生活のためというだけであれば、フルートのバイヤーになったり、人を使って量産すれば済むことです。巧みに宣伝して広げるためにエネルギーを注げば良いのです。

しかし、そういう生き方は既に意味をなさないのです。何が自分という存在を生かし、支え、その道が示されるのか…。なぜ、いま自分がラブフルートとの関わりの中で生かされているのか…。

それはデジタル文字で書き記すものでもなく、仮に真摯に自らの道を歩こうとする人が求めるならば愛の笛と共にそっとお伝え出来ることがあるかもしれません。自分自身の心の内側の事実として、最期のときまで見詰め続け、死の扉の向こうで確かめることになるのでしょう。

僕が生かされている間に、どんな風に聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた方々の手に愛の笛を手渡せるのかは分らないのですが、そこに秘められた生命の知恵を巡って存分に語り合える出会いがあれば心は歓喜の中で震えるのでしょう。

そんな出会いがあろうとなかろうと、降り注ぐ光のように僕たちを包み込んでいる恩恵の中で、許される限り作らせていただけたなら幸いだと思っています。クリックすると元のサイズで表示します
3

2014/5/2

アイヌの響きのラブフルート  ラブフルート

この春の展示会で初めて見て、聴いて、感じてもらえるアイヌ文様と東海岸の樺太アイヌに伝わる音階と北米インディアンのラブフルートを展示したのか。

その真意は言葉で伝えるのは難しいのですが、書き記すことで最低限のことは感じて頂ければ幸いです。世界先住民族会議といった動きがありましたが、およそ文化の継承や社会的課題などが取り上げられ、相互の強調と協力を願うものだったように思います。

有る特定の民族の強調は結果的に、社会との融合よりも、微妙な区別の主張になり微妙な対立や差別意識を広げて行く可能性を孕んでいるような気がするのです。

アイヌの方々が差別的な対応を受けて複雑な思いになる事も有るのですが、逆にアイヌの人たちから差別を受けたという声も聞こえて来ます。その根元には、個々の人間の心の問題が有るように思います。

民族が同じでも内部の差別や対立は起こりますし、民族が違っていても友情や協調も出来るでしょう。心臓の鼓動と呼吸で繋がっている人間としてどう生きるか。
昨年は鼓動を感じ、生命を感じる集い「月夜の宴」を開きましたが、今回製作したラブフルートは、その延長線上にあります。

言葉のやりとりが始まれば、結局何処か釈然としない要素が残ることが多いかもしれません。遠慮と気遣いが行き交って、なかなか深いところで一つになることが難しいのです。それが、言葉の特質であり、限界とも言えるような気がします。

あっちの楽器や歌と、こっちの楽器や歌でコラボするというパターンは、むしろ違いが強調され、何処かに違和感がありながらも、なんとか一緒にやるという感覚があります。

かつてスミソニアンの博物館で、インディアンの生活を描いた図を見たとき、アイヌの資料館にいるような錯覚を覚えました。それほど両者のライフスタイルは似ていたのです。

このときの体験を長く暖めていて、今回初めてアメリカ先住民の笛とアイヌの伝統音階を体現することになったのです。ですから出来上がって音を響かせるまでの間、ずっとワクワクしていました。頭で考えたことと、実際に浮かび上がる響きとは全く違います。まして、トンコリという弦楽器の表現と笛の表現には明らかな違いがあります。

先住民のアイヌの方々が生活する以前から、この大地は厳然と存在し、自然そのものが世界そのものだった。そこに繋がる響きが、未成熟な人間たちの心に語りかけるものは何なのか…僕はその響きに心を傾けながら、残りの旅路を全うしたいと思っています。

今回の展示会は、その小さな歩みの始まりかもしれません。この笛の響きが何をもたらすのか分かりませんが、いずれ何処かで、誰かが、一人の若者のように不思議な笛と出会い旅を始めるかもしれない…そんな密やかな楽しみを抱きながら、僕に与えられた命の呼吸を木の笛に巡らせ、そこから響いてくる囁きに心を寄せて行きたいと思っています。クリックすると元のサイズで表示します
1

2014/4/23

屑という種  ラブフルート

屑という種。(感謝の道を辿るメモ)

先に書いたガラスのコンペティションの作品を製作する時に、工房のゴミとして棄てられる屑ガラスと韓国製の安い板ガラスを使いました。値段などつけられないと言うことで、タダで頂きました。(石戸谷さん・改めてありがとうm(_ _)m)
硝子切りさえ満足に出来ないまま、簡単に手ほどきを受けて取り組んだ記憶があります。かなり無謀でした…。

父親から硝子切りを教えられた記憶は有るものの、うまく出来るはずもなく、硝子が勿体無いからという理由で断念したままでした。

ゴミ箱から集めた色ガラス(ステンドグラス)を、呆れるほどカットして、散りばめることで硝子の量の不足を補い、黙々と取り組みました。

それから時が流れ、今度は硝子ではなく木材の端っこを頂いてラブフルートを作り始めました。製材工場を訪ね、切り離して売り物にならない端材をひとまとめ幾らで購入しながら製作を続けました。

合わせて木工に携わる人と出会い、切れ端を頂いては製作に向かいました。その中でも都築氏にはカツラの埋もれ木を手始めに、僕の財力では手に入れられない材料の切れ端をたくさん頂きました。

貧乏学生の時は、パンの耳を常食にしたり、寮の余り物を楽しみにする生活でしたから、その延長に今があるようです。ノートは、印刷に失敗した藁半紙や広告の裏紙という感じでしたから、屑で生きる基盤が身に付いていたのかもしれません…。

小さな切れ端なので、フルートを作るのが難しい端材も有るのですが、バードにすれば大丈夫!厳しい条件が工夫を生み、技術を培ってくれたように思います。

生まれて初めて製作したラブフルートもまた、知人のケーナ製作者が使い物にならないから好きなだけ持って行って良いよと言われ、ベランダに無造作にたてかけられていた竹をひとかかえ頂いた中の一本でした。

屑野菜を美味しいスープにしたり、屑米で小鳥たちとの交流を楽しんだり、もう捨てるけど…という衣類で何年も過ごしたりで、感謝の連続。そういえば、ただで頂けるオカラも工夫次第でなかなか美味しい…。ココオシというマッサージアイテムもKOCOMATSU建設の時の端材で作られています。

屑という種が実りをもたらす楽しみ。屑が作品になり、心と繋がる笛の一部になり、すっかり生まれ変わるのは楽しいものです。こんなことは、色んなところにあ有るのかもしれません。

人の繋がりという錬金術を楽しみ感謝しながらもう少し歩いてみようかな…。
屑を分けてくれる気持ちに感謝。屑が宝になる楽しみをありがとう。

ちなみに木の切れ端はフルートケースのボタンになり、薄い板はココペリになり、最後の削りかすはお風呂の燃料になっています。木のように、最後の最後まで生きて生かされ、最後に人を暖めて終われたら良いだろうな…。

都築謙司さん (http://kens-wood-working.ftw.jp) 改めてありがとうございます!今後ともよろしく(^.^)クリックすると元のサイズで表示します
2

2014/4/23

出会いと感謝の道を辿る  ラブフルート

人生がいつまでも、どこまでも続くわけではないことは誰しも知ってはいるのだけれど、終わりが予期せぬ形で突然やって来る事もあるとなると、思い立った時にやっておかねばならないことがある。

そのひとつを書いておくことにしました。それはKOCOMATSUのステンドグラスのことです。そこにある5枚のステンドグラスは全てボザールデザインビューローを運営するステンドグラス作家・石戸谷準氏の作品です。

彼と出会う以前、東京に住んでいた頃に出会ったステンドグラスは今でも鮮明に思い出せる印象的なものでした。ほぼ長方形の広い建物の天頂部に数色しか使っていないステンドグラスが組み込まれていました。

建物をぐるりと窓が囲んでいて障子がはめ込まれ、淡く優しい光が内部全体を包み込んでいました。通りがかりの一瞬の出来事でした。その一瞬の体験が光とガラスの世界の入口でした。

その後、色んなことが次々と起こる中で僕自身がステンドグラスのデザインを数個手掛ける機会がありました。ダルドベールいうステンドグラスの欠片を半年眺め、光と色彩と光を透過するガラスの不思議を感じ取ることから始めて、数百枚のスケッチを続けました。それはまだそこに存在しないイメージと自分の内面との繋がりを模索するプロセスでした。

そこからさらに時間が流れ、僕は旭硝子主催のガラス作品のコンペティションに作品を出展しました。この時も自分の中に有るイメージが表現できないかぎり、造形に意味はないと、半月ほどガラスの欠片を見つめ続けました。

何とか作品のイメージはできたものの、実際に製作する場所と材料が必要でした。しかも、締切が迫っていました。この時に、石戸谷氏が工房を貸してくださったのです。ほぼ丸2日徹夜で仕事を休んで、何とか仕上げることができました。

その作品は予期せず北海道と全国で最優秀賞の評価を頂きました。これは石戸谷氏の好意無しにはあり得なかった事です。この時の感謝とお礼をと思いながら、気がかりなまま時間が経過していました。(祝ってくれる仲間とのちょっとしたパーティーにお招きしただけでした…)

それからかなり時が経過していたのだけれど思い立った時に動かなければと、自宅の居間に飾る小さなステンドグラスをお願いに出向きました。一枚お願いしたいと伝えたまま、やがてKOCOMATSUを建てる動きが始まりました。
その流れの中で、折角なら皆さんに見ていただける方が良いと考え、石戸谷氏にステンドグラスのプランを伝えました。

やがて石戸谷氏からステンドグラスの構成とデザインが提案されました。小さなものを一枚取り付けるのが精一杯と思っていたのですが、提案は5枚の作品を配置するものでした。

結果的に感謝とお礼どころか、更なる好意を受け取ることになりました。その時出来る精一杯のお支払いはさせていただいたもののの到底十分なものではありませんでした。

この時、個人の住宅では一度も実現出来なかったステンドグラスの周囲に傾斜をつけたいという石戸谷氏の話を聞き、何としても実現させようと苦心しました。幸い色んな協力を頂いて何とか実現できました。

その結果は歴然としていました。わずかな傾斜が想像を超えた多様な光の世界を見せてくれました。大工さんからは苦言を受けましたが、無理にお願いして良かったと思っています。

KOCOMATSUのステンドグラスは個人のプロセスと石戸谷氏との出会いがあって生まれました。かつての僕の製作活動の動機は、透明で有ることと光を透過する色彩の不思議を見詰めることにありました。ガラスという存在と色彩と光の不思議は、KOCOMATSUと関わることでさらに感じるようになっています。

その光は音の響きの不思議と混じり合いながら、いままで訪れた方々、これから出会うであろう方々を包み込んでくれると思います。もはや、石戸谷氏のステンドグラスの無いKOCOMATSUは考えられなくなっています。

色んな方が、KOCOMATSUの光と響きを楽しんでくださっています。その光の輝きと移ろいを、たっぷりと感じ、喜び満たされる姿。丸一日存分に光を喜び楽しめる小さな空間。それは、小さな出会いの種から芽生えた天からのギフト。

記憶を失わない限り、石戸谷氏と彼との出会いを与えてくれた天の摂理に感謝しながら、残された道を辿ってみようと思っています。

ボザール・デザイン・ビューロー 石戸谷 準

ステンドグラス|ステンドグラス作家 石戸谷準の作品集
www.st-glass.jp/
北海道江別市のステンドグラス作家 石戸谷準の作品集です。フッ化水素酸によりガラスを溶かし繊細で緻密な絵を描くエッチング技法を多用しているのが特徴です。

KOCOMATSUステンドグラスのコメント・石戸谷準http://kocomatsu.exblog.jp/11665013


クリックすると元のサイズで表示します
2

2014/3/20

3月振り返りつつ前に向かう  ラブフルート

3月の確定申告が終わると、前年がどんな風だったか振り返る事が出来ます。とりわけラブフルートの製作や演奏活動がどうだったか一目瞭然です。何本作らせていただいて、収入はどうなのか。どこから依頼を頂いて演奏してきたか...。

 数年前から身体の負担が大きくなって製作のテンポが鈍くなり、製作数はピークの時の4分の1になっています。製作を手伝ってくださる方が居なくなった事も当然製作の流れに大きく影響しています。

 しかしそれ以上に、東日本大震災から始まった支援活動の影響があると思います。一日の半分は被災地、被災者とのコンタクトやそれに付随する活動に費やしている感覚がありました。

 現地への具体的な訪問は短期間ですが、その前後の諸々の動きが大きかったと思います。結果的に製作依頼くださった方々にご迷惑をおかけしてしまい申し訳なく思っています。

 今後も東北での活動は継続すると思いますが、まずはラブフルートの製作に集中してめどをつけたいと思っています。

 もうひとつの身体の負担に関しては、これまた葛藤が続いています。手作業にこだわる姿勢を継続すれば、当然のように身体への負担が増加します。手や指の負担は肩まで波及し、激痛で目覚める生活が何年も続いています。

 これを解消するためには、作業を休止し身体を守るか動かせなくなるのを覚悟で、可能な限り製作し続けるのか。後者の場合、製作不能になった後の日常生活に支障が出てくる可能性が高いと感じています。

 いずれにしてもいつか製作を止める時が来るのだと思いますから、それも考えて行動しなければと感じています。

 時折、後継者もしくは協力者のことを考えた方がと声をかけられることもありますが、なかなか難しいと感じています。演奏、製作、レッスンという一連の流れがあってなんとか継続して来ましたから、そのバランスを保てることが継続の前提になるでしょう。

 実際、製作だけで生計を維持しようとすれば、取り組む姿勢も製作の姿勢も変化する事になるでしょう。経済を安定させるためには...という視点に立つことになるでしょう。そうなると、完成するラブフルートにも確実な変化が起こるでしょう。

 それはそれで割り切れば作れるのでしょうが、誰もそれを求めなくなるかもしれません。或いは、販売のための手段に経費をつぎ込み、いわば中小企業と同様の課題を背負う事になるような気がします。

 どうやら、やれるだけの事をさせていただいて、後は流れに身を任せる事になりそうです。そして、ここまで継続させていただけたことに驚きと感謝を覚えています。はたしてどこまでラブフルートの旅が続くのでしょう....。
3



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ