煤掃きの時
暦または時間について ザンビア河野
■中世のドイツでは(いまのドイツあたりでは)36余りの公国がありそれぞれ違う暦をつかっていたようですね。A侯爵の領地とB侯爵の領地のはざかいにすんでいる人間は一歩ちがうだけでちがう時間の中でいきていたことになります。この人間たちの時間意識に関する叙述があれば対比できておもしろいものだとおもいます。
■この時代の詩を発掘して曲をつけたカール・オルフ「カルミナ・ブラーナ」に注目し、そのとくに詩の時間感覚についてよんでみると正にお上が決めた時間「暦」にしたがって人生を叙述する人間がみえてきます。
■したがって波江さんおっしゃるように日本人の時間は日本固有または東洋固有の暦でなければあらわしきれないのではないかという論にたっしてみましたがいかが?
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この件はザンビア河野氏との問答の中で論が展開致しますので、謹んで
掲載させて頂く。著作権は当然氏に帰属致します。
36余りの公国がありそれぞれ違う暦
といふと或いは旧ソビエトのトルクメニスタンでやつて居るやうな個人崇拝極まつて大統領とその母の名を月の名に冠するやうな所もあつたんでせうかね。フランス革命暦も面白い命名がありましたが。
お上が決めた時間「暦」にしたがって人生を叙述する人間がみえてきす。
かなり詳しく考察されて居るやうで、今のこの時代に居る私等にとつても他山の石とすべき所があるか知れませんね。
物語拝見するとザンビアさんの所もクリスマスの興隆に力を致された訳ですか。まあ急激に民族意識覚醒してクリスマス排撃などといふことになつても、ケーキ屋土産物屋が首吊らねばならぬ始末になるでせうからそれ自体は自然に任すべきと思ひますが。
これからの地球文明にとつて必要なことは端的に歳時記の季語を借りていへば煤掃きであらうと思ひます。オゾン層を食ひ荒らす一連の技術発展の負の側面を精算すべき時期でせう。太陽年にのみ一元化する暦術思考に慣らされた頭脳から案出される発明が、環境諸条件との折り合ひを欠いた結果が現在の地球規模の環境破壊に繋がつて居る。太陽年ならば立春から節分までを通し番号にすれば済むことです。月の恩恵といふものを不抜の軸にした国際公用暦といふものを確立する要があるか。
クリスマスといふものは新嘗祭の代用として盛んになつた側面もある。その方面での新たな習俗祭祀大系が確立されて順次置き換はつて行くが意識改革の理想でせうか。祭神無き祭りといふものは臍無き人間と似たやうな所あり、信仰上の動機で以て真面目に祭る方々にも失礼に当たりはせぬかと懸念はして居ますが。
新旧の暦で誕生日を祝ふべし 天正当時織田信長が生き延びて居たら案外グレゴリオ暦導入まで突走つたかも知れません。その方が彼の暦のインチキが早期に暴かれて今の歴史に迷惑を及ぼさずに済んだかとも思ひます。洋書輸入の禁を解いた八代将軍吉宗も年の日数同じ暦に興惹かれ之の導入方を側近に研究検討させて居た途中で薨去して沙汰止みになつたといふことです。
韓国中国では誕生日を新旧二様の日付で二度祝ふさうですから、日本でもこの習慣を導入してはどうでせう。複眼的思考をどうかういひ、東西の文化の総合止揚を志す百万の議論よりもこの方が即効ありと思ふ。それを根付かせる中でザンビアさん等の商売上でも色々工夫のしやうがあるかと思ふのですが。
近代現代文といふものは目先のわかりやすさにだまくらかされて、何かと消耗し易い、ゴミを多く産出しただけのものではなかつたかと、ふと思ひ一首。
冠詞、関係代名詞、そして英語を除く欧米語に特徴的な名詞の性別といつたものとは無縁な言語です。he sheをそのまま彼彼女と訳して居る間は日本語で書いた翻訳物の限界を免れ得ぬのではないでせうか。向うの歌詞は冠詞を保つ関係上多く弱強格ではじまります。イタリア式発声の訓練受けたオペラ歌手が日本語で日本の歌を歌ふ時にを歌ふ時に、どうしても克服し難い違和感がある由砂原美智子さん辺がいつて居ました。実際彼等の日本語は外国人が日本語でしやべるやうな感じになつて往々聞き取り辛い。叉洋楽の旋律に日本語の歌詞つけて歌ふ場合でも、結果として固有の標準アクセントを犠牲にしてしまつて、国語への畏怖と愛護の念を麻痺させてしまつたところはないか、これからの検討課題と思つてをります。
ゴミを出す動物に
成り下がる我等
英知の骸覆ひ
涅槃も壊死
明けぬ夢間へ来居て
征矢寄せ
こみをたすとうふつになりさかるわれらえいちのむく
ろおほひねはんもゑしあけぬゆめまへきゐてそやよせ
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