
改暦の詔勅
我々の判断力の基準となる物の扱ひいかに杜撰であつたかを反映して、
「之ヲ太陰暦ニ比スレバ、最モ精密ニシテ、其便・不便モ因ヨリ論ヲ俟タザルナリ、依テ、今ヨリ旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン」云々。詔勅とは思へぬ駄文である。永久不変の真理を謳ひ上げながら、その実は閏月分の官吏らへの俸給を節する姑息の打算であつた。その後の国運連戦連勝の夢敢へ無く潰え、詔勅は否定せられて「お言葉」などいふなまぬるき物弄びたまふに至れるも、かかる尊器を横着に用ゐられた報いにして、さながら「羹に懲りて膾を吹く」似たる図に成り下がれり。藩屏無き王朝、詔勅下し得ぬ天皇とはこれを要するに不具半帝と申し上ぐる他なし。旧暦と旧仮名、新暦と新仮名とは我が文明史上最も不幸にして忌々しきリンクに繋がれて居るといはざるを得ず。かかる呪縛を早期に脱せんには犬猫等の有機生命体を、宇宙船に舶載して月の周回圏外にまで飛ばし見る他無からむか。月の周回に拠る環境保護と地球の自転公転の情報遺伝子核にきざまれし生命体が、月の周回圏を出て形を維持するは。まづ不可能ならむ。その時になりてはじめて、世界は一元的に太陽年の周期のみを以て日子を説明することの不可なるを悟らむや、それにては手遅れなること多々あるべし。
太政官 達 五年十一月九日 第三百三十七号
今般改暦ノ儀、別紙詔書ノ通、仰セ出サレ候条、此旨相達シ候事
朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ纏度ニ合ス。故ニ二三年間、必ズ閏月ヲ置カザルヲ得ズ、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生ズルニ至ル、殊ニ、中・下段ニ掲ル如キハ、率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ、蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ纏度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年後僅ニ一日ノ差ヲ生ズルニ過ギズ。之ヲ太陰暦ニ比スレバ、最モ精密ニシテ、其便・不便モ因ヨリ論ヲ俟タザルナリ、依テ、今ヨリ旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官・有司、其レ此旨ヲ体セヨ。
明治五年壬申十一月九日
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