2006/3/31

『異端の歴史』  お勧めの1冊

D.クリスティー、マレイ著、教文館 1997年初版。 この出版社は元々キリスト教関係書籍をよく扱っている。 古代から現代にまでの(特に古代が半分近くを占める)様々な異端を網羅的に解説するが、社会的背景とかについての記載は少なくキリスト教神学に興味がないとなかなか読むのは苦痛。 

これを読むとパウロというのはこの宗教が世界宗教になるのに非常に重要な役割を果たしたことが判る。 彼は異邦人に対して、割礼も律法に従うことも要求せずに教会に受け入れた。これに対してユダヤ人キリスト教徒(この言葉には矛盾がありますが)の間に激しい論争があったとのこと。 しかしこの論争はAD70年にエルサレムがローマの手に落ちることである意味決着したとか。 これらの「ユダヤ人キリスト教徒」は異邦人重視を強めていく教会内部の異端派(!)としてその後も4世紀程存続していった。p27〜 

この本にアナトリアのパウロ派(勿論、上のパウロとは無関係)がブルガリアを経てカタリ派の祖先であるとの記載がある。p48

以前も『正統と異端』↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060327/archive
や『プラハの異端者たち』や『フス革命と実在論:唯名論の論争』で話題になったが、『人効論と事効論』の論争は古代から色々議論になったテーマで、これは特にこの時代ローマ帝国による迫害で背教者となった人達の聖職復帰が現実的な重大な問題としてあったからのようだ。 それに関する異端思想として3つ挙げられていて、その内の1つドナトウス主義に対してはヒッポのアウグスティヌスの反論が有名。p135 イコノクラスム(画像破壊論争)の反対陣営が偶像崇拝として批判した彼等に対してキリスト単性論者として批判したとか。 確かに画像破壊はキリストの受肉の否認だという論理もそれなりに通る。p136

この本の中で納得した一節は、『正統主義の組織と、非正統主義の熱狂は、活力を保ち続ける為には両方が必要であり、正統的信仰は命を保つ為には混乱させられる必要がある』p56という部分。 微妙なバランスの上に立っているということか?

その他、ヘンリー8世が若い女性と結婚するため離婚したことが理由の1つなってイギリス国教会が出来たことを以前世界史で習ったが、その時いかにも俗物的なヘンリー8世の肖像画が教科書に出ていたので妙に納得した記憶がある。しかしこの本によれば、この彼の最初の結婚、彼の兄がスペインとの同盟関係と持参金目的でアラゴンのキャサリンと結婚したものの早く死んだことからその未亡人との再婚だとのこと。 それでこの結婚に対しては最初から教会法に反していたとのことで教皇から教会法免除状をもらった上での結婚。後でヘンリー8世が離婚を切り出したのはその後の政治経済的状況の変化だろう。 そう考えるとよくある話しというる。 それにしてもあの肖像画、影響力は大きい。p206
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2006/3/31

『キケロ;ヨーロッパの知的伝統』  お勧めの1冊

高田康成著、岩波新書、赤本627 1999年発行 紹介記事には『西欧近代を形づくるルネサンスの知的活動,それは永らく失われていたキケロ写本の再発見から始まったといってよい.以後,キケロは西欧精神を支える人文主義的教養の基礎として脈々と読みつがれてゆく,前1世紀のローマを政治家・弁論家・哲学者として生きたキケロ.その受容の歴史に光をあて,ヨーロッパの知的伝統を浮彫りにする』とある。 なかなか解りやすく面白い。

ペトラルカがイタリアのヴェローナでキケロの『アッティクス宛書簡集』を発掘したときの話で、 既にプルタルコス(AD46-120)が「キケロ伝」にその内容の一部を記載していたにも関わらずその発掘された書簡の内容に発見者ペトラルカが驚愕する下りがある。これはペトラルカがプルタルコスのキケロ伝を読めなかった、つまり彼はギリシャ語が出来なかったから。p27  

実際ギリシャの文芸思想が直接西欧に入ってくるのは14世紀末以来のことであり、しかも本格的な導入は19世紀以降わずか200年たらずに過ぎないとのこと。p174 しかもこの最後の200年はロマン主義的傾向によりギリシャは熱狂的に受け入れられ、<西欧文化の源>としていささか度の過ぎた評価がなされたとか。 

東西ヨーロッパの文化は共通性がかなりあるとよく言われるが、特に上に述べたようなことを考えると少なくとも近代に至るまでラテン世界はギリシャ世界を理解する素地を欠いていたと考えられる。 と考えると、今日西欧文化の源の1つがギリシャ世界だという言説は差し引いて考えた方が正解だろう。
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2006/3/30

『死者と生きる中世』  お勧めの1冊

パトリック・ギアリ著,白水社,1999年.紹介記事には『中世西欧社会において、死者とは生者にとってどんな意味をもっていたのか。死者と生者の間での贈与交換、聖遺物礼拝、聖人伝研究を通し、封建社会における死生観の変遷を考察する』とある。

この著者は、様々な文書や伝承の解析のみならず、考古学的調査や図像史料なども踏まえ、実証的に研究を進めています。 これは彼が大学院までの教育をアメリカので受けたことによるものかもしれない。例えばこの様な記載がある、

『クルト・ベーナー(1960年代)は「聖ウルフラム伝」の記載で、ラートボート公が洗礼を受けようとした際、司教から「洗礼を受けなかった祖先たちは地獄に落ちる」と聞いて、「先祖なしでは仕方がない」と言って洗礼を取りやめた伝承(←これは有名な話!)から以下のように述べた。「キリスト教がもたらした大きな変革とは、死者と生者の連帯を切断したことである」

しかしこの著者は、さまざまな考古学的調査から彼の解釈に疑問を呈し、ラートボート公の件はより政治的なものであったとの解釈を試みている。 その考古学的事実としてしばしば布教以前の一族の墓の上に礼拝堂が建てられたことを挙げている。 すなはち彼は「洗礼を受けた後でも布教前の先祖たち墓に対する姿勢が断ち切れることなく連続していることを示している」と解釈した。(p42-44) 確かに当時の洗礼はクローヴィスを例にあるように個人の洗礼というよりは一族全体の洗礼との意味があったと聞いているのでこの考えは説得力がある。 

5章「聖人を辱める儀式」では、カソリック(キリスト教)のバックグランドを持たない者にはやや退屈だが、その実態の部分に入るとかなり興味深い。特に筆者が「辱めの儀式が修道士らの一種のストライキであり、社会に混乱を引き起こし、修道院に敵対する者を調停のテーブルに着かせる為に機能した」と結論するとともに、この儀式が<聖人に援助を強要!>する為のものであったこと。 p110-120

この儀式が11〜12世紀において共同体に密接な関係をもつ守護聖人を仲介として超自然的なものとの直接交流を劇的に行ったもので、同様な儀式は象徴体系を異にしながらも農民によっても行われた、との記載は興味のあるところ。 やがて13世紀において教会のヒエラルキーが確立するにつれ、この儀式は教会によって禁止され、衰退していったとのこと。 

また「ショルジュの紛争」 のところではグレゴリオ改革について面白いことが書かれてあった。p135-161  11世紀末プロバンス地方の公権力の空白に伴って引き起こされた、修道院と封建騎士それに司祭、伯を巻き込んだ長期にわたる紛争。当時のグレゴリウス改革というものが単に宗教上のものにとどまらず、社会構造そのものの変革を伴ったものだということが判る

これを読むと当時の人が、我々とは異なる生死観、世界観の中で生きていたことを感じる。 呪詛や聖人の辱めは、現代的メンタリティーの世界に生きていたら機能しない。 史料によれば、生きているうちは(修道院に敵対する者も)知らん顔していても、いざ終油とかになると、慌てて和解を急いだりしたよう。 また修道院の方もそれが判っていて、ちゃんとタイミングを見計らっているようでもある。 なお破門の権限は司教にしかなかったので、修道院としては呪詛とこの儀式が切り札だった。

著者はこのような争いを、11〜12世紀にかけての社会の変化に伴う、構造的なものと捉え、様々な局面での双方の行動の解析に意義を見つけている。 こういった態度はいかにも現代的というかアメリカ的?今日の西欧中世史学界でどう評価されているのか、是非知りたいもの。
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2006/3/30

『中世の生活文化誌』  お勧めの1冊

ピエール・リシェ著;副題は「カロリング期の生活世界」東洋館出版社。1992年初版。訳者である岩村清太氏は最後に、以下のように述べる。

『著者は、現に具体化しつつある(1991年時点)「欧州共同体」の原型ないし範型は、まさにカロリング帝国とその延長にあると考えている、つまり本書は今日のヨーロッパの統合という視点にたち、カロリング帝国における地理的統一はもちろん、民族、経済、文化、思想における統一を描こうとしている』p423

それに対し、現フランスの首相であるドビルパン氏のように、移民や環境汚染といった分野で今やヨーロッパはかつての枠内では解決出来ない問題に直面していると考える人達がいる。いまやトルコすら加入するかどうかが話題になっている拡大するEUの中にあってこの著書のような考えの人達がいることは注目すべき。

内容に戻ると、この本の中で、
『サン・ジェルマン・デ・プレ修道院は30,000ヘクタール以上・・・812年のアーヘンの宗教会議は「大規模な修道院は3,000から8,000マンス( 1マンスは平均して12ヘクタールの広さ) の土地を所有している」と述べているが、実際には、その倍と見て差し支えない。二流の教会は1,000から2,000マンス、小規模な修道院でも、300から400マンスの土地を所有していた。』p81

『・・サン・ジェルマン修道院の領地における人口密度は1平方キロあたり34-39人と推定し・・・イゼール川からブーロネ丘陵にかけては1平方キロあたり34人、より北の地方では20人、リル周辺では9-12人、モーゼル川流域では4人であったと推測されている。p57-58  

これからこの時代、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所有する領民の数はほぼ1万人という計算になる。 (沢山の著書で再三、サン・ジェルマンの資料に言及されていて、その資料は1級のもの)

また別の章の記載によれば、マンス(manse)はプロバンス語の農家 (mas) と同様、家屋(mansio)から由来し、1マンスとは1家族の生活を支えうる土地ということ。p122

とすると、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院は30,000ヘクタール=2500マンス=2500家族を所有し、1家族数は10000/2500で4人。これは別の本で1家族の子供の数が2.5人(=〜4.5人/家族)となっていたのでつじつまがあう。

で問題はこの数字のうち、どれが記録として残されたもので、どれが計算値なのかだがこの本には明記されていない。しかし、手がかりはある。 実際にロアール川流域のサン・マルタン修道院の土地台帳を解析した『修道院と農民』
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060318/archive
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060303/archive
の資料で記録されているのは戸主の名前と、10分の1税だった。例えば、

『Col. Monte村の農民Loedoaldは、小麦2、燕麦1モディウスを納める』とかの記録が残っている。

おそらく可処分収穫量(10分の1税と種籾を差し引くと計算出来る)から1家族の人数が推定出来るのだろう。しかしこれに関して、今でも1モディウスを正確に現代の量換算することは難しいことは『修道院と農民』で以前見て来た通り。 

つまり私が言いたいことは、たとえ教科書的に書かれていることでも、それらを詳細にみていけばかなり細部には信用出来ない部分があり、それからいま定説となっている全体像すら完全に信頼出来るものではない。
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2006/3/29

『イスラーム文化』と『原始仏典スッタニパータ』  お勧めの1冊

『イスラーム文化―副題;その根底にあるもの』 岩波文庫 井筒 俊彦 (著)  1991年 著書紹介には『イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か.――著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ,その実現としての法と倫理におよび,さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め,イスラーム文化の根元に迫ろうとする.世界的な権威による第一級の啓蒙書』とある。

この中で、九世紀の最大のスーフィー(イスラーム神秘主義者)の一人であったバーヤジード・バスターミーという人の言葉に、

<蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の皮を脱ぎ捨てた・・・>とある。p349 

この言葉はまさに「原始仏典スッタニパータ」の各章の最初の繰り返しと同じ。仏教ではこれは解脱を示す文言だが、仏典の影響があるのではないか? ちなみにこの原始仏典には最後にこの言葉がある

『犀の角のようにただ独り歩め』

この意味は、欲望やしがらみに打ち勝ち、独り決然として修行に励めということ。インドサイはアフリカのサイと違い角は1本なので、個人の悟りを中心とする南方上座部仏教(小乗)の象徴として使われたらしいが、後には大乗が小乗を批判する言葉として、即ち『一角犀』という言葉で個人の悟りだけを求める狭さの象徴として使われることもあったよう。 

この言葉はスッタニパータの各章の最後の言葉として繰り返し、繰り返し使われたらしいのですが、原始仏典では同じく繰り返し使われる言葉として、先に挙げた冒頭の『蛇がその皮を脱ぐように』という 

頭が蛇で尻尾がサイということで面白い。多分、蛇もサイも当時のインド人には日常的な存在だったのでしょう。 因みに中国ではこのサイは存在しないのでキリンに変わったとか、この1角獣、日本にもやってきて、京都の西本願寺の国宝唐門や知恩院の三門に描かれれいるとか。 さらにこの1角獣、西欧にもやってきたようで、いまパリのクルニュー中世博物館でみることが出来る。あの有名な「5th sense」、昔むかしにアップした私のHPに載せているもの↓
http://www.greengrape.net/hiroshi/03_crunny_01.html

これらが仮に相互に関連があるとするなら、仏典がイスラームにも、キリスト教にも流れたということになる。もし事実なら興味深いこと!

なお『原始仏典;Udana VI4』もこのblogで紹介しているので参考にして貰いたい↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060320/archive

この本の中に収められている「イスラーム生誕」という、短い著作がある。これは著者の若い時の作品で文章の端々から情熱がほとばしるような文体。 この中で、井筒氏はムハンマドの教えが広がる背景として当時のアラビア人の精神状況を以下のように記している。

『イスラーム誕生前夜のアラビアでは、若い世代はまさにこのような重大な(精神的)危機的状況に追い込まれていた』p43 

著者はそれを彼が<悲劇的>と呼ぶ数々の詩歌を文献的に挙げて論証する。 しかし 『何故そのような精神的危機状況が訪れたのか?』 についての記載はなかったように思う。 

私が思うに、これは確かB・ルイスの本だと思うが、このジャーヒリーア時代、特にイスラーム誕生に遡ること数世紀前、ベドウィンの社会に社会的危機が起こった。それは人口の急増と南アラビアにおける治水ダムの決壊を象徴とする農業の崩壊であり、多くの南部のアラビア人が北に避難せざるを得ない生存の危機的状況あったという事実と何らかの関係があるのではないか? 時期的にはかなり幅があるので直接関係はないかもしれないが、今後の課題としたい。

いずれにせよ、ある思想(宗教)の誕生はその背景となる社会の時代状況抜きには考えられないと思う。
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2006/3/29

『北アフリカのイスラーム聖者信仰』  お勧めの1冊

鷹木 恵子著、刀水書房、2000年 紹介記事には『北アフリカ・マグリブ地域のイスラームにおける、特に聖者信仰の位相に焦点を当てて、その具体的な形成過程と今日的状況とを、チュニジアの一つの村を舞台として描いた民族誌』とある。

チュニジア内陸部、ジェリード地方のフィールドワークによるもの。 その中でこの地方独特の「ファラオの祭」紹介し、この儀式が西欧の「5月祭」あるいは「5月の樹」の行事との多くの共通性を指摘している。

『・・・このことは地中海を隔てて、その北岸と南岸がそれぞれ今日ではキリスト教世界とイスラーム世界に分かれていながら、双方の基層文化においては地中海世界としての共通要素を見い出せることや、またジェリード地方が古くはローマ文化圏下にあったことを想起させる興味深い行事であるといえる』p164 

聖者信仰にしても、このお祭りにしても地中海の北岸と南岸がその基層文化においては多くの共通性をもつということは、当り前と言えば当り前の事。 しかし、しばしばキリスト教圏とイスラーム圏を対立軸とするような雰囲気の中ではこのことは忘れられる。 この本は文字どおり各論に徹したもので、判り易い。 各論の積み上げの中からしか総論は生まれてこないもの。

ここで著者は一事、この北アフリカの聖者信仰とハイチのVoodooの共通性も指摘している。これはもしかすると奴隷として西アフリカのナイジェリア近辺の黒人がサハラ越えしてチュニジアにも、またミドルパッセージによりカリブ海にも渡ったからかもしれない。ただし著者はこれについては何も述べていない。多分研究者としての「慎み」であろう。
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2006/3/29

『聖書』『クルアーン』『古事記』『日本書紀』  お勧めの1冊

以上の書籍をもとに東西の異本・異説の取扱について考えてみた。

キリスト教世界では、度重なる公会議により異説(異端説)の類はかなり初期の段階で厳しく排除されていった。一方、イスラーム世界は、もともと「異端」という概念がなく、クルアーン(コーラン)の異本も初期には問題を起すことなく存在していた。ところが、10世紀頃にはじまるイスラーム法学の発達とマドラサの普及がこれらの異本を自然消滅させ、3代目ハリーファ(カリフ)であるウスマーン(〜 AD656)によって編集された正本に統一されていったのは先にみた通り。 ここで自然消滅という点がキリスト教世界と大きく異なる。

さて日本では、大和朝廷の正本である日本書紀ですら異本の類を破棄することなく並記していた。それぞれの文化圏で異本、異説(異端)に対する対処の仕方が大きく違っている。勿論、一神教と多神教といった基本的違いもあるが、同じ一神教の世界でもキリスト教圏とイスラーム世界では対応が違うことは注目に値する。

具体的に古事記、日本書紀本文、そして日本書紀異本の違いを「神功皇后伝説」を例にとり比較してみよう。

<登場する神様>
1)日本書紀第1の1書;向◯男聞襲大歴五御魂速狭謄尊、底筒男神、中筒男神、表筒男神
2)古事記;天照大神、底筒男神、中筒男神、上筒男神
3)日本書紀本文;◯賢木厳之御魂天疎向津媛命、稚日女命、於天事代玉◯入彦厳之事代主神、底筒男神、中筒男神、上筒男神  『日本古代の神話と歴史』p89より、

底筒男神、中筒男神、上(表)筒男神などの住吉三神は共通だが、あとの神様がそれぞれ違う。 中でも「日本書紀第1の1書」の神様(向◯男聞襲大歴五御魂速狭謄尊は田舎出の神様。 またこれまでの研究から時代順は <日本書紀第1の1書→古事記→日本書紀本文> と推定されているそうで、そうだとすれば地方の神様から次第に中央の、より普遍的な神様に登場人物ならぬ登場神が変化しているのが判る。 

これは 『九州者が大和朝廷の天下統一の片棒を担ぎ出世したことで、彼等の祭る地方の神様が日本の神様に昇格した』 ことを意味するとか。 ような九州者の1豪族に、後に大和朝廷の水軍を束ねた「阿曇連」がいる。 彼等が本拠地を関西に移してもなお、故郷を懐かしんだことが万葉集に詩われている。p154

「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも、われは忘れじ志賀の皇神」万葉集1230

彼等が祭ったのは志賀島にある小さな志賀海神社だろうと考えられている。 この島は奴国の金印が見つかった島。現在では砂州により陸続きになっている。
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2006/3/29

『神話学と日本の神々』  お勧めの1冊

平藤喜久子著、弘文堂、2004年 紹介記事には『日本神話の比較神話学的研究、今日の到達点;日本神話が他の国々や民族の神話と比較して研究されるようになったのは、1899年(明治32年)のことでした。以来、日本の比較神話学は100年余の歴史を持っています。本書の第1章と第2章はこの比較神話学研究史、第3章以後はフランスの神話学者デュメジルの神々の三機能説の検討を軸に、著者独自の分析が行われます。日本神話の二大神族、天神と国神の分類の論理と三機能体系との関係、デュメジルの研究視点がそのまま日本神話に適応出来るのかを論じた後に、4章は彼の理論が神話だけでなく、日本の歴史的伝承についても適応が可能か、神功皇后をめぐって展開した注目の論考』とある。

前半部分には、明治時代に始まった日本神話研究を現代まで、日本神話研究史とでもいうものが紹介されている。 その中には最近の傾向としてユング心理学などの方法論も紹介されている。しかし、私にはもう1つ抜けていることがあるような気がする。

生物学を生業とする者にとっては、「ゲノム研究」も取り入れることが出来ると考えている。例えば縄文時代の遺跡から発見された稲の遺伝子解析で、これが朝鮮半島で栽培されていた温帯ジャポニカ米より東南アジアの焼畑で栽培されている熱帯ジャポニカが多いということが判っている。 また時代を下って弥生時代でも両者が混在しているとか。「稲」と「日本神話」とは切っても切れない関係。こういったことからも神話研究は進めていくべきだろう。先に紹介した『稲作文化の世界観』にも同じことを感じた。
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060225/archive
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2006/3/29

『人々のイスラーム;その学際的研究』  お勧めの1冊

日本放送出版協会 1987年出版 片倉もとこ編。 広範なイスラーム研究者による短編論文集。紹介記事には『中東の人々を支えるイスラームの現実の姿を初めて明らかにする画期的論集』とある。

キリスト教では異端の問題が何度も大きく取り上げられた歴史がある、それに対しイスラーム世界では一般に異端はあまり大きな問題とはなっていない。 後藤晃氏の『イスラームは歴史の中で何を棄てたか』の章は直接異端の問題ではないがそれなりに非常に面白い。

「コーランの異本の存在を抹殺しようとする動きは10世紀までイスラーム世界に無かったが、ウスマーン正本のコーランを法源とする法学の発達とマドラサの普及はこのような異本を自然消滅させた」p160

「コーランには1つの法的なことがらについて矛盾した文言がしばしばある。 イスラーム法学では、その矛盾を、時期的に先に啓示された文言を後に啓示された文言が取り消している、とみなして解決する・・・10世紀の人タバリーなどは・・・対立する複数のハディースを引用して『どのハディースが正しいかは神のみぞ知り給う』として判断を停止している」p162 著者は、

「法学の発展とマドラサのシステムの普及は、10世紀まで知識人がもっていたコーラン理解の多様さ、柔軟さを棄て、ムハンマド(マホメット)理解のそれをも棄てていった」p163

と述べ、イスラーム世界において11〜12世紀頃普及したマドラサが、イスラームの枠組みの固定化を引き起こしたと述べている。 果たしてこのようなことは同じ頃西欧で発展した大学において起こらなかったのか興味あるところだが、おそらくキリスト教圏では既に公会議によりそれまでに多くの異端とされた説(アリウス派、単性派、ネストリウス派等)が排除されていたので事実上問題がなかったのだろう。 それにしてもキリスト教圏に比べ穏やかに異説、異端の類は処理されていったという感じがある。

カトリックでは「聖人」の存在がある。イランに於てもそれに相当するものが存在するとのこと、上岡弘二氏による『イランの民間信仰の聖所をめぐって』によれば、

「聖所の多くが、イスラーム以前のゾロアスター教のそれを引き継いでいる」p272  
「聖所には、ところ狭しとまでに、多色彩の聖像画がはってある」 p281とし、
その中にはあの予言者ムハンマドすらあるとのこと。 彼はモスクと聖所の区別に関してこのように簡潔に表現している。

「レクリレイションを兼ねて、ピクニックについでに(聖所に)参詣するのも一般的である。ちなみに、レクリレイションを兼ねてモスクに行くことはない」p261 

このような状況はイラン以外でもあることについては北アフリカでの聖者信仰で実証されている。それについては次に述べたい。

いずれにせよ、我々のイスラーム世界に関する情報はしばしば公的イスラームについてのものでこのような土着のイスラームについてのものが少ない。
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2006/3/28

『中世ヨーロッパの歌』  お勧めの1冊

「豊かな歌声に満ちていた中世が蘇る」とのタイトルに引きつけられる。 ピータ.ドロンケ著 水声社出版。2004年7月初版。 紹介記事には『宗教詩歌と世俗歌謡との関係を強調し、世俗歌謡が11世紀に突然発生したのでなく初期中世から盛んに歌われていたとの推論が導き出されているとのこと。これはさきに南仏のトルバドール歌謡が実はグレゴリオ聖歌に起源を持つとの説「準典礼歌起源説」と同じ。 『トルバドール』より
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060305/archive

表紙には写本の挿絵からか、貴婦人とヴァイオリンのようなものを奏でるジョグラル、それに中央には踊り子。踊り子の官能的な肢体はフラメンコのムーブメントそのもの。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4891765216.09.LZZZZZZZ.jpg

著者は云う『・・聖俗の別なく、中世の詩歌は、非常に深い意味で、一つの同じ伝統を共有する二本の織り糸とみることが出来るだろう・・・』p62 記録上、最初に賛美歌が西欧世界に登場したのはアンブロシウスによってミラノにて。 その時の情景を聖アウグスティヌスは「告白」に記す。p74 訳は先の「キケロ」の高田康成氏。 

日本語版序文に著者は、古代日本の万葉集の相聞歌と中世初期ドイツの対話詩との近似を述べる。p11 時空を超えて東西の詩歌に限りない類似性を見い出す時。文明の衝突とも言われる今日の世界情勢に何らかの解決法があるはず、と期待するのは余りにも情緒的過ぎるか?

トゥルバドゥールとして有名なアキテーヌのギョーム(AD1071-1127)には二人の愛人の名前を記した以下のようなあからさまな詩がある。 

『拙者には見事な馬が二頭あり、おのおの乗りこなしておる。・・・はてさてどちらを採るべきか、途方に暮れる、アニュスにすべきかエルマンサンにすべきか!』

著者はこの詩のメロディーと形式が賛美歌から採られたものだとするが、それを論証する記載はない。p242-3 しかしこれは以前話題にした『トゥルバドゥール』からのものだろう。因みに、アベラールは当代一流の詩人として評価されているが、彼自身の愛の詩は現存していないとか。ただ宗教詩が2編現存するのみ。p113
 
本の内容から外れるが、私が不思議に思うのは、詩が2編しか現存しないのに何故ロマネスク時代一流の詩人としてアベラール評価されているのか不思議である。エロイーズの贔屓目の書簡によるもの故か?

著者は最後に中世詩の研究に関して、安易な一般論や総論で片付けることの危険性を説き、詩作そのものの詳細な解析の必要性を説かれて以下のように述べられていますが、これは西欧中世詩研究に限らず全ての分野で共通すること。

『・・研究のモットーは、アビ・ヴァールブルグの「神は細部に宿る」でなければならない。』p504
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