字數歌作法
新世紀の日本語教育と世界的普及の為の参考に
言語、まして仮名といふ抽象財は美術品史跡等の具象財に比して、ともすればその管理がなほざりにされがちですが、国益の根幹を形成するものです。何より国家形成途上に自ら工夫考案した表記具であります。その設計理念に正しく通じて置くことの重要性は強調して強調し過ぎることはありません。その一環として、和歌俳句に継ぐ第三の、そして最終極限の定型として私は字數歌といふ形を提案し日々これを実践して居る者です。以下の文は既に五年前に書いたものですが、これを起点として、更に字數歌を通しての永久財としての国語資源の保全と、発展普及を祈念するものです。
字數歌とは。いろは四十七音に五十音経緯図外の「ン」を加へた四十八音を均分に運用して作る歌を言ひます。この場合助詞助動詞としての「ム」「ン」の遣ひ分けは、「ム」を推量願望、「ン」を断定、意思表示の形に用ゐるを基本とします。
いろはの如く、各音繰り返し無き形を「字母歌」といひますが、同字重複の語彙をも用ゐる場合がある為これを「字數歌」と称し、いろは同型を「獨弦字數歌」以下各音の使用回数に拠り
二弦歌 三弦歌 四弦歌 五弦歌
と称します。
仮名遣が守られ、各音均分に用ゐられてあれば、既に「定型」でありますが、猶又四十八といふ約数に富み、且つ和歌と俳句の音数の和に等しい数の性質を利用して、
五七及び七五四行
文字摺草を捩花に
貫ける文目の君と我
迷ふ空居へ歌降ろせ
越えて笑む頬へ言ひ継がん
もしすりくさをねちはなにぬけるあやめのきみとわれ
まよふそらゐへうたおろせこえてゑむほへいひつかん
七音七行(内一行四音)
あふくおほそら
仰ぐ大空
雁渡る聲
うつろひをへし
永遠の山居に
夢萌え出でぬ
群れさす音聞け
千波寄せん
あふくおほそらかりわたるこゑうつろふをへしとはの
やまゐにゆめもえいてぬむれさすねきけちなみよせん
八音六行 五三六行
花水木
花水木咲いて
風匂ふ街の
便り得ぬ頃を
憂けく棲める繪ぞ
思ひあやし吾
合歡搖らん井戸邊
はなみつきさいてかせにほふまちのたよりえぬころを
うけくすめるゑそおもひあやしわれねむゆらんゐとへ
八音六行 五三六行 四四六行
絵巻
丹塗りの鞘刷け
刀も揺らいで
居合ひを見つめる
烏帽子コ群れ寄せ
縁沿ふ脇窓
落ち浮く炉邊寝ず
にぬりのさやはけかたなもゆらいてゐあひをみつめる
ゑほしこむれよせえんそふわきまとおちうくろへねす
同じ八音六行でも五三はたゆたふやうな調べとなり、四四はてきぱきして、迅速な場面描写に適します。
六音八行 四
願ひ
子供達に
親は願ふ
平和な明日
作る夢を
譽れ照らし
拡げ笑む世
膝行り失せん
消えぬ希望
こともたちにおやはねかふへいわなあすつくるゆめを
ほまれてらしひろけゑむよゐさりうせんきえぬのそみ
和歌と俳句或いは詞書と和歌
一首中に和歌と俳句を作り得るいはゆる「一粒で二度美味しい」詩形です。
分けゆかむ夏大空を峰路越え入る狹沼井に薄れ燈ともせ
菖蒲葺く軒端へ遠路便りして
わけゆかむなつおほそらをみねちこえいるさぬまゐに
うすれひともせあやめふくのきはへゑんろたよりして
俳諧三句付け
夏服に替へ頃わけて思ひ出す
寄られ居し眸合歡の葉さやり
貫き留める細い縁故汗を打ち
なつふくにかへころわけておもひたす
よられゐしまみねむのはさやり
ぬきとめるほそいえんゆゑあせをうち
そして当然自由律
働き中毒
海老釣り舟など漕ぎ
しばらく休みたい
餌を降ろせ
前乘れ
チヨムボめ
もう遊んでゐるわけにゆかぬ
えひつりふねなとこきしはらくやすみたいゑさをおろ
せまへのれちよむほめもうあそんてゐるわけにゆかぬ
以上概略七種の定型が制作可能ですし、二弦以上になれば、長歌と反歌、歌物語などやうの形も、小説でさへも創り得ます。
制作には、原稿用紙桝目大の仮名札を作り台紙に貼りつけて用ゐるか、或いは仮名駒仮名石など拵へて碁将棋盤上にて詩想を練るも一興でせう。
仮名は単音にして詞辞多岐に亘る意味機能を賦与せられた品詞単位であり、不定冠詞と一人称代名詞以外に単音にして品詞として定義づけなきアルファベットとは同列に論じられません。彼が電脳上の頁の部材たるに過ぎぬに対し、此仮名とは頁その物であり、そこから全方位に総当りのリンクを貼るものです。そのリンクの総量、即ち四十八階乗数48!は十の六十四乗種におよびます。世界中の電脳の記憶容量を総動員せし所で、一覧の一端をも尽くし得ぬ数値ではないでせうか。この何気ないリンクの集積のほんの一片と見えるもののなかより、完結せる意味世界を無尽蔵に汲み出し得るが、国語の真骨頂にして之を開拓することなくして、国語は正しく「日本語」としての結実を得ぬでありませう。
明治二十六年「萬朝報」が國音歌を募集せし際には、一萬首を越える応募ありしとの事ですが、由来伝統詩形を愛好すること久しく、日に百万首からの歌俳柳を詠出する国民が、一朝己が国語とその文化の本領奈辺にあるかに目覚めし暁にはこの程度の量は一日にて詠出し、歌俳柳の詠出日量に迫るも遠からぬことであらうと確信します。
仮名遣とは仮名を以て語を書き表す規則の義であり、聞こゆる語音の現況説明に汲々たる「現代かなづかい」なるものは、その実かなころがしといふべきです。
文藝とは先づ言語の材質運動機能を究め知る技術なるに板材の表裏もわきまへず用ゐては、いかなる金殿玉楼も存続し得ず。官民共に己が精神文化の基本材質を誤用して居ると思ひます。かなころがし金ころがしに通じ、人情を汚し、人品を下落せしめし国運の前途に躓きの石を置く所無きや否や。金を金と認識するも又言葉によるのです。

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